連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第35話 田中小実昌さんの偉さ

連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第35話 田中小実昌さんの偉さ

名作誕生の裏には秘話あり。担当編集と作家の間には、作品誕生まで実に様々なドラマがあります。一般読者には知られていない、作家の素顔が垣間見える裏話などをお伝えする連載の第35回目です。今回は、「コミさん」の愛称でも知られ、その多彩な作風から複雑な経歴を持つ人気作家、「田中小実昌」さんとのエピソードについて。時代背景を如実に切り取り、リアルかつ面白さに思わず舌を巻く描写の数々には、唯一無二の個性が光ります。担当編集者だけが知る秘話に注目です。


 作家の田中小実昌さんは、牧師の子として生まれた。その後、東大の哲学科に入学したり、進駐軍のベースに勤務したり、バーテンダーや香具師(やし)や易者として生活したり、アメリカの推理小説を翻訳して、早川書房のポケット・ミステリとして刊行したり、まことに複雑な経歴の持ち主である。

 だから、田中さんの担当者になると、思いもつかない経験ができたり、不思議なところに案内されたりすることがあった。

 私は、1968年4月に講談社に入社、その年の6月に「小説現代」編集部に配属になった。小説雑誌の編集者は、担当作家を持ってナンボのものである。配属されたての私には、担当作家もいないし、忙しく出入りをする先輩たちはほとんど口をきいてくれないしで、編集部の本棚に並んでいる「小説現代」のバック・ナンバーを読んで、1日を終える暮らしをしていた。

 8月のはじめの頃だったと記憶しているが、副編集長の大村彦次郎さんが声をかけてくれた。

「今度の日曜日は予定がないかな」

「はい、なにもありません」

「だったら、田中小実昌さんの出版記念会の手伝いに来てくれないか」

「はい。うかがいます」

 これが、編集者としてのはじめての仕事ということになる。

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 私は、そのとき、田中小実昌さんのことは、なにも知らなかった。

 田中さんは、はじめての短篇集『上野娼妓隊』を、1968年の8月5日に講談社から出版していた。

『上野娼妓隊』は、9つの短篇を収録している。

 はじめの1篇の『上野娼妓隊』は、敗戦から3年経ったばかりの昭和二十三年十一月、ときの警視総監だった田中栄一氏が、はじめに浮浪児のカリコミ(街頭の浮浪者や売春婦などを警察がいっせいに検挙すること。)を見学して、その後、夜の上野公園を視察した。その最中に、総監は、「夜の男」の群れと遭遇して、それに当時パンパンと呼ばれた街娼たちが加わっての乱闘になった。それが新聞沙汰になったのをもとに、書かれた作品である。

 この作品は、さまざまな隠語が、ルビを振られて使われていて、大学を出たての私には遠い世界のことが描かれていると思ったものだ。

 たぶん、出版記念会は1968年の日曜日、8月18日だったと思う。

 会場は浅草のストリップ劇場の「ロック座」だった。はじめての仕事の現場が、浅草の有名なストリップ劇場のロック座だぜ。仕事で、ストリップ劇場に公然と出入りできるなんて、小説雑誌の編集は、なんていい商売だと思った。

 田中さんの『上野娼妓隊』には、『バタフライのかげで』と『ヒモ学校同窓会』の2篇に、主にストリップ劇場を舞台にして、ストリッパーたちの物語が書かれている。ロック座は、田中さんの人脈で貸し切ることができたのだろう。

 当日のロック座はほとんど満席だった。私の役は、貸衣装屋と劇場を往復したり、劇場に詰めかけている出席者たちに、紙の箱一合入りの日本酒を配ることだった。

 座席を縫って、酒を配っていると、観客の中に、雑誌のグラビアでしか見たことのない、吉行淳之介さん、田辺茂一さん、梶山季之さんなどの顔が見えるのに驚かされた。

 やがて場内が暗転するや、1945年8月15日の皇居前の広場の写真が、舞台のうしろいっぱいに大写しになった。玉音放送を聞いた大勢の人々が、土下座している有名な写真だ。そのとき、私は気がつかなかったが、舞台の上にモンペ姿の女性が3人、写真と同じようにうずくまっていた。

 場内が明るくなり、賑やかなリズムの音楽が流れると、その女性たち3人は立ち上がり、音楽に合わせて、体をくねらせながら、モンペを脱ぎ捨て、バタフライショーツ一枚になった。ストリップ・ショウのはじまりだった。

 舞台は行水ショウに変わった。お湯をはった大きなたらいの中で、全裸のストリッパーが行水をしている。

「どなたか行水を手伝ってください」

 と、アナウンスがあって、場内のあちこちから、

「梶山だ」

 と、声が飛んだ。

 頼まれるとイヤと言えない、侠気の(おとこ)、梶山季之さんのこと、さっさと舞台に上がった。流石におずおずと行水をしている踊り子に近寄ると、泡立つスポンジを渡され、踊り子の背中を流した。

 盛大な拍手に迎えられて、梶山さんは席に戻った。

 そのあと、会場で、どんなことがあったのか、雑用にかまけていたので、あまり記憶にない。ただ、我が家には、田中さんらしい心のこもった、しかし、はにかんだようなペン字で、私の名前と田中さんのサインがしてある『上野娼妓隊』の初版本がある。たぶん、私が、休日なのに出勤して、雑用をいろいろ手伝ったことに対して感謝の意を込めてくれたものだと思う。

 ところで、『上野娼妓隊』の9篇の中に『新宿特攻隊』という作品がある。

 ねえさんに新宿の共同便所で助けられた主人公は、ねえさんの尻にくっついていき、香具師(テキヤ)になってしまう。ねえさんの亭主が、関東宮島連合会の加古川一家の親分であるが、この一家は香具師の元締めをしているようだ。

 私が田中さんの担当になってからのある日、田中さんに、

「香具師の元締めの親分の家に行くけど、一緒に行くう」

 と、誘われた。

 香具師の元締めの親分の家なんて、田中さんと一緒でなければ、行くことがないはずだ。喜んでお供することにした。

 たしか、錦糸町あたりの下町だった。

 道々、田中さんは、

「その親分は人を殺したことがあるんだよ」とか「そのねえさんのおかげで、ぼくは香具師になったんだ」とか話してくれた。

 田中さんに教わった香具師の口上で、私が好きなのは、

「ご当地は死んだ女房の(さと)、どなた様も他人とは思えません」

 である。これは口上の一番先に言うセリフだが、香具師はどこの土地へ行っても、このセリフを語り出す。その場その場が、ご当地になり、死んだ女房の(さと)になるのだ。

 親分の家は和風の広々とした家だった。畳の上に座っている親分は、ステテコとランニング・シャツを着ていて、骸骨の見本みたいに痩せこけていた。

 親分は無口な人だったが、ねえさんは下町言葉で、まくし立てるように話した。そして、しばらくして、

「コミちゃん、私たちの代わりに、区議選に当選した先生の祝賀会に行ってくれない?」

 と、頼み込んだ。

 私が同行してもいいと言われては、田中さんも引き受けざるを得なかった。

 私たちは、

「香具師の親分が応援している議員なら、自民党かな」

 などと言いながら、祝賀の会場に向った。

 あにはからんや、その議員は、いわゆるドブ板を丁寧に回り、細々としたことでも相談に乗ってくれる共産党の議員だった。香具師の親分と共産党の議員──腑に落ちるような、そうでないような組み合わせだ。

 

 野坂昭如さんが、自著『文壇』の中で、田中小実昌さんに新宿駅南口のドヤ街に道案内されたことを次のように記述している。

新宿駅南口の向こう側、戦前からのドヤ街の一軒。(略)ドヤ街の店は古い簡易宿泊所の並ぶ裏、人一人体横向けて入り込む隙間を通り、まったくのバラック。常に満員だが、慣れぬうち、誰が客、店の者だか判らず、しばらくして双児の、娼婦でもある女以外、すべて身体不自由な四人が金を取る側と見当つき、となると客はまず二、三人、六畳ほどの広さ。

 いまは、開発が進んで、まったく様変わりしている南口だが、私は、当時の新宿南口の旭町のドヤ街の一軒に田中さんに連れて行ってもらったことがある。

 新宿の旭町のドヤのことは、『上野娼妓隊』の一篇、『見果てぬ夢』にて触れられている。

 それからなん日が経って、私はひとりで、この店に行ってみた。そこで繰り広げられた、外人相手の娼婦と男娼の凄まじい口喧嘩に呆気に取られたり、チンピラみたいな青年に電話代をたかられたりしてうちに、そこの女将が、

「あんた、この間、コミさんと来た人でしょ。だけど、ここはひとりで来ちゃだめよ。あぶないからね」

 と、忠告してくれた。なるほど、しょせん、私には無理な場所なのだ。

 そこで見かけた、口のきけない娼婦は、のちに直木賞を受賞する、『ミミのこと』のミミのモデルではないかと思う。(小説では、耳の不自由な娼婦となっているが。)その口のきけない若い娼婦から、田中さんに電話がよくかかってきていたが、その無言の通話が判るのだから田中さんらしいと私は思った。

『ミミのこと』と併せて、『浪曲師朝日丸の話』が直木賞を受賞したが、その頃、田中さんは、「小説に題は要らないんじゃない」と言い出した。

「クラシック音楽の題はなくて、作品何番ってあるじゃない」

 とは、田中さんの言い分だった。

 しかし、編集長になっていた大村彦次郎さんは、ひと言、「題も原稿料のうちだよ」と言った。なるほど。それを、そのままを田中さんに伝えると、「それじゃあ、あなたがつけてよ」と言われて、私がつけたのが「浪曲師朝日丸の話」である。それが直木賞受賞作になって、ホッとしたことを覚えている。

 直木賞受賞決定の夜、田中さんがよく行っていた、新宿ゴールデン街の「まえだ」というバーに集まったのは、作家の水上勉さん、野坂昭如さん、俳優で、エッセイストの殿山泰司さんと、それに、「まえだ」の常連客だった。

 そう言えば、田中さんの自宅の隣に住んでいた画家で、義兄の野見のみやま暁治ぎょうじさんは、最晩年に、「コミちゃんが亡くなってから、ゴールデン街が寂しくなって行かなくなったんだよ」と嘆いていた。ちなみに野見山さんは、『上野娼妓隊』の装幀をしている。

 文藝春秋の専属カメラマンが、その夜の「まえだ」に集まった人々を撮った写真がある。それは、田中さんの作品と人柄とに惹かれて集まった人たちで、「まえだ」のドアが閉まらないほどだった。その閉まらないドアのところにいる殿山さんの肩に手を置いた私が写っている。

 殿山さんは、ボケット・ミステリの愛読者で、とくに田中さんが訳したものをジーンズの尻のポケットに入れて、ジャズ喫茶に行っては、読み耽っていた。ふたりを最初に引き合わせたのは私だというのが、数少ない自慢のひとつである。

「小説現代」のグラビア・ページで、「トレードマークでこんにちは」という企画を提案して、ふたりが新宿のストリップ劇場の楽屋で並んでいる写真を撮った。トレードマークとは、もちろん「光頭」である。ふたりは、初対面とは思えないほど、すぐに打ち解け、それから友だちつきあいをした。

 

 吉行淳之介さんが、私に言ったことがある。

「田中小実昌さんは、どんな人でも目線をフラットに見るんだ。そんなことはなかなかできるものじゃない。えらい人だ」

 もちろん、田中さんは吉行さんが言う通り「偉い人」だが、それを見抜いて「偉い人」と言う吉行さんも、私は「偉い人」だと思っている。

【著者プロフィール】

宮田 昭宏
Akihiro Miyata

国際基督教大学卒業後、1968年、講談社入社。小説誌「小説現代」編集部に配属。池波正太郎、山口瞳、野坂昭如、長部日出雄、田中小実昌などを担当。1974年に純文学誌「群像」編集部に異動。林京子『ギアマン・ビードロ』、吉行淳之介『夕暮れまで』、開高健『黄昏の力』、三浦哲郎『おろおろ草子』などに関わる。1979年「群像」新人賞に応募した村上春樹に出会う。1983年、文庫PR誌「イン☆ポケット」を創刊。安部譲二の処女小説「塀の中のプレイボール」を掲載。1985年、編集長として「小説現代」に戻り、常盤新平『遠いアメリカ』、阿部牧郎『それぞれの終楽章』の直木賞受賞に関わる。2016年から配信開始した『山口瞳 電子全集』では監修者を務める。

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