連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第31話 村松友視さんの作家の佇まい

連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第31話 村松友視さんの作家の佇まい連載

名作誕生の裏には秘話あり。担当編集と作家の間には、作品誕生まで実に様々なドラマがあります。一般読者には知られていない、作家の素顔が垣間見える裏話などをお伝えする連載の第31 回目です。今回は、敏腕編集者として多くの名作を世に送り出しただけでなく、自身でも長篇から様々な作品を執筆し、直木賞受賞者でもある村松友視さんとのエピソード。不思議な縁を感じずにはいられない関係性の作家であったことを、担当編集者として振り返ります。


 作家となるには、同人誌で鍛えるか、出版社がやっている新人賞に受賞してデビューするかなど、道はいろいろあった。

 中上健次さんは、勝目梓さんや林京子さんや津島佑子さんなどと、保高徳蔵やすたかとくぞうが主催する『文藝首都』という同人誌で腕を磨いて、作家になった。同人誌全盛の頃の話だ。

 処女作か、あるいはそれに近い作品でいきなり新人賞に応募してデビューした作家の代表は、村上龍さんや村上春樹さんであろう。

 昭和のテレビのドラマで、小説家が出てくる場面では、書き損じの原稿用紙を丸めては部屋の隅の屑籠に捨てる場面がよく見られた。それで、その役者が演じているのは、小説家だと分かったモノである。

 しかし、はじめての小説で新人賞を突破したふたりの村上さんは、それ以後も、反故ほごになる原稿用紙は書いたことがないのであろう。

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 それとは別のルートで作家になった人には、たとえば、吉行淳之介さんがいる。吉行さんは、作家になる前は、『モダン日本』という娯楽雑誌の編集者をしていた。経営が思わしくなく、稿料の支払いが遅れた詫びをするのが苦労の種だったようだ。

 ただ、『モダン日本』の編集者として、吉行さんは、鈴木義司(よしじ)さんや富永一朗さんなどの漫画家を見出したことを、自慢話として語っていた。ユーモアを解する才を持っていたのだ。

 その吉行さんを、中央公論社の文芸雑誌「海」の編集者として担当していたのが、のちに直木賞作家となる村松友視さんだ。つまり、村松さんは、吉行さんと同じような軌跡を歩んで作家になったのだ。

 その村松さんと同じ時期に、私も文芸編集者として働いていた。つまり、一種のライバルだったわけである。しかも、ふたりとも吉行淳之介さんや野坂昭如さんなど担当作家がダブっていた。

 吉行さんが「海」に、西鶴の『好色一代男』の現代語訳を連載したが、その担当は村松さんだった。吉行さんは、楽しみながら、その仕事をしていた様子だった。村松さんとの会話のやり取りも楽しんでいたようだ。

 私は、ある日、吉行さんに、不逞(ふてい)なことを言ったことがある。

「『戦後派』の作家と、吉行さんた『第三の新人』の作家の違いは、知的かどうかなんじゃないですか。『戦後派』の作家は、ほとんど外国語の作品の翻訳がありますよね。それに比べて、『第三の新人』の作家にはそれがないんじゃないですか」

 若さゆえの暴言だと、いまでは思う。その時の吉行さんはしばらく黙っていて、

「ぼくは西鶴の現代語訳しているよ。それじゃだめかな」

 と言った。

 見事な返球だった。

 編集者だった頃の村松さんは、独特のセンスを発揮する文芸編集者だったし、ほかの人にはない雰囲気を持っていた。

 嵐山光三郎さんや南伸坊さんたちと、村松さんが育った清水市から取り寄せた「生しらす」を食べる会を開いていたと聞いたし、唐十郎さんとも付き合いがあって、「海」に小説を載せたりもしていた。そんな交際は、当時の私には考えられないことだった。たとえば、唐十郎さんは、私からすれば、はるかに遠い存在だったのだ。

 村松さんの文芸編集者としての仕事は、武田泰淳の『富士』、後藤明生めいせいさんの『夢かたり』、田中小実昌さんの『ポロポロ』、色川武大さんの『生家へ』、武田百合子さんの『富士日記』など、いま見ても、一癖も二癖もある作品群である。

 村松さんの生き方は、どこかに根を下ろすことなく、常に旅人という感じで生活をしている感じがした。たぶん私たちの世代の持っている感性なのかも知れない。

 私にとって、村松さんにその感じが濃厚と思えたのは、村松さんが流行作家だった村松梢風の孫であり、しかも、生まれる直前に父を亡くして、梢風の妻で村松さんにとっては祖母になる人に育てられたというような不思議な経歴を生きてきたことに原因があるのかもしれない。

 それは、村松さんの小説『鎌倉のおばさん』や、最新作の『揺れる きざはし 』に詳しい。

 そして、そのことをよく表現している小説が、直木賞を受賞した直後に講談社から出版された書き下ろし長篇小説『サイゴン・ティをもう一杯』だと思う。戦争渦中のベトナムをふらりと旅行した村松さんが経験したことが素材になっている小説だが、主人公がたまたま入ったバーで、自分についたベトナム人のホステスが、カクテルと称するサイゴン・ティを飲んでいる。どうやら、自分がついた客にサイゴン・ティを奢らせることで、歩合の入り方か違うらしい。

 そのバーがベトコンに襲われる。とっさに身を隠して我が身の安全を確保するホステスの地についた生き方に感動すら覚える主人公は、ホステスが飲んでいるサイゴン・ティを味わってみる。単なる紅茶だと知るのだが、主人公は、戦争さなかのサイゴンにいてもあやふやな、旅人としての生き方を演じるしかないのである。

 村松さんの書くもののキーワードは、「気配」「非日常と日常」「夢」「ポーズ」「演じ方」「ライブ」などである。こうしてキーワードを並べて見ていると、村松さんのこだわったものが浮かび上がってはこないだろうか。

 編集者だった村松さんが『私、プロレスの味方です』という本を出して、それがベストセラーになっても、私には不思議でなんでもなかった。いずれはモノを書いていくのだろうなと思っていたわけではないが、なんとなく得心がいくことだった。

『私、プロレスの味方です 金曜午後八時の論理』(1980年、情報センター出版局刊)でも、村松さんによるアントニオ猪木流のプロレスの見方を指南しながら、早くもウソとマコトが相半ばする、いわば、虚実皮膜の境目を逍遙する村松世界を見せている。

 遅筆の野坂昭如さんを同じく担当していたから、神楽坂の毘沙門天の向かい側の、人ひとりが通るのが精一杯の路地で、村松さんとすれ違うことがあった。この路地の奥の、和可菜という旅館に自らカンヅメになった野坂さんを、村松さんは指定された時間に訪ねて帰るところだった。

 私が、村松さんに鋭い視線を投げるのは、野坂さんの原稿を一枚でも手にしていないかを探るためで、村松さんが手に一枚の原稿も持っていないということは、原稿を一枚ももらえず、すごすごと帰ることを意味している。

 そうなら、私は、

「そうか、だったら我が方の原稿がいくらか進んでいるはずだ」

 と、希望と余裕を持って、狭い路地を身をよじって、すれ違う。

 もちろん、野坂さんは名うての遅筆家であるし、しかも平等の人であるから、私の希望と余裕は無残に打ち砕かれ、村松さんと同様に空手(からて)で、私も、狭い路地をすごすごと帰る羽目になるのである。

 村松さんが作家になった時、吉行さんから、編集をやっていた人間が、本当の意味で作家になるには、編集をやっていた期間と同じ時間が必要だと言われている。

 たとえば、数人で居酒屋に入って、席に座るとき、編集者はどこが上座で、そこに誰が座ったらいいかとか、ほかの人がどこに座れば、全体が落ち着くかという神経が働いてしまう。いわば、編集者の職業病とでも言うべきか、サガとでも言うべきモノだろう。

 村松さんは、17年くらい中央公論社で編集者をやっていたので、吉行理論によれば、この編集者のサガが完全に抜け切って作家特有の神経のあり方が身に付くのに17年はかかる計算になる。

 村松さんは、編集者の佇まいと作家の佇まいが、気になって仕方のない作家である。

 ある時、温泉地の旅館に、作家を名乗る男が連泊したという詐欺事件があった。その男の、いかにも作家らしい佇まいに女将や中居さんたちも感動していたが、色紙を書いてもらった時、その字にいかにも作家らしい趣がなく、宿の人たちははじめて疑念を持った。それを察した作家を名乗る男は、いち早く遁走を試み、しかし、残念なことに、山狩りに遭って逮捕された。

 この事件を知るや、村松さんは、宿の人をたぶらかしてしまう作家らしい佇まいとは如何なるものかと考えた。しかも嘘がバレる色紙に書いた文字に作家らしい趣がない、とはどういう字だったのだろうとも考えた。

 村松さんは、俳優の高倉健に似ていて、作家には珍しいくらいの美男である。そのことが、作家としての重厚な風情を欠いていることに繋がるのかも知れない。それはともかく、村松さんは、その温泉旅館にわざわざ出かけて行って、作家たる風情を研究してみるのである。

 村松さんの代表作の一つに『夢の始末書』がある。編集者として付き合った作家たちの思い出を、自伝的に書いた小説とも随筆とも読める作品である。

 登場する作家たちの生態が、特に興味深い。中でも、私の思い出に残っているのが、野坂昭如邸の『インターフォン引きちぎり事件』である。

『夢の始末書』からの引用を許してもらおう。

「もはやすべてのページは校了となり、野坂昭如の部分だけを空けて待っている……そんな状態のある日の午前二時のことだった。

 インターフォンを押して、

『海のムラマツですが……』

 と言うと、

『はい……』

 観念したような声がして、野坂昭如が門まで出て来た。

(略)

『なんとか今晩中に最初の部分でもスタートしないと完全にアウトなんですよ』

『…………』

『どうでしょう』

『それじゃあ、あと二時間くらいたったら来てくれません』

『二時間というと午前四時ですね』

『そのインターフォンを、ぼくの部屋につないでおきますから』

『大丈夫ですね』

『そのとき、出来ているだけお渡しして、それからあとはピストン輸送で……』

『じゃ、四時ジャストに来ます』」

 こうして、約束は取り付けたが、この時間に最寄駅・西永福の近くで時間をつぶすのに適当な店は見つかりにくかった。仕方なく井の頭通りに出たところにある終夜営業の焼肉屋で、店の人の胡散臭い視線を気にしながら、焼肉を食べ、ビールを飲んで過ごす。

 そして、村松さんは、四時ジャストに野坂邸の門前に立つ。そして、インターフォンを押そうと伸ばした人差指の先に、信じられないことを発見するのである。

「野坂昭如が午前四時に押してくれと言った、そのインターフォンがないのだ。人差指の前には、インターフォンが引きちぎられたあとの、赤と白のコイルが二本、月の光の中にあざやかに跳ね上がっていたのだった。」

 これを見た村松さんは、

「俺の負けだ……」と思い、

「インターフォンが引きちぎられたあたりの門柱には、何やらコンクリートに引っ掻き傷のごときものが残っており、インターフォンを引きちぎるのが、容易な作業ではないことを物語っているようだった」ことを検分しながら、

「(そんなにまで用心深く手の込んだ力仕事をするくらいなら、原稿を一枚でも書いて渡した方が楽だろうに……)

 そんな気持ちが、おかしさと共にこみあげてくる。だが、この不思議な意識の流れと行動こそ、野坂昭如という作家の資質の芯のようなものなのだ」

 と思うのである。

 私は、同じ日に、野坂さんの指定した時間、早朝の五時に野坂邸を訪れた。編集者の来訪の時間を巧みにずらす野坂さんの奸計ヽヽのせいで、私は、村松さんが味わったほろ苦いドラマのことはまったく知らなかった。そして、門のインターフォンの跡に剥き出しになった赤と白のコイルを眺め、善後策を素早くめぐらせた。インターフォンがつながらないなら、電話だ。もちろん、携帯電話がなかった時代の話である。

 私は、西永福駅とは反対の、京王線の桜上水駅に向かう途中の病院の前に、公衆電話のボックスがあるのを知っていたので、そこに走り込んだ。電話は野坂さんの部屋につながり、私は誰よりも先に原稿を手にすることができた。

 引きちぎられたインターフォンの前で、哲学的思索に耽った村松さんは17年の編集生活のあと作家になり、小賢しく立ち回ってうまく原稿をせしめた私は、37年も編集者生活を続けるのである。

 作家になった村松さんに、吉行さんは電話をかけてきて、「作家になっても編集者の時と同じように電話をかけてきてもいいんだよ」と言ったと、村松さんは随筆にそれを書いている。とてもいい話だと思う。

【著者プロフィール】

宮田 昭宏
Akihiro Miyata

国際基督教大学卒業後、1968年、講談社入社。小説誌「小説現代」編集部に配属。池波正太郎、山口瞳、野坂昭如、長部日出雄、田中小実昌などを担当。1974年に純文学誌「群像」編集部に異動。林京子『ギアマン・ビードロ』、吉行淳之介『夕暮れまで』、開高健『黄昏の力』、三浦哲郎『おろおろ草子』などに関わる。1979年「群像」新人賞に応募した村上春樹に出会う。1983年、文庫PR誌「イン☆ポケット」を創刊。安部譲二の処女小説「塀の中のプレイボール」を掲載。1985年、編集長として「小説現代」に戻り、常盤新平『遠いアメリカ』、阿部牧郎『それぞれの終楽章』の直木賞受賞に関わる。2016年から配信開始した『山口瞳 電子全集』では監修者を務める。

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