連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第33話 画家・村上豊さんとの付き合い
![連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第33話 画家・村上豊さんとの付き合い](https://shosetsu-maru.com/wp-content/uploads/2025/08/secret-story_33_banar.png)
名作誕生の裏には秘話あり。担当編集と作家の間には、作品誕生まで実に様々なドラマがあります。一般読者には知られていない、作家の素顔が垣間見える裏話などをお伝えする連載の第33回目です。今回は、画家・村上豊さんとの交流について。その作風は素晴らしく、挿絵としても作品に彩を加える重大な枠割を担っていました。文芸作家、編集者の枠内に留まることなく、交流の輪を広げていったエピソードには、心が温まります。
我が家では、玄関の壁にかけてある絵を、季節によってかけ替える。
それはこんな風だ。
1月には、10 センチ四方の小さな色紙12 枚に描かれた十二支を、6枚ずつ横に並べて二段にして額装したものをかける。この額は、一番大きくて、幅が1メートル半ほどある。
ちなみに、十二枚の色紙には、子(ねずみ)、丑(うし)、寅(とら)、卯(うさぎ)、辰(たつ)、巳(へび)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(いのしし)の十二支が、それぞれ、どことなくユーモラスに描かれていて、新年を迎えるのに、まことにふさわしい。
3月になると、女の子の節句。可憐な顔をしたお雛様の絵にかけ変わる。いかにも桃の節句らしく、桃色の和服を着たお雛様で、少しウキウキした気分になれる。
5月は、もちろん、男の子の節句らしく、金太郎の絵に変わる。それが2種類あって、ひとつは熊に跨ってマサカリをかついだ金太郎、もうひとつは、可愛いおちんちんから勢いよく小水をとばしている金太郎だ。こちらの気分によってどれにするか決まる。
6月ともなると、梅雨のシーズンらしく、河童が蓮の大きな葉を傘にしている滑稽な絵柄に変わる。
9月には、ニューヨークの夜景。摩天楼の窓に明かりが灯っている。
10月は、紅葉に彩られて海に浮かぶ島の俯瞰図。島の上に飛び交う鳥の名は、私には分からない。
そして、12月の半ば過ぎ、街にジングルベルの音楽が溢れる頃は、とてもいい笑顔のサンタクロースの絵がかけ替えられて、一年が終わるわけだ。
これらの絵はすべて、画家の村上豊さんが描いた作品である。ゴルフ会や画集の刊行記念など、さまざまな折に頂戴したもので、額装は村上さんに紹介された額装屋に頼んだものである。
村上さんの絵がかけられない月は、画家の黒田征太郎さんの抽象画と、小説家の山口瞳さんに紹介された陶芸家の竹中浩さんが描いた植物画などがかけられる。
また、居間には、村上さんから送ってもらった絵葉書が、9点ずつ、植物と動物に分けて、やはり額装にしたものが4点かけてある。近寄ると、毛筆で、村上さんの時候の挨拶などが書かれているのが読める。
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私は、村上さんは挿絵の天才だと思っている。私がまだ編集者に成り立ての頃、先輩編集者にことづかって村上さんのアトリエに挿絵を受け取りに行ったことがある。
「ちょっと待ってね」
髪を短く刈り込んだ、大柄な村上さんは、はじめて会った私には、お坊さんのようにも見えたし、どことなくヤクザの親分にも見えた。
かしこまって、そばの椅子に座っていると、村上さんは短い短篇小説のゲラにサッと目を通すと、下書きも無しに、ケント紙2枚に、細密画用の筆でサッと描き上げた。
「はい。お待たせ」
渡された2枚の挿絵は素晴らしいものだった。描かれた人物画は生き生きとしていたし、端に描かれた「む.」というサインとの間の作られた空間も見事だった。
私は、短時間にこんな素晴らしい挿絵を描くなんてと、しばらく呆然としていたようだ。
「どうした?」
村上さんはやさしく私に声をかけた。絵を手にして固まった私に不審感を持ったのかもしれない。
こうした時の礼儀も碌に知らない駆け出しの私は、
「あ、ありがとうございました」
とだけ言って、挨拶もそこそこにアトリエから出て、編集部に戻った。
その時以来、村上さんは、挿絵の天才だし、空間の使い方の天才だと思い込んでいるのだ。
村上さんにこんな話を聞いたことがある。
「左端にちょっと娘が顔を覗かせている絵を描いてね、大きく空間をとって、右の隅に、『む.』とサインを入れて、渡したんだよ。そしたら、右のサインと空間は削られて、娘の顔だけ切り抜いて、縦に細く長く使われたんだ」
その人は、村上さんが工夫してわざわざ作った空間の妙を無視したわけだ。
「怒ったんですか」
「いや、あとでね、サインを削らないでねと頼んだよ」
どこまでもやさしい村上さんだ。やはり、見た目もそうだが、心根もお坊さんの方かも知れない。
小説雑誌の挿絵には3つの要素が大切である。ひとつは、絵が説明的過ぎないことで、その絵を見て、読者の読む気を無くすようなことは良くない。2つ目に、主人公たちの顔形や動きに「品」があること。そして、3つ目に、挿絵は、黒い活字が埋まっている中に、やはりモノクロで描かねばならないから、空間の処理が大事な要素となる。
村上さんは、その3つを軽々とこなした上に、歴史小説、時代小説、現代小説、恋愛小説、中国の歴史小説、そして、ユーモア小説などなんでもござれ、まさに編集者にとって、頼りになる画家なのである。
村上さんは1936年、静岡県の三島に生まれた。きちんと美術学校などで勉強をすることなく、ある意味、自己流の絵描きとして、その世界に入った。1960年、司馬遼太郎さんが直木賞を受賞したのと同じ年に「週刊サンケイ」に連載しはじめた『風の武士』の挿絵を描いたことがきっかけだった。
さらに、1962年に創刊した「小説現代」の表紙に絵を描くようになり、記録的に長い期間その任をこなした。当時の小説雑誌の表紙絵は、女性の顔のアップが多く、たとえば、「小説新潮」の表紙絵は、猪熊弦一郎氏が長い間、描いていた。
少し編集に慣れてきた私は、村上さんが描く表紙画の女性の顔の印象が変わるたびに、
「おや、また彼女が変わったんですか」
などと、生意気な口をきくようになり、村上さんを苦笑させたりしたものだ。
文士たちの間で、ゴルフが盛んになった時期がある。はじめに、夏の間、避暑に行っていた文士たち、丹羽文雄氏、柴田錬三郎氏、源氏鶏太氏などが、軽井沢ゴルフ倶楽部などで、ゴルフをやるようになった。軽井沢ゴルフ倶楽部は、政治家の宮澤喜一氏や白州次郎氏などがメンバーの名門コースで、講談社が文士のゴルフ会のスポンサーになったりしていた。
大岡昇平氏もゴルフに夢中になって、相模カンツリー倶楽部に日参して、奥様が娘の結婚のために貯金していた金を使い果たしたなどと噂が立つほどだった。
丹羽氏は腕をあげ、仲間たちから「丹羽学校」という呼ばれるようになった。
こうした風潮の中、若手の作家たちもゴルフをはじめ、「若手ゴルフ会」というような会が催されるようになった。
相模カンツリー倶楽部や武蔵ゴルフ倶楽部や横浜カントリーなどではシーズンごとに、三好徹氏、佐野洋氏、生島治郎氏、半村良氏、五木寛之氏、渡辺淳一氏、村上豊氏、安孫子素雄(藤子不二雄A)氏などの会が持たれた。
この会の面倒を見る人材が必要で、特に文芸畑の私などに白羽の矢が立ったようだが、学生の頃、ゴルフと同じくイギリス生まれの競技であるラグビーをやっていた私は、ゴルフなんて爺さんたちがやるゲームだと馬鹿にしていた。そしてなにか特権的なにおいも少ししていたのとで、やる気にならなかった。
ところがある夜、銀座の「まり花」という文壇バーに立ち寄った時、時間が早かったせいか、客は村上さんしかいなかったことがあった。村上さんの向かいに座って、四方山話をしているうち、自然とゴルフの話になった。村上さんが、
「なぜやらないの」
と訊いた時、私は、
「ゴルフなんて爺さんのおアソビに過ぎないでしょう」
といつもの論を展開した。村上さんは反論した。
「とんでもない。ゴルフはちゃんとやれば、立派なスポーツだし、第一、いろんな職業の人たちと仲良くなれるんだよ」
「いろんな人たちと……」
「そう、君なんか文芸だけの世界にいるけど、ゴルフクラブでは、いろいろな職業の人たちと話せるから、世界が広がるんだよ」
これは効いた。
実は、私は編集者として、文芸畑しか知らないので、視野が狭くなっていることに悩んでいたのだ。たとえば、文藝春秋の編集者は、短い期間に週刊誌や総合雑誌や純文学誌などいくつも雑誌の編集を経験するから、ゼネラル型の編集者になる。それをうらやましく思っていたところだった。
「そうか。世界が広がるか……」
私はその時から宗旨変えをした。ゴルフを始めたのである。
スポーツ小説を書いていた山際淳司氏も、ゴルフを始めたと聞いて、一緒に行ってもらった。これが私のゴルフ事初めである。
いろいろな役目を押し付けられるのが嫌で、秘密裡にやっていたが、そのうち、周囲に知れるようになって、若手ゴルフ会の世話をするように言われた。
その世話に慣れた頃、私は、村上さんに、講談社の文芸局と文庫局の編集者たちに、ゴルフをはじめている者が多くなったらしいので、「丹羽学校」ならぬ「村上小学校」と名付けて、連中にゴルフの礼儀などを教えてくれるように頼んだ。
村上さんは、私の変わりように驚きながらも、「村上小学校」のことは快諾してくれた。
会場は、村上さんがメンバーである新沼津ゴルフクラブにした。ここのロビーには、富士山の4つのシーズンが一枚のキャンバスに描き分けられている村上さんの油絵がかかっている。
東京駅で集合して、新幹線の「こだま」で、三島まで行って、タクシーに相乗りして、「新沼津」に行った。3組から、多い時で4組になった。
画家として、村上さんは画集と絵本を多く出版しているが、私は、画集の『四季』(1999年)、『墨夢』(2004年)、『遊』(2013年)と3冊を出版するお手伝いをした。
村上さんが千葉県市川市の真間山の襖絵を依頼されて描く時、私は村上さんに誘われて同行した。私は大きな硯に墨をする係だった。
村上さんは、白い襖2枚に、坊さんが笑い転げているユーモアたっぷりの絵を、これも下絵無しにサッと描き上げた。それぞれ笑い転げる坊さんのそばに、襖の空間を充分に活かすような場所を選んで、「和波波」「憂破破」と、踊るような筆致で書き添えた。
私は、遊び心に満ちた襖絵を眺めて、人生の憂きも辛きも笑い飛ばして、生きようとしてきた村上さんに、深いなにものかを教わったような気がした。
村上さんは、2022年、日経新聞の宮城谷昌光氏の連載小説『諸葛亮』の挿絵を描いていたが、完成を待たずに、7月22日に亡くなった。そのあとの『諸葛亮』挿絵は、原田維夫さんが引き継いだ。
【著者プロフィール】
宮田 昭宏
Akihiro Miyata
国際基督教大学卒業後、1968年、講談社入社。小説誌「小説現代」編集部に配属。池波正太郎、山口瞳、野坂昭如、長部日出雄、田中小実昌などを担当。1974年に純文学誌「群像」編集部に異動。林京子『ギアマン・ビードロ』、吉行淳之介『夕暮れまで』、開高健『黄昏の力』、三浦哲郎『おろおろ草子』などに関わる。1979年「群像」新人賞に応募した村上春樹に出会う。1983年、文庫PR誌「イン☆ポケット」を創刊。安部譲二の処女小説「塀の中のプレイボール」を掲載。1985年、編集長として「小説現代」に戻り、常盤新平『遠いアメリカ』、阿部牧郎『それぞれの終楽章』の直木賞受賞に関わる。2016年から配信開始した『山口瞳 電子全集』では監修者を務める。