昭和文芸を代表する流行作家『立原正秋』-直木賞受賞までの軌跡-

2016年12月。昭和文芸を代表する稀代の流行作家、「立原正秋」。その史上初の電子全集が配信開始されました。立原正秋の生い立ち〜芥川賞受賞までの軌跡をまとめます。

「立原正秋」の電子全集が配信開始

昭和文芸を代表する稀代の流行作家、「立原正秋」。その史上初の電子全集が、小説、エッセイ、対談はもちろん、関連エッセイ、論評、評伝まで、立原正秋のすべてを完全網羅した全26巻の完全全集として配信開始されました。

 

文芸作家、立原正秋とは

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立原正秋は1926年に朝鮮慶尚北道安東郡で生まれました。幼き日に父親を亡くし、母親が日本人と再婚した関係で、11歳で日本に渡り、中学、高校と横須賀で過ごした後、早稲田大学専門部に入学してまもなく、終戦を迎えました。この頃のことは、彼の自伝的作品『冬のかたみに』(第26回配信予定)中の「幼年時代」「少年時代」の章や、彼の分身ともいえる主人公・国東重行が中学、高校時代を回想する『猷修館往還』(同回配信予定)で詳しく述べられています。

 

差別により、屈折した青春時代を過ごした立原正秋

この時代は、朝鮮半島は“日本”だった訳で、朝鮮で生まれた立原氏が日本で生活するようになっても、別段不思議ではないのですが、やはり抜きがたい差別があったようで、彼自身、相当な秀才でありながら、地元随一の名門高校は、受験資格すら得られなく、屈折した青春時代を過ごしたようです。

そのことが、彼を読書三昧の生活に向かわせ、やがて自ら進んで文学の道を志し、後に世阿弥の「風姿花伝」(ふうしかでん)を小説作法の基本とするように、特に日本の中世文化へ深く傾倒して、揺るぎない「美」を求めていく姿勢の原点となったのかもしれません。

 

芥川賞候補にまで上り詰め、注目を集めた

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やがて、戦後、家庭をもち、終の棲家となった鎌倉の地に根を下ろして、本格的な作家活動を開始します。そして古都の美しい自然を舞台とした多くの作品で、男女の愛と情念の世界を展開していくようになります。

ただ、その名が世に知れるのには、雌伏の時が長く、その時間を要しましたが、1964年に「新潮」に発表した『薪能』が芥川賞候補作品となり、一躍、注目を浴びるようになります。

『薪能』は、没落寸前の旧家の終焉を闇夜に輝く篝火に象徴させ、従弟との愛を”死”で締め括った人妻を描いた作品で、まさに日本の伝統美と愛と情念とが交錯した記念碑的な作品といえます。(第9回配信予定)

一方、新潮社からの勧めもあって、1964年には「週刊新潮」に『鎌倉夫人』を連載し始めます。冒頭、鎌倉夫人・千鶴子が、黒いスラックスに白いスエーターを着こなし、ペットの雄ライオン権五郎を引いて鎌倉小町通りを散歩する・・・という印象的な書き出しで始まる作品は、矜り高き鎌倉夫人・千鶴子の華麗かつ退廃の翳りを帯びた愛欲模様を描き、「純文学と大衆文学の両刀使い」と称された立原文学のきっかけとなった中間小説作品です。(第2回配信予定)

この頃から、自身、芸術性の高い純文学を創造しながらも、読者を愉しませる大衆文学を排除せず、「二刀流」志向を憚らなくなりました。

 

1966年『白い罌粟』で第55回直木賞を受賞

『白い罌粟』は、金貸業者を踏み倒す事を仕事にしている奇妙な男にひかれて、その不可解な魅力と付き合っているうちに、自らも破滅してゆく中年の教師を描いた作品で、主人公が男の家の庭に白い罌粟の花が咲いている幻覚に捕らわれるラストシーンが印象的な作品です。(第9回配信予定)

 

次のページで、電子全集の魅力をご紹介します。

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