立原正秋など、著名な作家が演じた「文士劇」とは?

かつて、著名な作家たちによって、年に1回のお祭りとして、文藝春秋社主催で昭和9年から昭和45年(戦時中は中断)まで開催されていた「文春文士劇」。多くの文人が関わっていたことをご存知でしょうか。立原正秋の長女・幹氏によって語られる、文士劇に出演した父の思い出。貴重な資料とともに掲載します。

かつて作家たちによって、年に1回、お祭りとして、文藝春秋社主催で昭和9年から昭和45年(戦時中は中断)まで開催されていた「文春文士劇」をご存知でしょうか。

文士劇 (ぶんしげき)とは

専門の俳優以外の文人、劇評家、画家などによって演じられる素人芝居(素劇そげき)をいう。明治23年1月、小石川水道端の佐藤黄鶴邸で、尾崎紅葉、江見水蔭、川上眉山、巖谷小波らが、水蔭作の新作史劇を上演した硯友社劇が文士劇の嚆矢といえよう。(中略)昭和9年、文藝春秋社の愛読者大会で文士劇を上演、以後、久米正雄、川口松太郎、今日出海、小林秀雄らが『父帰る』『ドモ又の死』『息子』ほかを上演した。戦後は昭和27年に文藝春秋社の文士劇が復活、以後毎年秋に続けられている(「日本近代文学大辞典」より引用)

かの小林秀雄が熱心に出演していたのも驚きですが、若き日の三島由紀夫、野坂昭如、石原慎太郎も何度か舞台に立っていました。

いつからか、観客へのお土産として、文士劇に関わった作家の方々を中心とした“自筆サイン印刷の手拭い”が配られるようになりました。これが錚々たる面々なのです。

文士劇観劇者へのお土産の手拭い
※文士劇観劇者へのお土産の手拭い。多くの文人の貴重なサインがプリントされている
(資料提供 清見定道)

現在、配信中の「立原正秋電子全集」第6回巻では、立原正秋の長女・幹氏が父の回想録である「東ケ谷山房 残像六」の中で、昭和42年に開催された文士劇「日本のいちばん長い日」に出演した父の思い出を語っています。

「文士劇」に出演した作家の舞台裏をご一読ください。

 

東ケ谷山房 残像 六 / 立原 幹

 

腰越の家から七里ヶ浜の海まで行く道は、坂を上り上まで行くと海が見える。そこから海の方へ坂を下りて行くと海が迫るように近くなってくる。
下りきる少し前で海が全体に広がって見える。
夏の海は眩しすぎる光が、空からも海からもはじき返してきた。幼い時、野山で見ていた光とはあきらかに違っていた。
冬の海の色はやわらかく、空からの光は海面に浮いてから海の中へと沈んでいった。

海岸道路に出て、右へ行くと小動岬、左へ行くと七里ヶ浜ホテルがあった。海辺の小さなホテルは、父の若い頃の短編小説の世界を思わせてくれた。
私が幼い頃、父は私を寝かせるために自分の短編小説を話してくれた。もちろん四、五歳の私にわかるように話してくれた。
夏の熱い日、氷を重そうに下げた女性が、老女の家まで持って行くのだが、翌日、その家がなかったという少し怖い話をしてくれるのだった。
私の印象の記憶の中に。太陽、海、光、海岸、ホテル、そして眩しい光が父の話にはあった。
腰越にいた昭和40年代前半には記憶の中に入れる風景が残っていた。

七里ヶ浜ホテルより少し先の稲村へ行く方に、ロシアのバレリーナ、パブロバさんの家があった。現在は記念館として綺麗になっている。松竹映画『情炎』は、撮影場所にこのパブロバさんの家が使われた。
映画のロケ撮影の状況がのみこめずに、パブロバさんは鎌倉警察へ行ったという。こういう人達が来て、場所を貸して欲しいというが、本当に信用して大丈夫かとたずねたらしい。
季節は覚えていないが冬ではなかった。
父に頼まれて、吉田喜重監督へ手紙を届けに撮影現場のパブロバさんの家まで行ったことがあった。
部屋の中は暗く、照明機材ばかりが目立っていた。吉田喜重監督は奥にいて助手が手紙を受けとってくれた。
中学生の私がこの映画を観ることはなかったが、海沿いの道を歩いて行ったことをなぜか鮮明に覚えている。撮影現場に父が行くつもりだったのだと思うが、仕事が一番忙しい時期で行くことができないという詫び状を私が持って行ったのではないかと思う。

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※1967年、文士劇「日本のいちばん長い日」にて(立原は左端)

そんな忙しい中で、父は文士劇にも一度だけ出演していた。
毎年、11月末の二日間行われていた。当時の文士劇はお祭騒ぎのイベントだった。
父は帝国ホテルに泊まり込み連日稽古、夜はバーへくり出しと、大人達のお遊びだった。
宝塚劇場へ入ると文芸春秋の手紙を渡される。中には文春の来年のカレンダー、文春ノート、鉛筆、武田薬品からの遊具が入っていた。私が今でも覚えているものは、草色のヨーヨーだ。それと出演者全員の顔が描かれている手紙が入っていた。
そして辻留の桐箱二段のお弁当を受け取る。袋の中は、何やら楽しそうな感じだった。
辻留のお弁当は綺麗に詰められ美味しかった。それから何年かは辻留の変わらないお弁当で、その後は赤とんぼのサンドウィッチになった。

父の楽屋へ行くと、父は海苔を貼ったような眉で軍服を着ていた。出し物は「日本のいちばん長い日」であった。
文士劇のための数日間は、大人たちの大がかりなお遊びという感じだったが、人間も時間もすべてに余裕が見られた。
誰でもがお祭り騒ぎの気分になっていた。出し物の終演後は出演者全員がメイキャップを落とし、浴衣姿で舞台に立ち結んだ手拭いを観客席へ放るのが恒例だった。
11月末の文士劇が終わると、年の瀬が来るという感覚になっていた。この時期は銀座も華やかになり文士劇と銀座での買物が私の年末行事となってしまった。
今よりも11月末は風も空気も冷たかったが、宝塚劇場の中は熱気ですごかった。
父も全てが終わり家へ戻ると、「よく遊んだなあ」と言っていた。
良くも悪くも作家達は個性があり独特の灰汁を持っていた。その灰汁の強さが魅力だった。灰汁のある作家達が決してうまいとはいえない芝居をするのがおもしろかった。

父が直木賞を受けた後の騒々しい腰越の家で最後に見たものは竹の花だった。
竹は寿命を終える最後に花をつけると、定かではないが聞いたことがある。
浴室の小さな窓から、裏の庭の竹林が見えた。初めて見る竹の花は小さな白い花だった。それから竹の花を見たことはない。
本当に見たのだろうか……と思う。
この時から東ケ谷山房での十年を、竹の花は幻として見せてくれたのかもしれない。


立原 幹/ Miki Tachihara

1953年生まれ。幼児期より父の美意識に接し、美を教えられて育つ。父・立原正秋の死後に筆をとりエッセイストとなる。著書に『風のように光のように』『立原幹と歩く立原正秋の鎌倉』『空花乱墜』などがある。

おわりに

立原幹氏が描く、父・立原正秋の思い出、“文士劇”に出演した作家の裏話は如何でしたでしょうか? ちなみに立原家では、お土産に頂いた貴重な「手拭い」を、あっさり雑巾にしてしまったそうです。

1967年は立原正秋が『白い罌粟』で第55回直木賞を受賞した直後で多忙を極めていた頃でした。『白い罌粟』のほか、芥川賞候補作になった『薪能』、『剣ケ﨑』を収録した「立原正秋電子全集第9回」巻は現在配信中です。

_P6 文士劇204_004

※1967年、文士劇「日本のいちばん長い日」にて別カット(立原は左端)

 

立原正秋 電子全集9 『直木賞受賞』

直木賞受賞作『白い罌粟』、出世作『薪能』、“血の問題”と戦争を描いた『剣ケ崎』『夏の光』等、立原文学の代表作が一同に。 収金貸業者を踏み倒すことを仕事としている奇妙な男に惹かれて、その不可解な魅力と付き合ううちに自らも破滅していく中年教師を描き、第55回直木賞を受賞した『白い罌粟』は立原のニヒリズムが投影された作品。また第51回芥川賞候補作となり、立原の名声を高めた『薪能』は、没落寸前の旧家の終焉を、闇夜に輝く篝火に象徴させ、従弟との愛を死で締め括った人妻を描いた一作。『剣ケ崎』『夏の光』は、ともに日本と朝鮮の“血”の問題と戦争に翻弄される兄弟の葛藤を描いており、特に『剣ケ崎』は、自らの出生をモチーフとした野心作で、第53回芥川賞の候補作にも選ばれた代表作の一つ。その他、第2回近代文学賞受賞作『「八つの午後」と四つの短編』、第54回直木賞候補作となった『漆の花』を収録。

第9回直木賞受賞
立原正秋電子全集 第9回直木賞受賞の詳細はこちらからチェック

初出:P+D MAGAZINE(2016/08/17)

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