辻堂ゆめ「辻堂ホームズ子育て事件簿」最終回「卒業」

辻堂ホームズ子育て事件簿
ついに連載が終わる。
後ろ髪を引かれる。それはそうだ。
この物語は始まったばかりなのだから。

 子どもたちの手前、泣くのはこらえた。でも涙腺が決壊しそうな瞬間は何度もあった。息子のような卒園ではなく引っ越しによる転園という形ではあるけれど、次女の小規模保育園でも先生たちによる温かい寄せ書きをいただき、幼稚園では預かり保育の先生方が長女に代わる代わるハグをしてくれた。数日遡った修了式の日には、担任の先生とクラスの子たちが長女に秘密で作成していたという、クラス全員の自画像をまとめた立派な冊子まで持ち帰ってきた。年中の3月ともなれば平仮名を書ける子も数名いて、『わすれないよ』『だいすき』『さみしいよ』『ひっこしてもげんきでね』などのメッセージがところどころに添えてある。鏡文字も、右から左に書かれた文字も、すべてが愛おしい。長女本人は別れを惜しむというよりもむしろ新しい家への引っ越しを楽しみにしていたようだけれど、お友達とこんなやりとりができる年齢になったのだと、こちらがほろりとしてしまう。

 年度末に幼稚園から返却された学用品類の中には、絵本の貸し出しカードもあった。2年間で220回。借りた本のタイトルと日付が、丁寧な字で記録されている。毎度書いてくれた先生もすごい。ハイペースで絵本を選んで借りてきた長女もすごい。そして必ずその日のうちに読み聞かせした私もすごい。いや、褒められるべきことなのかどうかは分からないけれど、延べ220冊というまとまった数字になると、「私、ばんがったなぁ」という気分になる。

 親の通知表かな、この数字は。

 ──と、いつまでも感傷的になっている暇はないのだった。

 未就学児3人を連れての引っ越し。せっかく小説家という自由な仕事をしているのに、保育園の年度途中入園がほぼ不可能なせいで引っ越しも4月に合わせなきゃいけないの、なんか納得がいかない! この時期は業者に頼むとめちゃくちゃ高い! ──と怒りのままに、実家から軽バンを借りてきて自力の引っ越しを断行した。旧居と新居との間を、夫や父と手分けして車で6往復半。本棚を車の屋根に載せる過程で親指の付け根をバキッと負傷し、運転中に水分補給を怠ったせいで脱水症状に陥って瀕死になりながらも、なんとか家族5人分の荷物を運び終え、引っ越しが無事(?)完了したのだった(……素直に引っ越し代を支払ったほうがよかったか?)。

 段ボール箱だらけの新居。ダイニングテーブルには、読まなければならない家電や家具の説明書が、残業を押し付けられた会社員の机を安直に描写したかのように山積みになっている。そして引っ越し後たった2日で、新しい保育園の慣らし保育が開始。3人分の持ち物のお名前書きは全部終わってたっけ。登園用のリュックにはそれぞれ何を入れておけばいいんだっけ。コップと、歯ブラシと、スモックと。0歳児クラスはエプロンと、ガーゼと、ストローマグと……。眩暈がする。ゆっくり食事をとる暇もない。気がつくと体重がけっこう減っていた。

 まあ、慣れているといえば、慣れている。

 子育て世帯は、常に忙しいのだ。引っ越しはもちろん大変なイベントだけれど、その時期が群を抜いて特別、というわけでもなく。

 でもその忙しさが、私にとっては心地よい。

 独身の頃や、結婚後まだ子どもがいなかった頃は、なぜだか「退屈」の二文字が頭をよぎることが多かった。当時は会社員と小説家を兼業していたため、決して時間的余裕があったわけではないはずなのだけれど、たぶん、自分一人のために人生を歩むことにもう飽きていたのだろう。20代にしてどうしてそういう思考になってしまったのかはよく分からない。というか10代半ば頃から、ふとした瞬間に「退屈」を感じていたような気もする。つくづく面倒なことに、私という人間は、「誰かのため」という大義名分がないと、小説を書くことも、日々を生きることも、心の底から楽しめない生き物のようなのだ。

 だから生まれてきてくれた子どもたちにはこう言いたい。育てさせてくれてありがとう、と。いつも家の中でわいわいと駆け回っている君たちのおかげで、私の人生は何倍にも、何十倍にも光り輝いている。


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辻堂ゆめ(つじどう・ゆめ)

1992年神奈川県生まれ。東京大学卒。第13回「このミステリーがすごい!」大賞優秀賞を受賞し『いなくなった私へ』でデビュー。2021年『十の輪をくぐる』で第42回吉川英治文学新人賞候補、2022年『トリカゴ』で第24回大藪春彦賞を受賞した。他の著作に『コーイチは、高く飛んだ』『悪女の品格』『僕と彼女の左手』『卒業タイムリミット』『あの日の交換日記』『二重らせんのスイッチ』など多数。最新刊は『ダブルマザー』(幻冬舎)。

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