椹野道流の英国つれづれ 第24回
「おい、このジャパニーズのお嬢ちゃんは、なかなかタフじゃねえか」
「ちょっと、面白がるようなことではないわよ、ジャック。女の子には大変過ぎるわ、そんな暮らし」
ジーンは真剣な顔つきのままでしばらく考え、そして思いきったようにこう言いました。
「ねえ、チャズ。せめて銀行口座が開けるまで、うちに来ない? クリスに事情を話して、どうにかお部屋を2人で使ってもらえばいいじゃないの。何ヶ月も続くことではないのだし」
「だめ」
半ば反射的に、私は拒否の言葉を口にしていました。
すっかり図々しい大人になってしまった今なら、「ほんと!? やったー!」と喜んでしまうかもしれません。
でも、当時の私はとても若くて、潔癖でした。
ジーンとジャックのみならず、共通の知人すらいない、純粋な赤の他人のクリスに迷惑をかけてはいけない。
彼女の限りある留学生活を、私のせいで不自由なものにしては絶対にいけない。
そんな風に、頑なに思い込んでいたようです。
「私は、ここで暮らす。自分で選んで、自分で借りたんだから」
日本語ならば、もっと礼儀正しく、もっと柔らかな表現を選べたことでしょう。しかし、拙い英語で正確に意図を伝えようとすると、どうしてもこんな風に、端的で強い表現になってしまうのです。
「本当に?」
私は、顎が鎖骨につくくらい、深く頷きました。
ジャックは、ジーンの肩をポンと叩いて、ニヤリとしました。
「こいつは、見かけより頑固だぞ。今は、何を言っても無駄じゃないか?」
〝stubborn〟という、頑固を意味する、この後、何度も聞く言葉を口にして、ジャックはむしろどこか嬉しそうに、もう一方の手で私の肩を抱いてくれました。
「気に入った! 俺は、根性のあるヤツが好きだ。……ただな、チャーリー。もうダメだと思ったら、すぐ電話しろ。俺が、迎えに来てやるから。電話……は、当然、ここにはないか。公衆電話は?」
「ビーチ沿いの道にある」
「よし。何かあって、学校のセクレタリーじゃ解決できないことがあったら、必ず俺かジーンに電話しろよ。約束できるな?」
「できる」
「よし、それでこそ 〝my girl〟 だ」
ジャックはそう言って、気障なウインクをくれました。
後に、若い頃……特に、戦時中、パイロットだった頃の恋の武勇伝を山ほど聞かされ、「ほんとぉ?」とからかいつつも信じられたのは、このウインクの鮮やかさによるところが大きかった気がします。
「本当に、必ず、私たちのことを忘れないでね? いつでも助けるから」
ジーンも、いかにもしぶしぶながら、そう念を押して引き下がってくれました。
心からお礼を言って2人を外まで見送り、部屋に戻ると、どっと疲れが押し寄せてきました。
どうにか、新居の披露は、無事に済んだようです。
安堵と共に、私は大きなソファーにそろそろと寝ころびました。
本当は、勢いよくバターンと倒れ込みたいところですが、そんなことをしたら、ギシギシ音を立てる座面のスプリングが、くたびれた張り地を破って飛び出してきそう。
それに、盛大に埃が舞い上がるに違いありません。
何ごとも慎重に運ばねばならないというのが、この家の掟。
長々と足を伸ばし、ソファーに仰向けに横たわって伸びをすると、開放感と共に、眠気が押し寄せてきました。
日曜日の大ご馳走のあとですから、眠いのは当たり前。
夕飯の必要もないくらいまだお腹がいっぱいなので、このまま寝てしまっても、困ることは何もありません。
伸びをした手でブランケットを探り当ててごそごそと身体を覆うと、私は睡魔に誘われるままに目を閉じました。
兵庫県出身。1996年「人買奇談」で講談社の第3回ホワイトハート大賞エンタテインメント小説部門の佳作を受賞。1997年に発売された同作に始まる「奇談」シリーズ(講談社X文庫ホワイトハート)が人気となりロングシリーズに。一方で、法医学教室の監察医としての経験も生かし、「鬼籍通覧」シリーズ(講談社文庫)など監察医もののミステリも発表。ほかに「最後の晩ごはん」「ローウェル骨董店の事件簿」(角川文庫)、「時をかける眼鏡」(集英社オレンジ文庫)各シリーズなど著作多数。