椹野道流の英国つれづれ 第25回

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そうだ、窓から脱出すれば!

窓は小さいですが、私ならギリギリ窓枠に身体を押し込めそうです。

とはいえ、2階から飛び降りて、無事で済む自信はありません。

警察に電話?

残念なことに、電気が通っていないこの部屋には電話もなく、今と違って携帯電話も普及していませんでした。電話をかけるには、近所の公衆電話ボックスへ出向くしかなかったのです。

ならば、窓を開けて、助けを求める……?

確かに、私が選択できる中では、いちばん有効性が高そうな行動ではあります。

しかし、そんなことをすればちょっとした騒ぎになってしまい、せっかく引っ越したばかりのこの部屋に暮らし続けるのが難しくなるかもしれません。

こんなお安い家賃で住める部屋がまた見つかるとは、とても思えず……。

窓の傍に移動し、ガタつく窓枠に手をかけはしたものの、最後の一押しが決断できず、私はそのまま固まっていました。

そもそも、本物の恐怖に襲われたとき、人間、そう簡単に叫べないものです。

ホラー映画で気持ちよさそうに絶叫している人々、あれ、フィクションですから!

本当に怖いとき、人間の喉はひりつき、口の中はカラカラに乾き、呼吸は浅く忙しくなります。

大きな声を出せる要素が、どんどん減っていくのです。

助けて! ヘルプ!

そう叫びたくても、唇も舌も恐怖で強張ってしまい、ろくに動きません。たぶん、声帯も同じなのでしょう。

口から漏れるのは、囁きのような頼りなく弱々しい声ばかり。

これでは、お向かいさんどころか、隣の部屋に誰かいたとしても聞こえはしなかったでしょう。

ヤバい。

どうしよう。他に何かできることは……?

咄嗟に目に入ったのは、暖炉の脇に立てかけてあった、鉄製の火かき棒でした。

駆け寄ってそれを引っ掴み、また窓枠にへばりつきます。

あっ、でも。

火かき棒ってアレじゃない? シャーロック・ホームズシリーズのなんかの話で、ホームズを脅かしにきたおじさんがメキョッと曲げて、それをあとでホームズがオリャッと元に戻してたやつじゃない?

けっこう弱いのでは? 武器になるかな……?

いやもう、そんなん今思い出さんでええねん! ワトソン君はちょっと呆れていた記憶があるから、たぶん大丈夫! 一発殴るくらいはできる! たぶんやけど!

余計な不安まで抱えつつ、私は息を殺し、ただじっと耳をそばだてていました。

足音は、やがて止まりました。

数秒の静寂の後。

コン、コンコン。

内扉が、確かにノックされました。


「椹野道流の英国つれづれ」アーカイヴ

椹野道流(ふしの・みちる)

兵庫県出身。1996年「人買奇談」で講談社の第3回ホワイトハート大賞エンタテインメント小説部門の佳作を受賞。1997年に発売された同作に始まる「奇談」シリーズ(講談社X文庫ホワイトハート)が人気となりロングシリーズに。一方で、法医学教室の監察医としての経験も生かし、「鬼籍通覧」シリーズ(講談社文庫)など監察医もののミステリも発表。ほかに「最後の晩ごはん」「ローウェル骨董店の事件簿」(角川文庫)、「時をかける眼鏡」(集英社オレンジ文庫)各シリーズなど著作多数。

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