椹野道流の英国つれづれ 第25回
荒々しくはありません。ただ、拳の、指の付け根の骨が飛び出した固いところで、木製の扉を軽く叩いている。
そんな音です。
いや、どうすればいいの?
「誰ですか?」って聞いて、答えられても怖い。答えがなかったら、なお怖い。
相手が誰かもわからないのに「どうぞ」とも言えない。
「お帰りください」と言って、逆上されてもやっぱり怖い。
というか、そもそも応じてしまったら、私が中にいることがわかってしまう。
あああー、何をしてもヤバいとはこのこと。
どうしよう。ああ、どうしよう。
呼吸をすることすら忘れ、ただ困り果てていたら、もう一度、同じようにノックが。
心臓は口から飛び出してきそうだし、手のひらは嫌な汗でじっとり湿ってきたし、血の気が引いて吐きそうだし。
どうしたらいいの。私、ここで人生終わっちゃうの?
万事休す。
そんな言葉が脳裏をよぎりました。
しかし。
それっきりだったのです。
いつになっても侵入者は部屋に入ってこず、それきり、ノックも足音も止んでしまいました。
ええー? 諦めた?
だったら嬉しいけれど、引き返す……つまり、階段を下りる足音が聞こえないのが、めちゃくちゃ怖いんですけど!?
最初の夜は、それから怖くて怖くて、一睡もできませんでした。
何かあったら、死ぬ気で飛び降りようと、窓際から離れることすらできず、まんじりともせず朝日が差すのを待ちました。
辺りが明るくなると、ようやく少し心が強くなって、勇気を振り絞って、まずはそーっと内扉を開けてみました。
勿論、片手には頼りになるかどうかわからない火かき棒を持ったままです。
侵入者が、ずっとそこで待ちかまえていたらどうしよう……と思いましたが、扉の裏にも階段スペースにも、誰もいませんでした。
それより何より驚いたのは、昨夜、確かに開けられたはずの外扉が、しっかり施錠されていたことです。
ええー? どういうこと……?
じゃあ、昨夜のはいったい何?
侵入者が、外扉の鍵を開けて入ってきて、内扉の前まで来て、何もせずに諦めてきっちり施錠して帰っていった……ってこと?
そんな几帳面で諦めのいい人、いる?
あまりにも現実的でなさすぎる。
あっ。もしかして……私、一睡もしていないつもりで、実はずっと寝ていたのでは?
一連のことは、実は夢だったのでは? だったら、現実的でないのも当たり前だわ。
信じられないけど、そうかもしれない。
留学してからずっと気を張っていたから、自分が思うより疲れていたのかもしれない。
そうだ、そうに決まっている。それがいちばん「現実的」な推理だもの!
無理矢理自分を納得させて、私は眠い目を擦りながら、登校の準備に取りかかりました。
でも、そんな安直な逃避は、あっという間に無効化されてしまうことになるのです。
兵庫県出身。1996年「人買奇談」で講談社の第3回ホワイトハート大賞エンタテインメント小説部門の佳作を受賞。1997年に発売された同作に始まる「奇談」シリーズ(講談社X文庫ホワイトハート)が人気となりロングシリーズに。一方で、法医学教室の監察医としての経験も生かし、「鬼籍通覧」シリーズ(講談社文庫)など監察医もののミステリも発表。ほかに「最後の晩ごはん」「ローウェル骨董店の事件簿」(角川文庫)、「時をかける眼鏡」(集英社オレンジ文庫)各シリーズなど著作多数。