椹野道流の英国つれづれ 第35回

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私の声が上擦ってきたのに気づいて、アレックスは早口にそう言ってくれました。

「だけど、今のままじゃ、交渉の余地がない。打開策はふたつ。ひとつは、君が一人暮らしを諦めて、どこかホストファミリーの家に落ち着くこと。これは僕たちで斡旋できる。もうひとつは、部屋を見つけてB&Bを出て、賃貸住宅で暮らし始めること。部屋探しは、勿論僕がサポートする」

バクバクする心臓を宥めようと胸元に手を当てて、私はしばらく考えました。

簡単なのは、たぶんホストファミリーを紹介してもらうこと。

でも、それはやっぱり嫌なのです。

一人暮らしをすると決めたのだから、それを貫きたい。

「部屋を探す。家賃を払えるお金があるうちに」

私がそう言うと、アレックスはようやくニコッとして頷きました。

「わかった。じゃあ、今日の放課後から、不動産会社のオフィスへ行って部屋を探そう。そして、もう一度、銀行に乗り込もう!」

 

しかし、しかーし。

そもそも、部屋探しがそう簡単なことではありませんでした。

そもそもブライトンは、特に学校から徒歩圏内のあたりは、街の中心部に近いこともあり、家賃の相場が高いのです。

たまに安いところがあっても、不動産紹介業者とアレックスが揃って「いや、そこは治安が」と渋い顔をするような、かなり荒っぽいエリアだったり。

当時のイギリスは不況のどん底で、少々荒れた雰囲気のする場所がそこここにありました。

学校としては、大事な生徒をみすみすそんなところに住まわせるわけにはいかなかったのでしょう。

それに、偏見と腕を組んでやってくる人種差別もあり。

「家主に打診してみたら、『ジャパニーズ? ダメよ、生魚や腐った豆をキッチンで扱ってほしくないわ。においが染みつきそう』って言われちゃってね。申し訳ない、いや、僕が言ったんじゃなくて」

と、ニヤニヤしながら不動産業者に伝えられたりしました。

結局、学校近くの小規模ながら親切な不動産業者に、例の幽霊つきの古い古い家を紹介され、もうヤケクソの思いで決めてしまうまで、20~30軒は検討したと思います。

とにかく大変で……でも、どんなボロ家でも、借りてしまえばマイホームです。

やっと堂々と「我が家はここです!」と言えるようになったのだから、今度こそ銀行口座を開いて、日本からの送金を受けられるようになるに違いない!

部屋を借りて家賃3ヶ月分の前払いをした結果、すっからかん一歩手前まで来てしまった私は、ハラハラしつつも、達成感でいっぱいでした。


「椹野道流の英国つれづれ」アーカイヴ

椹野道流(ふしの・みちる)

兵庫県出身。1996年「人買奇談」で講談社の第3回ホワイトハート大賞エンタテインメント小説部門の佳作を受賞。1997年に発売された同作に始まる「奇談」シリーズ(講談社X文庫ホワイトハート)が人気となりロングシリーズに。一方で、法医学教室の監察医としての経験も生かし、「鬼籍通覧」シリーズ(講談社文庫)など監察医もののミステリも発表。ほかに「最後の晩ごはん」「ローウェル骨董店の事件簿」(角川文庫)、「時をかける眼鏡」(集英社オレンジ文庫)各シリーズなど著作多数。

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◎編集者コラム◎ 『ステイト・オブ・テラー』ヒラリー・クリントン ルイーズ・ペニー 訳/吉野弘人