椹野道流の英国つれづれ 第40回
でも、教科書的日常会話じゃないジャンルに差し掛かると、突然ヨワヨワになるのがジャパニーズの常。許されたい。
さすがに可哀想だと思ったのか、ボブは基本的な電話でのやり取り、しかも礼儀正しい言葉遣いについて、短いレッスンをしてくれました。
「よし、これで君は電話で問い合わせができるようになった! チャレンジしよう」
「ほんとかなあ……」
「大丈夫。お喋りがゆっくりなのはまだ治ってないけど、電話では、そのほうが伝わりやすいだろうし」
自分に自信がないことにかけては、なかなか右に出るものがない感じだった、当時の私。
ほとんどボブに追い立てられるようにして、小さな校舎の外に出ます。
ゆるい下り坂をほんの25メートルも降りれば、そこは海沿いの大通り。角を曲がったすぐそこに、電話ボックスがありました。
今のように携帯電話が普及していない時代です。街のあちこちに公衆電話があり、みんな小銭やフォンカード、日本で言うところのテレホンカードを携帯していました。勿論、私もです。
ただ、公衆電話は故障も多いので、まずは受話器を取って耳に当て、電子音が聞こえるのを確かめてから、手持ちの小銭をスロットに入れます。
ボブもボックスに身体を半分突っ込み、私を励ますような笑みを浮かべて見守ってくれています。
うう、本当に大丈夫かな。私の英語、電話でもちゃんと通じるかな。
正直、日本語で電話をかけることすらあまり得意でない私なのです。英語を話すことに加えて、電話すること自体への苦手意識が凄い。
でも、これも英会話のレッスンです。やるべし。
ナット・ウエスト銀行の支店の電話番号を見ながらボタンを押し、日本とは違う、ブザーに似た呼び出し音を聞きながら待ちます。
心臓がバクバクして、肋骨が内側から殴られているよう。
コール2回で、相手が出ました!
早い、早いよ。ありがたいけど怖いよ!
ボブが至近距離に待機してくれていなければ、反射的に受話器を置いてしまっていたかもしれません。
それほどの緊張っぷりです。
出てくれたのは、感じのいい声の男性でした。幸い、英語にあまり癖がなく、聞き取りやすい感じです。
私は、自分の氏名を名乗り、前回、担当してくれた銀行員の名前を告げ、口座開設を確約してくれたのに、キャッシュカードと通帳がまだ送られてこなくて困っている、と伝えました。
話す途中で何度かボブを見てしまいましたが、彼はその都度、大丈夫、ちゃんと言えてる、という表情と声を出さない口の動き、そして親指を立てることで、私を目いっぱい励ましてくれました。
実際、先方は私の説明をたちどころに理解してくれ、「調べて参りますので、このまま電話を切らずにお待ちください」と言いました。
日本でよくある保留メロディー的なものはないらしく、雑多な音や誰かの声が小さく聞こえてきます。
「調べるって」
ボブに小声で伝えると、ボブはにっこりしてこう言いました。
「うん、僕にも声は聞こえてる。君はよくやってるよ。その調子で頑張って」
「ありがとう。教えてもらったおかげ」
そんなやり取りをしていると、受話器からさっきの男性の声が聞こえました。
「お待たせして申し訳ありません。確かに○月○日、該当のスタッフがあなたを担当しています。ですが」
出たー! 最高に嫌なやつ、来たー!
ちょっと間を空けてから発せられる〝but〟 のあとが、いい話だったためしがないことくらい、私ももう学習しています。
兵庫県出身。1996年「人買奇談」で講談社の第3回ホワイトハート大賞エンタテインメント小説部門の佳作を受賞。1997年に発売された同作に始まる「奇談」シリーズ(講談社X文庫ホワイトハート)が人気となりロングシリーズに。一方で、法医学教室の監察医としての経験も生かし、「鬼籍通覧」シリーズ(講談社文庫)など監察医もののミステリも発表。ほかに「最後の晩ごはん」「ローウェル骨董店の事件簿」(角川文庫)、「時をかける眼鏡」(集英社オレンジ文庫)各シリーズなど著作多数。