椹野道流の英国つれづれ 第40回
ゴクリと生唾を呑んで〝But?〟と問い返すと、電話の相手はいかにも済まなそうな声音でこう続けました。
「ですが、そのスタッフが口座開設の手続きをしないまま、ホリデーに入ってしまったようです。申し訳ありませんが、彼は2週間後の月曜から出勤してきますので、そのときにまたお問い合わせください。きっと速やかに、手続きがなされることと思います。ご不自由をお詫びします」
流れるように、通話は終了しました。
は? ホリデー? 2週間後?
いやいやいやいや待って。
普通は、業務を片付けてから休暇でしょうよ。
呆然とする私の手から受話器を取り上げ、元の場所に戻しながら、さすがのボブも驚いた顔をしています。
「そりゃないな。ホリデーって。しかも、代わりに手続きしてくれようともしないなんて」
だよね? これは、イギリス人も呆れる事態なのね? それはよかった。
外国で、日本の常識でものを判断してはいけないと思う気持ちが強すぎた私、現地の人が呆れてくれて初めて、安心して自分の感情を動かすことができました。
つまり、完全に遅すぎるタイミングで、呆れどころか、激しい怒りがこみ上げてきたのです。
完全に、バカにされとる。あるいは、舐められとる。たぶん、その両方。
これは……これは、ここで引き下がってはいけないやつ。
電話ではこれ以上話が進まないなら、現地へ行って交渉しなくてはいけないやつ!
それも、私が! 私自身のために!
私は、気の毒そうな顔のボブに、こう訊ねました。
「レッスンの残り、サボってもいい? 今すぐ、銀行に行きたい」
ボブの太い眉が、ヒョイと上がります。
「今すぐ? 僕も行く? 今度は銀行で、臨場感溢れるレッスンといこうか?」
ボブが来てくれたら、そんなに心強いことはありません。でも私は、首を横に振りました。
「ひとりで行く。絶対に、今日、口座を開設してもらう」
いつもどおりの拙い、もっちゃりした話しぶりでも、声音から決意の強さを感じとってくれたのでしょう。
ボブは、OK、と真顔になって承知してくれました。
「とはいえ、スタッフルームにひとりで戻ったら、校長先生にどやされちゃうからね。僕も君と一緒に街に出て、銀行近くのCDショップを冷やかして待つことにするよ。終わったら合流。OK?」
「OK!」
私は自分でも驚くほど力強く返事をして、電話ボックスを出て歩き出しました。
海風が強くて、いつもならよろけてしまうところですが、今日は負けません。
銀行についたら、どう切り出そうか。
どんなふうにことを運べば、上手くいくだろうか。
残念ながら、うずまく思考は完全に日本語でしたが、さすがのボブも、何も言わずに並んで歩いてくれます。
「絶対に、諦めないんだからね」
波立つ海を眺めながら、自分自身に言い聞かせるように、私は小さく呟いていました……。
兵庫県出身。1996年「人買奇談」で講談社の第3回ホワイトハート大賞エンタテインメント小説部門の佳作を受賞。1997年に発売された同作に始まる「奇談」シリーズ(講談社X文庫ホワイトハート)が人気となりロングシリーズに。一方で、法医学教室の監察医としての経験も生かし、「鬼籍通覧」シリーズ(講談社文庫)など監察医もののミステリも発表。ほかに「最後の晩ごはん」「ローウェル骨董店の事件簿」(角川文庫)、「時をかける眼鏡」(集英社オレンジ文庫)各シリーズなど著作多数。