【向田邦子、武田百合子など】クリスマスに読みたいエッセイ

街が華やぐクリスマスシーズン、クリスマスにまつわる絵本や小説を読むのもいいですが、作家によるエッセイを味わってみるのはいかがでしょうか。向田邦子や武田百合子といった随筆の名手による、“クリスマス”をテーマにしたエッセイを4作品ご紹介します。

クリスマスが近づくと、華やぐ街の様子にどこか気持ちがウキウキしたり、子どもの頃のクリスマスの思い出が蘇ってきて懐かしくなる──という方は多いのではないでしょうか。

聖夜を舞台にした小説や絵本は数多くありますが、作家のエッセイ(随筆作品)の中にも、クリスマスをテーマにしたすばらしい作品が存在します。今回は、ホリデーシーズンのいまだからこそ読みたい名エッセイを、4作品ご紹介します。

『チーコとグランデ』(向田邦子)


『チーコとグランデ』収録/出典:https://www.amazon.co.jp/dp/B009DECSU4/

『チーコとグランデ』は、脚本家・小説家・エッセイストとしてマルチに活躍した向田邦子の第1作目のエッセイ集、『父の詫び状』に収録されている1篇です。タイトルの「チーコ」と「グランデ」とは、それぞれスペイン語で「小さいサイズ」「大きいサイズ」を意味する言葉。向田はエッセイの中で、出版社に勤めていた若い頃のクリスマスの晩の思い出を振り返りつつ、食べ物の大小がつい気になってしまう性分であるというエピソードをユーモラスに綴っています。

私は小さなクリスマス・ケーキを抱えて、渋谷駅から井の頭線に乗っていた。(中略)
当時私は日本橋の出版社に勤めていた。
会社は潰れかけていたし、一身上にも心の晴れないことがあった。家の中にも小さなごたごたがあり、夜道を帰ると我が家の門灯だけが暗くくすんで見えた。私は、玄関の前で呼吸を整え、大きな声で「只今!」と威勢よく格子戸をあけたりしていた。
それにしても私のケーキは小さかった。
夜十時を廻った車内は結構混み合っており、ケーキの包みを持った人も多かったが、私のは一番小さいように思えた。父はクリスマス・ケーキなどに気の廻るタチではなく、いつの間にかそれは長女である私の役目になっていた。

甘党の母親や妹・弟たちのために買った一流店のケーキの包みを抱えつつ、「来年はもっと大きいのにしよう」と考えながら向田が車内でウトウトしていると、なんと目の前の網棚に、向田が買った店のものと同じ大きなクリスマスケーキが置き忘れられていることに気づきます。彼女はとっさに「誰も見ていない。取り替えよう」と思いますが、

だがそれは一瞬のことで、電車はホームにすべりこみ、私は自分の小さなケーキを抱えて電車を下りた。
発車の笛が鳴って、大きなクリスマス・ケーキをのせた黒い電車は、四角い光の箱になってカーブを描いて三鷹台の方へ遠ざかってゆく。私は人気のない暗いホームに立って見送りながら、声を立てて笑ってしまった。

……と、結局取り替えることなどできずに、そのまま小さいケーキを持って帰路についたことが語られます。

クリスマスケーキの思い出を筆頭に、来客があるたびにお土産のサイズのことで気を揉んでしまうという話や、スペイン語圏を旅したときにはあらゆる食べ物のサイズが大きくて驚いたという話など、くすっと笑えるけれどどこかノスタルジーも感じる名エピソードの数々が、まるでパッチワークのように巧みに編まれています。

ただおもしろいだけではなく、家族との関係のままならなさや日々の生活の大変さといった背景も書き込まれた向田のエッセイは、何度読んでも新鮮かつモダンに感じられるはず。絵本の中の世界のようなロマンティックなクリスマスではなく、地に足のついた、生活感のあるクリスマスの話を読みたいとき、ぜひ手にとってほしいエッセイ集です。

『クリスマスケーキ』(武田百合子)


『クリスマスケーキ』収録/出典:https://www.amazon.co.jp/dp/412004968X/

『クリスマスケーキ』は、武田百合子のエッセイ集『あの頃』に収録された短いエッセイです。武田百合子は、『富士日記』や『犬が星見た』といった名随筆集を遺した随筆家で、作家・武田泰淳の妻としても知られています。

『クリスマスケーキ』は、クリスマスイブの街をごく淡々と、それでいて詳細かつ活き活きと描写するエッセイです。

新宿の地下商店街のどの店にも、ポインセチアの鉢植が置いてある。あふれて表にまで並べてある。葉だか花だかわからない赤く染まった部分が、人いきれでしおれている。
ひとところ、特別に人だかりがしている。五千円、または一万円札を一枚握った片手を、ヒラヒラと人よりも高くつき出して、オーバーコートの男たちが、われ勝ちにクリスマスケーキを買おうとしているのだった。
「三千円のそれ、生チョコデコの方、俺の、俺のだよ。そっちへまわって買うの? うん、わかった。そっちへ行く。行くから、それまで顔覚えていてよ。ヒゲ、このヒゲが目印。ヒゲのおじさんだよ」

この冒頭部分だけで、武田の景色と人物に対する観察眼の凄まじさが伝わるのではないでしょうか。ポインセチアの“葉だか花だかわからない赤く染まった部分”といった表現も、「あるある」と頷きたくなるような、独特で的確な言葉遣いです。武田は、クリスマスに浮かれる都会の様子を、唯一無二の視点で描きます。

葉茶屋も靴屋もカメラ屋も海苔屋も、今日はさびしい。大福餅や串団子を売る店もさびしい。売り子は下を向いている。洋食屋と中華料理屋は混み合っているから、これも今日はさびしそうにしている、そば屋に入った。

そのそば屋では、クリスマスケーキの箱を傍らに置いた男たちが、仕事に関することでちょっとした喧嘩をしていました。武田はすました筆致でそのやりとりを綴りつつ、「今日はどの男もどの男もケーキを買って帰るよ。ありゃあ男が買うものなんだねえ」という店の常連の女の言葉も記しています。武田自身の心情の描写は一切ないものの、そこには家族のために嫌々でもケーキを買わざるをえない男たちへのちょっとした皮肉と同情が表れているかのようです。

武田のエッセイは、観察した事実を淡々と述べるスタイルでありながら、そこから季節感や他者へのやさしさ、独自のユーモアがありありと伝わってくるのが魅力です。『クリスマスケーキ』をはじめ冬にまつわるエッセイは、どれも五感を刺激するものばかり。稀有な書き手による名エッセイを、ぜひ味わってみてください。

『ぼくときよしこの夜』(少年アヤ)


『ぼくときよしこの夜』収録/出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4065192331/

『ぼくときよしこの夜』は、エッセイストの少年アヤによるエッセイです。本作が収録されているエッセイ集『ぼくの宝ばこ』は、少女漫画やファンシーグッズ、ぬいぐるみ、宝石箱などを愛する著者が、「男性のくせにかわいいものが好き」という理由で虐げられてきた過去を振り返りつつ、その呪縛から自由になろうとする過程と、きらめくものへの愛を描いています。

『ぼくときよしこの夜』は、毎年クリスマスをとても楽しみにしている、というエピソードから始まります。しかし、その理由はクリスマスがただ賑やかできらびやかだからではなく、“ひとり”を感じるからだと言います。

さみしい、という感覚がある。
花も草も木も、なにもかもが静まり返る冬には、それがことさらつよくなる。なぜなら、いずれ消えてしまうという、ぼくたちが決して避けることのできない宿命を、凍っていく季節になぞらえずにいられないから。
ひとりひとりがこんなに悲しいのに、与えられるご褒美は少ないし、いいことだってそんなにない。あまりに心細くて、たよりなくて、いよいよくじけてしまいそうになるので、人々は凍える冬にクリスマスを必要としたんじゃないだろうか。そして、みんなで同じ歌を歌って、おおきな七面鳥を分け合って、どうしようもない孤独を溶かし合う。つまり、身を寄せ合う人々の、まんなかに生まれたぬくもりが、クリスマスなんじゃないか。

著者は、そんなクリスマスだからこそ、きらめく街を見て、ちょっとしたプレゼントを買い、“ひとりを楽しむ”のです。

今年のクリスマスは、いつもどおり、まず新宿の京王デパートに行こうと思う。ぎこちなく飾られたツリーの飾りを眺めながら、おもちゃ売り場でおもちゃをひとつ買う。(中略)
そして、ちょっと気取りながらビーフシチューを食べたあとは、伊勢丹に足を延ばす。ひしめく恋人たちにまみれながら、できるだけ安い手袋を買い、ガラス玉に彩られたクリスマスブローチにうっとりする。
あっという間に夜になったら、メトロに乗って銀座へ。買ったばかりの手袋をつけて、教文館のハウス・オブ・クリスマスへ。重たいガラスのドアを引いて、しんとしたロビーから、モダンなつくりのエレベーターに乗る。チーン、とフロアについたら、そこはもうクリスマス一色の世界だ。

みんながみんなしあわせで、みんながみんなさみしい。その極地に、いま自分はいるのだと、孤独をぎゅうぎゅうにかみしめる。なんていいクリスマスだろう。なんてさみしくて、あたたかいんだろう。

クリスマスの雰囲気が好きな反面、その中にどことなくさみしさや悲しさも感じる──という方は少なくないのではないでしょうか。このエッセイは、そんなクリスマスの空気をぎゅっと閉じ込めたような作品です。クリスマスがくるたびに読み返し、著者と同じ“さみしさ”を噛み締めたくなるような名エッセイです。

『太陽のように自分でひかる』(片山令子)


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/489629369X/

『太陽のように自分でひかる』は、詩人の片山令子によるエッセイ集『惑星』の中の1篇です。片山は『贈りものについて』『夏のかんむり』といった詩集を発表したほか、『たのしいふゆごもり』『もりのてがみ』といった数多くの名作絵本も著した人物です。

片山はこの短いエッセイの中で、“ロウソク”についてのエピソードを綴っています。30年来ロウソクを手作りし続けている友人のお母さんの影響で、ロウソクが好きになったと片山は言います。

クリスマス前のある日のことでした。幾つかのクリスマスプレゼントを彼女のロウソクにしようと、神楽坂まで出掛けて行きました。たくさんの人でにぎわう画廊には、バラの花の形、白いスケルトン。大小さまざまなロウソクが並んでいました。やっと選びおわって包んでもらい帰ってくると一本足りません。画廊のオーナーが別の人の包みに入れてしまったらしいのです。友人に電話をすると作り直します、といいます。それならばと、あと五本注文しました。
そしてしばらくすると、お菓子の箱に何段も重なっている愛らしいロウソクを抱えて、友人が国立まで来てくれました。頼んだもの以外のものもあって、またたくさん買いました。

なかなか火をつけられなくて、順々に窓辺に飾って楽しみました。嬉しいことがあっても哀しいことがあっても、したたり落ちたロウの花びら。哀しいことは淡い青灰色の空の色。ピンクやオレンジの色の中に重ねて入れてやるとロウソクの色が慎み深く翳り、明るい色をもっと輝かしいものにします。

人が一人ひとり違うように、ロウソクにも同じものはひとつとしてない、と片山は語ります。そして、明りを灯らせるとすぐに溶けてなくなってしまうロウソクは、“自分に贈られた贈りものを大切に使いきり、まわりを明るく照らし一生をおわる人のよう”だと言うのです。窓辺に飾られた色とりどりのロウソクの描写からも、片山がいかに人間愛に満ちた人だったかが伝わってきます。

ため息が出るほど流麗な片山の文章は、クリスマスにはもちろん、寒くしんとした冬の日にぴったりです。背筋の伸びるような美しいエッセイの数々を、ぜひゆっくりと味わってください。

おわりに

今回ご紹介した4作のエッセイは、形や時代は違えどどれも、ただ楽しく賑やかなお祭りというだけではないクリスマスの姿を描いています。4作の中で描かれる、クリスマスの喧騒の背景にある生活のせわしなさひとりきりでいることのさみしさは、クリスマスが好きな方にとってもそうでない方にとっても、どこか共感できるものであるはずです。

4作のエッセイが収録されたそれぞれの随筆集も、エッセイの名手によるすばらしい作品ばかりです。クリスマスソングが流れる街中のカフェで、あるいは静かな家のベッドの中で、ぜひゆっくりとエッセイを堪能してみてください。

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初出:P+D MAGAZINE(2021/12/15)

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