【書き下ろしエピローグ全公開】傑作スポーツ小説 額賀澪『タスキメシ 箱根』待望の文庫化! ほとばしる情熱とリアルな描写に感涙必至!

駅伝に賭ける情熱に心を揺さぶられること間違いなしのベストセラー・額賀澪『タスキメシ』シリーズ。11月刊で『タスキメシ 箱根』が文庫化され、好評発売中です。単行本では、東京五輪マラソンのシーンでエンディングを迎えましたが、未曾有のコロナ禍で二転三転。実情を踏まえ、文庫では新たにエピローグをまるごと書き下ろしました。ここに一挙公開します!

タスキメシ─箱根─ 額賀 澪

◆エピローグ

 この時間なら朝練も朝食も済んで一息ついているはずだ。昨夜電話を寄こした相手に、スーツに着替えながら千早は折り返し電話をかけた。相手はワンコールで出てくれた。
『この前は差し入れありがとう。みんな喜んでたよ』
 数ヶ月ぶりに聞く眞家早馬の声は、案の定疲れていた。先週、寮にスポーツドリンクを差し入れたから、昨夜の電話はその礼だったらしい。
「そりゃあ、よかったです。栗原に聞きましたけど、みんな寮に戻ってこられたらしいじゃないですか」
『やっと寮の閉鎖措置が解かれたからね』
 箱根駅伝が終わって二ヶ月もしないうちに、紫峰大学駅伝部の寮は閉鎖された。新型コロナウイルスの蔓延を防止するための措置だった。大学からすべての部に対し活動停止命令が通達され、部員達はそれぞれ実家に帰った。練習と寮生活が再開できたのは、六月に入ってからのことだ。
『食堂もさ、一席ずつ衝立を置いて、食事も三グループに分けてるよ。メニューも、大皿や鍋で取り分けるようなものは出さないようにしてるし、手のアルコール消毒に、一日三回の検温に……とにかくやれることは全部やってるけど』
 大学は学内でクラスターが発生することを恐れているらしいが、幸い駅伝部内では今のところ一人の感染者も出ていないらしい。この数ヶ月、早馬と監督の館野がどれほど心を砕いて対策をしてきたか、想像したら眉間に皺が寄ってしまった。
「大変そうですね」
『練習ができるだけマシだよ。インカレも中止になったし、秋の駅伝がどうなるかわからないけど』
 もちろん、箱根も。早馬は名前を出さなかったが、千早は口の中でその名を転がした。
 音を消していたテレビを見やる。今朝も、昨日も、一昨日も、ニュース番組は連日コロナの話題ばかりだ。
 コロナのせいで何もかも無茶苦茶になった。部活はできない、大会も中止、感染者は増え続け──東京オリンピックの延期が決まったのは、三月の終わりだった。千早が出るはずだった紫峰大学の卒業式も、結局中止になった。
 押し流されるように大学を卒業し、内定していた都内の食品メーカーに入社したはいいものの、一ヶ月間はずっと在宅勤務だった。自宅でパソコン越しに上司の話を延々と聞く羽目になった。
 そのせいか、ときどき、箱根を走ったのが夢だったように思うことがある。そのたび、寮を出て自主練習に励む後輩に「自主練できてる?」と連絡したり、同期の森本、葉月、白須に「そっちはどう?」と様子を聞いたりしていた。
 およそ五ヶ月前──そう、たった五ヶ月前。箱根駅伝の十区を走った自分は、区間二位のタイムでレースを終えた。二十一人の選手が走ったレースで、二位。
 シードは取れなかったし、襷も繫がらなかった。でも、区間二位だと知ったときは涙が止まらなかった。予選会を通過したときは、怪我をした自分が不甲斐なくて心から喜べなかったから、嬉し涙の流し方を、あの日、生まれて初めて知った。
 マスクなしでは外を歩けない今となっては、本当に、遠い昔のことみたいだ。
「今年のチーム、どんな感じですか?」
「夏合宿で相当追い込まなきゃだけど、いいチームだよ。栗原も三年になって責任感出てきたし、箱根で悔しい思いをした加藤も、キャプテンとして頑張ってくれてるし。何より新入部員が増えて選手層が厚くなったよ。監督も嬉しいみたい」
 話を聞きながら、ああ、それが俺達が駅伝部に残せたものだったのかな、なんてしみじみと思った。このまま練習を続けられるのか、箱根駅伝を含む大会がきちんと開催されるのか。何も見えない状態で練習のモチベーションを保つのがどれほどしんどいかは重々承知しているが、それでも、よかったと思った。
「眞家さんは、来年からどうするんですか?」
 大学院生である彼は、今年が修士課程二年目だ。順当に修了ということになれば、来年には紫峰大を離れることになる。
『監督と小佐内先生が大学に随分かけ合ってくれたみたいで、来年から正式にコーチ兼管理栄養士として雇ってもらえそうだよ』
「じゃあ、もう何年かは大学に残るんですね」
『一応、任期は二年なんだけど、紫峰大がシード取るまでは離れられないよなあ』
 テレビ画面の右上に表示された時計を確認する。そろそろ家を出る時間だ。それを察したように、電話の向こうで早馬が『さーて、俺もそろそろ大学行かないと』と笑った。
『千早がかけてくれた襷、ちゃんと繫いでいくから、大丈夫だよ』
 たとえ、来年の正月に箱根駅伝が開催されなくても。彼の言葉の裏には、そんな声が滲んで聞こえた。
「箱根、やるといいですね」
『こればかりは、祈るしかないよ』
 じゃあ、お疲れ。そう言って早馬は電話を切った。テレビを消し、新しいマスクをきっちりつけて、千早も家を出た。
 一人暮らしをしているマンションの向かいには個人経営の定食屋があって、鰺フライが特に美味かったのだが、二週間前に閉店した。
 パンデミックさえなければ、東京オリンピックまであと一ヶ月ほどとなっていたはずの東京の街は、いつも通りだった。じめっとした暑さの中、誰もがマスクをして、満員電車の中以外はできるだけ周囲と距離を取って、他人と長時間話さず、触れ合わず、食事もせず、淡々と生活している。
 電車を乗り継ぎ、コロナ禍だろうと人でごった返す新宿駅で降りる。勤務先の鶴亀食品の本社は、新宿駅から十五分ほど歩いたところにある。
 二十階建ての自社ビルのエントランスで検温をし、手をアルコール消毒して、エレベーターで人事部のある八階へ行く。エレベーターの中には、ちらほらと同期入社の社員達の姿があった。挨拶を交わし、全員揃って八階で下りた。
 三ヶ月の新人研修期間も、残すところあと十日ほど。今日、正式な配属先が言い渡される……のだが、最初の一ヶ月は出社すらせず、残りの二ヶ月もオンラインと対面を併用した研修だ。集まった十五人の同期達の横顔には、「果たしてこのままどこかの部署に配属されて大丈夫なのか?」という不安が、色濃くこびりついていた。
 就職活動中に何度も顔を合わせた人事部の社員達が会議室にやってきて、人事部長から直々に、新入社員達に配属先が伝えられていく。営業部門、マーケティング部門、冷凍食品部門、インスタント食品部門、菓子部門、宣伝部門、製造部門──希望部署に行けることになった社員は笑みを噛み殺すように「はい!」と返事をし、予想外の人事を伝えられた社員は、目を丸くしながら辞令を受け取る。
 千早の番が来た。
 大柄な人事部長は、何故か大きな咳払いをした。
「仙波千早君」
「……はい」
 一拍遅れた返事に、何故か部長は表情を引き締めた。これは、とんでもない部署に配属されるのではないか。堪らず、身構えた。
「仙波君には、食堂運営部門に行ってもらいたい」
「食堂運営部門、ですか」
 鶴亀食品の事業分野は多岐にわたり、冷凍食品やインスタント食品、菓子類といった家庭でお馴染みの商品を取り扱うのはもちろん、健康食品や化粧品の製造も手がけている。
 社員寮や学生寮の食堂の受託運営も、その一つだ。
「君は面接のとき、食を通じてスポーツに貢献できるように頑張りたいと話してくれたね?」
「はい、間違いなく」
 人事部長は大学時代にラグビーをしていて、面接のときから千早に興味を示してくれた。箱根駅伝出場が決まったときも、直々に「初出場おめでとう。頑張ってくれたまえ」とメールをくれたくらいだ。
 引退して三十年近くたつだろうに、部長の体は現役のラガーマンのような迫力があった。こうして対峙すると、迫力に気圧されてしまいそうになる。
「ならば、二〇二一年に向けて、ぜひ食堂運営部門で力を発揮してほしい」
 二〇二一年に向けて。
 喉の奥で部長の言葉を反芻して、千早は生唾を飲み込んだ。
「それは、つまり……」
「我が社は、東京オリンピック・パラリンピック選手村における、食堂の運営を受託している」
 ああ、やっぱり。
「オリンピックの一年延期によって、現場は大混乱だ。すでに発注していた何百トンという食材を前に、社員達は頭を抱えている。その他、それはもう恐ろしいほどに、詳細を聞くのが怖くてオフィスに近づけないほどに、問題が山積みだ」
「……だろうと思います」
「ぜひ、君にも一肌脱いでもらいたい」
 ごほん。部長が再び、大袈裟に喉を鳴らす。釣られて千早は背筋を伸ばした。やっとのことで体に馴染んできた濃紺のスーツが、鋼の鎧のようだった。
「仙波千早君。七月一日付で、食堂運営部門配属を命ずる。東京オリンピック・パラリンピックの成功に向け、箱根駅伝で激走したように、尽力してくれたまえ」
 同期達の視線が左右から飛んでくる。こいつに比べたら、自分の配属先はまだマシ──地獄ではないだろう、という安堵の吐息が、聞こえる。
「つ」
 前歯の裏に言葉が当たって、口の中で跳ね返る。
「謹んでっ、お受け致します!」
 二〇二〇年、六月十九日。
 東京オリンピックの開催まで、四百日を切っていた。

<了>

【好評発売中!】
タスキメシ 箱根 (小学館文庫)

駅伝小説の真骨頂、箱根駅伝を描く大傑作!

 あの眞家早馬が「駅伝」の世界に戻ってきた! 
 大学卒業後、管理栄養士として病院で働いていた早馬は、紫峰大学駅伝部のコーチアシスタント兼栄養管理として、部員たちと箱根駅伝初出場を目指すことになる。高校時代、大学時代も陸上の名門校で長距離走選手として期待されたものの、怪我から思うような成績を残せなかった早馬。その背景にあった、嫉妬、諦め、苦い思い――。数々の挫折を経験した者として部員たちに寄り添い、食の大切さ、目標達成の楽しさを伝えようと奮闘する早馬。そんな彼のことをキャプテンの4年生、仙波千早は最初は受け入れられずにいたが……。
 一度も箱根駅伝に出場できない弱小チーム。でも、だからこそ、「箱根駅伝に出たい」「箱根を走らせてやりたい」。徐々にひとつになっていく千早たち部員の熱い願い、そして早馬が見つけた新たな夢は、果たして叶うのか――。
 臨場感溢れる箱根駅伝本戦の描写とともに、丁寧に描かれるそれぞれの心情。エリートではない若者たちの夢、苦悩、様々な思いが、箱根路を駆け抜ける!
 「エピローグ」は、今回の文庫化に合わせ、丸ごと新たに書き下ろしました。

【新刊・シリーズ続編情報】
タスキメシ 五輪 (2022年11月29日発売予定)

己との闘いの舞台は、いよいよ世界へ!

 己との闘いは、続いていく……。
 箱根駅伝を終えた千早は食品会社に就職。その会社から東京五輪選手村食堂に派遣され、偶然コーチ早馬の初恋の人、都と仕事仲間に。
 主将として初出場が叶った4年次の箱根駅伝では、最後の最後で「努力に裏切られた」千早。東京五輪選手村食堂では、裏方として世界のアスリートたちを支えるが、目の回る忙しさの中、自分の仕事への情熱が呼び起こされていく。駅伝では「努力に裏切られた」が、「裏切られた後の景色も悪くない。裏切られた俺は、今、頑張ってます」と言えるまでに成長していく。前半の「祈る者」は臨場感溢れ、読み手の心をつかんで話さないお仕事小説。
 一方、眞家春馬はパリ五輪を視野に入れ世界陸上に参戦。兄早馬との関係や、世界を相手に挑戦を続けるアスリートの心象風景が描かれる、後半の「選ぶ者」。春馬、そして高校時代、大学時代ともにライバル関係だった選手・助川、藤宮らはアスリートとして悩み、葛藤を繰り返しながらも競技生活を続けている。彼らの自分との闘いは、やがて、世界へ……。

【好評既刊】
タスキメシ(小学館文庫)

駅伝×料理、ベストセラー小説待望の文庫化

 陸上の名門高校で長距離選手として将来を期待されていた高3の眞家早馬(まいえそうま)は、右膝の骨折という大けがを負いリハビリ中。そんな折、調理実習部の都と出会い料理に没頭する。一学年下で同じ陸上部員の弟・春馬、陸上部部長で親友の助川、ライバル校の藤宮らは早馬が戻ってくることを切実に待っている。しかし、そんな彼らの気持ちを裏切って、心に傷を抱えた早馬は競技からの引退を宣言する。それぞれの熱い思いが交錯する駅伝大会がスタートする。 そのゴールの先に待っているものとは……。
 高校駅伝、箱根駅伝の臨場感溢れる描写とともに、箱根駅伝を夢見て長距離走に青春を捧げる陸上青年それぞれの思いと生き様が熱く描かれる。青年達の挫折、友情、兄弟愛……。熱い涙、しょっぱい涙、苦い涙、甘い涙が読む者の心を満たします。
 読後は爽快感と希望に溢れる熱血スポーツ小説です。

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初出:P+D MAGAZINE(2022/11/11)

◎編集者コラム◎ 『書くインタビュー5』佐藤正午
【著者インタビュー】高野秀行『語学の天才まで1億光年』/語学に対しての並み外れた深い想い、想像を超える楽しさを綴ったエッセイ集