モーリー・ロバートソンが語る、「ぼくたちは何を読んできたか」①その青春の軌跡 モーリーのBOOK JOCKEY【第2回】
その「ZEN」の合間に、福武書店(当時)から声がかかり、自叙伝を執筆することになった。この本は当初「東大・ハーバード受験術」といったコンセプトで立案されていた。マンハッタンのロックフェラー・センターにある支局で交渉し、契約料を受け取り、その資金でマンハッタンを上下に行脚していたのだ。だが夏の終わり、原稿を督促され、提出した前衛的な文章はすべて却下された。あくまで受験生向けの「合格術」の本でなくてはならないということだった。
なぜ日本人向けに書く日本語の本なのに「ZEN」がないのか? なぜ福武書店の人間はあそこまで自信満々に「世の中、すべて金ですよ」と言い切れるのか? なぜ英語を一言も話さないのに支局に駐在できるのか? 契約料を受け取り、ひと夏の資金として使いきった頃に、企画そのものへの反発心が湧き起こった。
福武書店に連絡を取らず、首都ワシントンDCの郊外にある実家に帰った。秋からの新学期が始まる前に大学を休学した。福武書店はあちこち連絡を取って実家の電話番号を追跡し、原稿の督促状を送ってきた。そこで家族と相談し、あらかじめ受け取った金の返金を肩代わりしてもらって契約を解消。別途自叙伝を書くことにした。その本は半年後、日本で文藝春秋社から出版され、当たった。大きく当たった。福武書店に消耗されない道を選んで、本当によかった。
だがその成功は両刃の剣でもあった。大学合格時に続く二度目の瞬間風速で極彩色に輝いた東京の夏が終わり、またケインブリッジの大学生活へと復学するや、出版社では若手の先生扱いを受けていたのと同じぐらいの勢いで、下に落とされた。日本語で出版された本の実物を周囲の学生に見せても「日本語は読めないから」と取り合ってもらえなかった。「そんなにいい内容の本なら、英語で書けばいいのに」とも言われた。
英語でそっくり中身や文体を復元しようとして、垂直な壁にぶち当たった。英語にならない。それどころか、日本語では面白いとされる「へたうま」に始まる表現をどのように英語に翻訳したとしても、まったくおもしろく読めるものにはならない。太平洋一個分の認識の隔たり。さらには戦勝国のイケイケドンドンな世界観と、敗戦からの復興で強調された無常観などが噛み合わない。状況が異なりすぎる。ぼくの短い人生の物語がアメリカ人の心を打つことはできないのだった。そのショックで二度目の休学をした。アメリカの糸井重里になるのは無理だ。いや、英語で糸井重里や橋本治をやることは、そもそも原理的に無理なのだ。
ケインブリッジの秋はにわかに紅葉が深まり、秋の訪れとともに冷たい風が吹いて枯れ葉が煉瓦敷きの歩道一面に落ちる。西陽に照らされた小さな大学町は美しい。しかしぼくにはグレーしか見えなかった。日本で瞬間風速が吹き、褒められ、大物扱いを受け、アメリカに戻ってはその成功が無化し、小物扱いを受けるという体験がすでに2ラウンドも起きていた。脳内の電圧は低下し、周囲の空気に向かって放射できるリソースが内側にもう湧かなくなっていた。