◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第9回 前編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第9回 前編

小堀政方の罷免で江戸市中に広まる快哉の叫び。
幕府普請役配下の徳内は千島列島を目指し──

 

 加瀬屋伝次郎のもとへ年始の挨拶に来た者は、丸屋勝三郎の入夫(にゅうふ)騒ぎに決まって失望の色を隠せなかった。なかでも高輪牛町(たかなわうしまち)の枡屋長左衛門は、宇田川町の裏だなに住んでいた小童の時分から、丸屋の画才と大名諸侯を屁とも思わぬ不敵な面構えを仰ぎ見ていただけに、月代(さかやき)を剃り上げ、大小を腰にして意気揚々と歩く丸屋のざまを悪い夢のごとくに嘆いた。

「江漢先生はいったいどうなすったんで。長短大小なんぞを腰に、月代を剃って青黛(せいたい)まで塗りたくったうえに本多に結い、愛宕下で声をかけられました時には、最初どなたかとわが目を疑ったほどでした。
 何をおっしゃるかと思えば、お前も枡屋を継いで牛飼いの一家をなす身なのだから『論語』と『大学』ぐらいは繰り返し読めと。悪酔いなさっているのかと思いましたが、どうも素面でした。以前、江漢先生は、『大学』や『論語』なんぞ馬鹿侍が世過ぎのために表向きを取りつくろおうというエセ学問、お女郎衆の和歌詠み、生ぐさ坊主のお経と同じと、笑っておられた。そうでございましょう?
 何がなんだかさっぱりわからない。気になりまして、何があったものかと髪結いついでに新銭座町(しんせんざちょう)の藤太郎さんのところへ行きました。そうしましたら、金地院(こんちいん)の土田なにがしの後家さんのところに入夫されたと。それであんな調子っぱずれの猿マネになったと藤太郎さんは嗤(わら)う始末で。そこいら辺のしょうもない者の話ならば、それはそれとして聞きようもございますが、よりによって何も江漢先生が、今さら土田姓だの大小だのと、そんなものを有り難がるとは……。所詮はその程度の人品なんだと、お前は丸屋のホラ話で煙にまかれただけだと、しまいにはわたしまでが馬鹿扱いされました。
 江漢先生といえば、仙台侯や秋田侯から席画(せきが)に呼ばれ、絵筆一本で何も持たず、総髪に着流し、雪駄履きで出向き、褒美の大金をもらっておきながら、『あんな戯(ざ)れ絵に大金を出す。審美眼も何もあったもんじゃない。大大名があの体たらくでは、もう侍の世は終わった。これぞ亡天下(ぼうてんが)よ』とうそぶいて、呵々(かか)と高笑いしては新吉原に繰り出したものでございましょう? まったく正月早々、情けないやら、悔しいやらで……」

 長左衛門は悔し涙さえ浮かべてそう言った。

 権威や権力に弱いところのある丸屋が、大名屋敷に呼ばれ総髪に着流しで出かけるはずがなかった。亀太郎と名乗っていた子どもの時分からよく見知った長左衛門に、丸屋が例によって大風呂敷を広げてみせたものだろう。

「まあ、人は皆変わっていくものさ。丸屋さんも四十路を目の前にして、いつまでも雨漏りのするあばら家で独り暮らしを続けるのがつくづく嫌になったものだろう」

 伝次郎はそう言って長左衛門を慰めるしかなかった。

「旦那様。わたしらごとき凡庸な者と、江漢先生はやはり違っておられなくては困ります。天与の画才を備えて、絵筆を持てば魔法のごとく何でも描かれる。本物よりも本物らしく。それが、そこいらにあふれてる潰れ武士や乞食旗本の真似をして、一体何の得がございますので。まったく、情けない限りで……」

次記事

前記事

飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

ハクマン 部屋と締切(デッドエンド)と私 第22回
吉田修一さん 11年ぶりの書き下ろし小説『アンジュと頭獅王』