◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第8回 後編
勘定奉行の松本秀持の目を引いたものは──。
これまで幕府が探索方の普請役を蝦夷地に送り直接北方事情を調査したことはなく、蝦夷地に関しては松前藩任せだった。佐藤玄六郎ら普請役の報告書は、蝦夷地に迫る異国勢力が二系統あって、東蝦夷地はオロシャ、西蝦夷地は山丹(さんたん)すなわち清国の勢力下にあることを述べていた。カムチャッカから千島列島を南下して来たオロシャは、ウルップ(得撫)島の北に位置するシムシリ(霜知)島までをすでに勢力下に収め、ラッコ猟のためウルップ島にも毎年のように渡来していた。また、黒竜江下流の山丹からもカラフトのナヨロを経由してソウヤまでの交易通路ができており、カラフトの先住民は山丹に渡り、その先の満洲近くまで行き来していた。いずれにせよ蝦夷地を松前藩任せにしこのまま放置しておけば、いかなる事態が引き起こされるかわからない状況にあると見えた。
松本秀持が注目した蝦夷地における貿易は、東西ともたいした規模ではなく、山丹交易では蝦夷錦(絹織物)、青ガラス玉、真羽(まば/鷹の羽)の類であり、オロシャ交易ではせいぜい羅紗(らしゃ)、緞子(どんす)、更紗(さらさ)などの織物類ぐらいが目立つ程度のものだった。松本秀持は、オロシャ交易に関してかなりの規模を期待していたが、長崎のオランダ交易で充分間に合う程度のものでしかなかった。蝦夷地における鉱山についてもたいした朗報は得られず、金銀鉱山開発によるオロシャ交易の話は夢物語でしかなかった。
松本秀持の目を引いたのは、やはり新田開発の可能性だった。
『蝦夷本島は周囲おおよそ七百里ほど。カラフトは蝦夷本島に劣らぬ大島と思われます。クナシリ島は周囲おおよそ百五十里。エトロフ島は周囲おおよそ三百里。ウルップ島は周囲おおよそ百五十里ほどあるとのことです。
ところが、いずれも広大な土地であるにもかかわらず、蝦夷人どもが住居を建てわずかに住んでいるだけです。すでにソウヤから普請役の庵原弥六(いはらやろく)がカラフトへいきました時に、飯米の運送に差し支え、途中で帰るしかなくなりました。糧米が乏しければ満足に取り締まりなどできませんので、まずは蝦夷本島の新田開発を行うのがよいと考えます。
蝦夷本島の地味はよく、大小河川の水利にも恵まれ、上田が出来るに違いないと思われます。また蝦夷人たちも農業を好み、それを望んでおりますが、栽培方法につきましては松前藩から禁じられて知らないとのことであります。これは、交易場を請け負った商人どもがおり、それらの者たちによる運上金が松前藩に納められないことになれば、藩の維持運営にも差し支えることになりますので、商人どもからの意を受けてそうしてきたものかと存じます。蝦夷人たちに種子を渡し、農具を与え、栽培の仕方を教えれば、現在の蝦夷人だけでも、新田開発はかなり進むものと思われます』
佐藤玄六郎は、ともかくも幕臣として初めて蝦夷本島の周囲を実際に一巡りし、おおよそ七百里と推定していた。そして、蝦夷本島における耕作可能地を百十六万六千四百町歩と見積もり、本土の石盛りの半分として五百八十三万二千石の米収穫が見込めると算出していた。
その程度の収穫ならば冷寒な蝦夷地でも充分できるだろうと松本秀持にも思われた。全国の石高約三千万石、その二割に近い増産が蝦夷地の新田開発によって可能となる。ここ数年の財政悪化に苦虫をかみ潰したような松本秀持の顔が久しぶりに笑みで崩れた。
佐藤玄六郎が蝦夷本島の周囲を回ったことは事実だったが、実地に測量をしたわけではなく、全く推定以外の何ものでもない、いわば思いつきの数字であり、それに基づく耕地可能面積に過ぎないことまでは、追い詰められた勘定奉行の想像力はおよばなかった。