◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第9回 前編
幕府普請役配下の徳内は千島列島を目指し──
長左衛門が丸屋に対していだく幻影には、世俗の身分や権威など屁とも思わず、おのれの画才のみを頼りに絵筆一本で生き抜いていくという町衆の望む英傑像があった。かの平賀源内も微禄とはいえ元来士分の者である。町人出の丸屋が、絵筆という武器で分限を破壊し新しい世を切り開いていく、そういう特別な存在として映っていた。それが手のひらを返したような丸屋のざまに遭遇し、長左衛門には裏切られた思いが取り分け強かったものだろう。確かに、長左衛門の言うとおり、丸屋にとって何の得もない話だった。
伝次郎も、丸屋がいつか新しい画の世界を切り開く日を願っていた。丸屋の師匠宋紫石(そうしせき)の、物と奥行きをありありととらえる写実性と、西洋画の新しい立体画法を交えた大作を期待していた。丸屋の銅版画は、あくまでもオランダ鏡で反射し拡大して見るための眼鏡画で、細部は丁寧だがいかんせんどれもが小さすぎた。手書きで彩色した大判の洋風画は色彩こそ映え異国趣味は感じられるものの、大雑把で味わいという点では宋紫石の漢画にとてもかなわないところがあった。現実の山河や風俗を無視し絵から絵を生み出すだけの狩野派を丸屋は口汚く罵ったが、このまま終われば丸屋自身が渡来の西洋画を模倣しただけの猿マネ絵師でしかなくなってしまう。
外見は豪胆に見せているものの繊細で鋭敏な丸屋の感覚が、この時期にいたって武家入夫を選択させたのかもしれないと伝次郎には思われた。良くも悪くも万事に開放的な田沼意次の時代が末期的な様相を見せ、田沼さえ消えれば少しはましな世となるかのごとく語られていた。だが、次に来るのはそれとは逆の、旧くさい道徳規範と分限とを押しつける息苦しい世となるに違いなかった。町衆にとってひどく窮屈で貧相な時代が来るだろうという予想はついた。
二十九
天明六年二月二十四日、東蝦夷地(えぞち)アツケシ(厚岸)を目指して、一人の男が松前城下を単身出発した。幕府普請役(ふしんやく)配下で、まだ名乗るべき姓もなく「徳内(とくない)」という名しか持たない、検地竿役(けんちさおやく)という端(はした)役人だった。徳内は、松前藩からの道案内もアイヌ語通辞(つうじ)もともなわず、城下で雇い入れた人夫に食糧と測量道具、それに先住民との交流に使う煙草を積んだ橇(そり)を引かせ、凍てついた陸路をたどった。
松前から東に四里四町(約十六・四キロメートル)余離れた福島村で、徳内は携えてきた八分儀を使い三つ星(オリオン座)を挟む青白い源氏星(リゲル)の南中高度を計った。緯度は、九十度からその地での星の南中高度を引き、それにその星の赤緯(せきい)を足せば算出できた。源氏星の赤緯はマイナス八度十三分である。徳内は福島村の北緯を四十二度と測量した。
福島村には打ち捨てられた広大な田の跡が見られた。安永八年(一七七九)、出羽国秋田の農夫が開墾を試みたものの、その秋の不作で断念したものだった。しかし、福島村で徳内が耳にした話では、その翌年に松前藩が津軽の農夫を呼び寄せ、その者に稲を育てさせたところ、初年はみのりが無かったものの、二年目に六十俵の収穫が得られた。ところが三年目はまたしても凶作で、藩から田作りを停止させられたものという。