◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第9回 後編
幕府普請役配下の徳内は千島列島を目指し──
『生命さえあれば幾年かかっても島々の果てまで見届けて帰るつもりであるゆえ、海上に変事あったならば破船と申し出てくだされたい』
千島列島を順次北へさかのぼり、できればカムチャッカからオロシャ本土まで、師本多利明の「開国交易」と「属島開業」の可能性を探り、測量値で検証し確認する。そして、オロシャの南下と蝦夷島周辺におけるオロシャの支配状況を調べ上げなくてはならない。徳内は、前年に江戸から弘前まで陸路を使って北上し、仙台や南部、弘前における飢饉の惨状をつぶさに見ていた。幕府も、諸藩も、第一に守るべき人命を軽んじ、金銭稼ぎに奔走した結果が人の絶えた村落であり、延々と続く荒れ果てた田畑だった。徳内は、本多利明から託された「済民」の使命に献身する覚悟だった。
三十
雪原の旅を続ける徳内がクシロ(釧路)川の河口にいたり、目指すアツケシの集落まで残り八里(約三十二キロメートル)余に迫った天明六年二月の末、西蝦夷地ソウヤ(宗谷)で越冬した庵原弥六(いはらやろく)ら十数名の身の上には、危機的な状況が訪れていた。
彼らが宿所としたソウヤの運上小屋とその宿舎は、板張りに草葺(くさぶき)の造りで、あくまでもカラフト先住民との交易ができる夏場のみに使用するためのものだった。せいぜい小屋の周囲に葦の束で風雪囲いをほどこした程度で、暖を取れるものはそれぞれ炉の一つがあるのみだった。蝦夷本島でも最北に位置するソウヤの寒気は尋常でなく、水場の細流や泉も凍りつき、氷を鍋で溶かして飲む程度で、いくら火を焚いてもなかなか湯が沸くまでにはいたらなかった。
彼らが食べるものといえば、先住民が炊いてくれた飯に干し大根の味噌汁、干した魚を焼いたものぐらいで、やがて足がしびれ歩くのも困難となり、二月の半ばからは隊のほとんどが半ば凍った藁(わら)蒲団の上で重く冷たい夜具にくるまり身を横たえているしかなくなった。
三月二日、松前藩鉄砲足軽の田村運次郎が意識を失い、荒い呼吸を繰り返した後に息絶えた。彼は、藩から西蝦夷地検分隊に同行を命ぜられ、この越冬訓練にそのまま参加せざるをえなかった。田村運次郎の脛には、寒気病(かんきびょう)特有の浮腫ができていた。
寒気病は、栄養不足により脚気を招き、やがて心臓をおかして呼吸困難におちいらせ死にいたらしめる。同じ蝦夷本島でも、田村運次郎がこれまで過ごしてきた南海岸の松前と、最北ソウヤの冬はあまりにも違いすぎた。
同月七日、アイヌ語通辞の長右衛門が田村運次郎と同じ症状で死亡した。彼もまた松前藩から派遣されソウヤでの越冬を強いられた。
西蝦夷地検分隊を率いる幕府普請役の庵原弥六も消耗が激しく、ほぼ寝たきりの状態だった。まだ歩行が可能な下役の引佐(ひきさ)新兵衛と鈴木清七は、田村運次郎と長右衛門の病死を松前藩に報せ救援を頼むべく先住民に使者を頼み、松前へ向かわせた。
陽光が柔らか味を増し、沢の氷も割れ目を見せてやっと流れ始めた。しかし、この季節は沖に流氷が漂っていてまだ舟が出せず、陸路を行くしかなかった。先住民の健脚でもソウヤから松前まで一か月を要した。松前からの救援隊が来るのは、早くとも二か月後となる。
松前の蝦夷地検分隊本部には、幕府普請役の皆川沖右衛門(おきえもん)と青嶋俊蔵がいた。松前城下で冬を過ごしたこの二人は、ソウヤで越冬した庵原弥六ら西蝦夷地検分隊の苦況など知るはずもなかった。
蝦夷地検分のため幕府から派遣された五人の普請役のうち、山口鉄五郎は、東蝦夷地での幕府交易を今年も継続するのを前提に、一月二十六日松前を発ち、徳内の後を追って陸路アツケシへと向かった。指揮役の佐藤玄六郎は、前年の蝦夷地検分の報告と、当年も幕府御用の苫屋久兵衛による蝦夷地交易の延長を申請するため江戸に出府したままで、皆川と青嶋は連絡を待っている状況だった。
西蝦夷地で越冬した庵原弥六からは何の連絡も届かなかった。すでに三月の声を聞き、西蝦夷地の山丹(さんたん)交易を調べるためには動き出さなくてはならない時期が来ていた。
十二日、青嶋は皆川と相談のうえ下役の大石逸平(おおいしいっぺい)にカラフト渡航を命じ、陸路でまずソウヤへ向かうべく松前を出発させた。