◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第9回 後編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第9回 後編

小堀政方の罷免で江戸市中に広まる快哉の叫び。
幕府普請役配下の徳内は千島列島を目指し──

『来年になればロシアは松前そのほか近所の島々に手を入れると聞いた。これらの地はロシアが北緯四十一度八十三分にあると測量した。ロシアは、カムチャッカ近くのクルリイスと申す島へ砦を築き武具を準備している』

 幕府が、松前藩に任せきりにし、蝦夷地の開発を放棄しているところに何よりも問題があった。蝦夷地は充分に発展する可能性を秘めている。本多利明が発展の根拠としたのは、オランダの都は北緯五十三度二十三分、ロシアの都ペートルビュルグは北緯六十度弱にもかかわらず繁栄していることだった。蝦夷本島はもとより、クナシリ島、エトロフ島、ウルップ島はそれより南に位置する。緯度から判断すれば、それらの島々に五穀百果が実らぬはずがなかった。まだ地理学が未発達のこの時代、本多利明は、世界地理における位置、すなわち測量数値である緯度が土地繁栄の可能性を決定すると考えていた。

 また、日本に所属すべき北方近隣の島々を開拓するにしても、武力に訴えたのでは双方が損害をこうむり疲弊するだけで繁栄は望めない。あくまで済民の事業は、平和裡に交易を行い、相手の国力を自国に取り込むべきものである。

 門人のなかでも徳内は、その考えを実証できる能力を備えていた。算学に熟達し、冷静で粘り強く、小柄ながら体力に恵まれ健脚を備えていた。何より徳内は、飢饉によって打撃を受けた出羽国の出身であり、師の済民の思いに感ずるところ大なるものがあった。先住民に対しても本多利明は、「夷狄(いてき)といえども天下の人情一枚」と述べ、何ら変わるところのない人間であり、くれぐれも敬愛の念を忘れるなと徳内に諭した。

 

 本土とは異なりはるかに寒気厳しい蝦夷島の冬、江戸からの普請役やその下役のほとんどは外を出歩くのも難しかった。だが徳内は、吐息が眉(まゆ)や髭(ひげ)に霜となって宿る厳寒も苦にせず、輪かんじきを履いて海風が吹きつける雪原を進んだ。

 和人地を過ぎれば、蝦夷島の山々は原始のままに荒々しい稜線を天に向けてそびえ、雪をかぶった原生林は太古のままの重い静寂を保っていた。雪原には人の足跡も気配もなく、まさしく神々だけが天地を支配していた。先住民の集落をたどって海岸沿いの道無き雪路を徳内は北へ向かった。いまだ幕府役人も松前藩士も踏み入れたことのない北方の世界に一歩ずつ近づいていく緊張と興奮とが徳内の乱れぬ歩調に表れていた。

 先住民の集落にたどり着くと徳内は橇に積んできた煙草を渡し、干し肉や魚卵の入った粥を炊いてもらったり、魚や獣の脂が浮かんだ濃厚な汁椀を御馳走になったりした。煙草は彼らにとって神々への儀式になくてはならないもので、その煙が神の国に祈りを届ける役割をした。

 かつて若き日に煙草の行商をしていた徳内は、良質の煙草を選び、湿気を帯びないよう丹念に和紙と油紙で包み携えていた。徳内のもたらした煙草は、香りも酔い心地も格段に良く、先住の民からことのほか喜ばれた。礼儀正しく穏やかな表情の江戸から来た小柄な役人の身を気づかって、先住の民は干した海藻ばかりか夏場に採取し乾燥させた浜ナスや苔モモの甘味まで手渡してくれた。川の渡し舟や次の集落への道案内にも困らなかった。

 北へ向かう徳内が身にまとっていたのは、松前で手に入れたカラフト先住民のアザラシ皮の防寒帽、親指だけが離れたアザラシ皮手袋、鹿皮の長靴とアザラシ毛皮の脚絆(きゃはん)、首回りには狐の毛皮を巻き、刺し子にした厚司の上に着た鹿毛皮の防寒服はオロシャ人の釦(ボタン)留め様式だった。総髪にした髪を後ろで束ね、髭も剃らず、先住民と変わらぬ格好で、腰の長脇差だけが日本人を示していた。蝦夷地の先住民は厳寒のなかを何代も生き延びてきた。彼らの生きる知恵に従えば厳寒の北方でも生き延びられることは間違いなかった。イルカや羆(ひぐま)の脂肪が厚く浮いた汁椀は、厳しい寒気をやわらげた。彼らが食するものを進んで摂り、彼らが身に着けるものを身にまとえばよいだけのことである。

 当年の東蝦夷地検分の先発として松前を出発するに当たり、徳内はこう書き残した。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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