◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第9回 後編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第9回 後編

小堀政方の罷免で江戸市中に広まる快哉の叫び。
幕府普請役配下の徳内は千島列島を目指し──

 翌朝、徳内が起きしなに海岸に出てみると、海上一面に氷山が押し寄せていた。氷の厚さは五間から二十間ほどもあり、氷山は海面から五、六尺(約百八十センチ)も高く浮き出て、水面下にはどれだけの氷がひしめいているかわからぬほどだった。海は一面氷海となり、波も立たない有様で、当分の間舟が出せなくなったのは明らかだった。そんななかでクナシリの先住民は、氷山を飛び渡り、はるかに沖の方まで行ってアザラシなどを沢山捕えて戻った。

 ひたすら氷海が開けるのを待ち、十数日を費やした後、徳内を乗せた舟はイショヤを出発した。クナシリから第二島のエトロフ島への渡海口アトイヤに着き、再び日和を待った。クナシリとエトロフの間の海峡は、オホーツク海から太平洋に流れ出る三筋の潮流が落ち合い、難所の一つとして先住民にも知られていた。幕吏はおろか松前藩士も、この海峡を越えてエトロフ島に渡った者はまだいなかった。

 三月末、クナシリ島の北、アトイヤで日和を待っている徳内のところへ、山口鉄五郎と下役の大塚小市郎が到着した。彼らは、徳内の後を追うようにして三月二十日にクナシリ島のトマリに着き、二十七日に出帆して島の東海岸を北上しここにいたった。山口ら二人は、髭も髪も伸ばし放題にし先住民と見分けのつかない徳内のさまに戸惑うほどだった。

 エトロフ島に渡るにはなかなか風向き悪く、やっと順風を得た四月十八日早朝、徳内はエトロフ先渡を期し先住民イトコイの舟で単身アトイヤを出発した。

 同日、徳内の乗る舟は、エトロフの海峡を無事に越え、弓形をなしたエトロフ島の南西端、ベレタルベに着いた。その港は、そびえ立つ山塊が海岸に迫り荒涼とした景色を呈していた。ベレタルベからエトロフ島の西海岸を北上した。エトロフ島の西側にあたる海はうそのように波穏やかだった。一里ほど北に進んでモヨロの集落にさしかかった。モヨロの海岸に村人が大勢出ていた。老人や女、子どもまで二百人近くもの群衆がおり、舟に向かってしきりに拝礼するのがわかった。

 フリウエンに「何の騒ぎか」と徳内が問うと、イトコイが答えるには、「日本からの和人が来たと伝え聞き、皆珍しがって集まっている」という。舟を寄せ、徳内はモヨロの浜に上陸した。自分が日本から来た理由を、「属島開業」の意義を話したかったが、満足に先住民の言葉を話せないため伝えられなかった。

 モヨロの浜辺には、七十貫目ほどの古い碇(いかり)が三基打ち上げられていた。これらの碇は、宝暦五年(一七五五)の冬に紀伊国薗村の堀川屋の船が伊豆浦賀を出帆したものの海上で遭難し、翌年五月にエトロフ島へ漂着した時の遺品だった。それから三十年が過ぎ、日本人を見たことのない先住民が近隣から集まって来たのだった。

 モヨロからまた八里ほど北上して、北緯四十六度近く、シラルルの港に着いた。その海村で徳内は意外なことを耳にした。このエトロフ島の東端にあたるモリシハの村に赤人(あかじん)、つまりオロシャ人が三人逗留しているという。

 エトロフの北、千島第三島のウルップ島には、オロシャ人が頻繁にラッコ狩猟にやって来る。そのオロシャ人たちは、去年の夏ウルップ島から全員去ったと徳内は聞いていた。何のためにオロシャ人がエトロフまで来たのか。オロシャ人に遭遇するにしてもウルップ島より先でのことだと徳内は思っていた。いずこにせよオロシャ人と直接会わなくては、南下の状況も、その狙いも知ることができない。

 あまりに突然の報に、徳内も戸惑ったが、ともかくもモリシハまで急行しオロシャ人と会う意志を固めた。

(連載第10回へつづく)
〈「STORY BOX」2019年11月号掲載〉

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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