◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第10回 前編
徳内はオロシャ人から三年前の一件を聞くが…
三十一
天明六年(一七八六)四月十八日、本年度カラフト探索の先発を命じられた大石逸平(いっぺい)は、西蝦夷地(にしえぞち)ソウヤ(宗谷)の運上(うんじょう)小屋に到着した。三月十二日に松前を出発し、蝦夷本島の西海岸づたいに先住民アイヌの踏み分け路をたどってソウヤまで、三十五日を要していた。
大石の到着を笑顔で出迎えてくれるはずの庵原弥六(いはらやろく)の姿はなく、下役の引佐(ひきさ)新兵衛と鈴木清七(せいしち)も憔悴(しょうすい)しきって身を横たえ、身の回りのことすらおぼつかない有様だった。
前年に引き続きこの年も西蝦夷地検分隊を統率するはずの庵原弥六が、去る三月十五日に病死したことを大石もこの日初めて知った。そればかりか、松前藩から助勢として差し向けられた藩士の柴田文蔵と工藤忠左衛門、足軽の田村運次郎、アイヌ語通辞の長右衛門の四人までもが、耐寒訓練を兼ねた越冬中に死亡し、西蝦夷地検分隊は壊滅の危機にさらされていた。引佐らの話では、すでに三月の初め救援のため先住民アイヌの使者を松前に向けて送ったとのことだった。おそらくその使者とはどこかで行き違ったものだと思われた。
大石逸平は、普請役(ふしんやく)の青嶋俊蔵の下役として前年はアツケシ(厚岸)を中心に東蝦夷地で活動した。下役は普請役に臨時で雇われた無禄人であり、蝦夷地探索が終われば帰村するしかない身だった。昨年、大石は、本多利明(としあき)の直弟子にあたる検地竿役(さおやく)の徳内(とくない)と行動を共にし、蝦夷地における「開国交易」と「属島(ぞくとう)開業」によって内地農村の荒廃窮乏を脱却させるという意義を共有するにおよんだ。そのためにも本年度はカラフトの全貌を明らかにし、山丹(さんたん)交易の実態をつぶさに調べ上げる任務に邁進(まいしん)する覚悟だった。その矢先に突き付けられた悲劇だった。大石は極寒の地における探索検分の難しさを改めて思い知らされた。まずはソウヤで生き残った者たちの回復に努め、松前からの救援を待ってカラフトに渡海するしかないと心を切り換えた。
四月十八日、陽暦では五月の半ばにいたり、先住民の女性たちは、山に分け入ってオオハナウド・行者ニンニク・オオバユリ・ニリン草・フキノトウ・ゼンマイ・コゴミ・ヨモギなどの山野草を採り集める季節を迎えていた。この季節、先住民はカジカやサクラ鱒(ます)などの魚類にそれらの野草をふんだんに入れた汁物を食べた。味付けには、火を当てた昆布に薄めた海水、それにヒグマやイルカなどの獣脂や魚油を使った。大石は、先住民の女性たちに彼女らが食べるのと同じ汁物を作ってもらい、引佐ら生き残った者たちに食べさせることに専念した。
先住民たちは日頃から、「食べ物の好き嫌いをすれば身体がだめになる」と語り、季節ごとに何を食べればよいのかをよく知っていた。極寒の地で生きる民の智恵に従えば生き延びられる。先住民は情味深く、自分たちの食物がわずかでも、空腹の人がいれば分け与え、旅人が立ち寄れば食事をふるまう。
御礼として大石は米と煙草(タバコ)を先住民に返したが、彼らは保存するために取り置いた山野草まで衰弱した探索隊のために惜しげもなく与えてくれた。
四月末、松前藩から遣わされ、足軽の林与兵衛が糧米を携えてソウヤに到着した。ソウヤで越冬した西蝦夷地検分隊に多くの病人が出たことまでは、飛脚として先月松前に着いた先住民から林も耳にしていたが、幕府普請役の庵原弥六と松前藩の柴田文蔵らあわせて五人もの死者が出るにいたった事実を目の前にし、ただ立ちすくむばかりだった。