◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第10回 前編
徳内はオロシャ人から三年前の一件を聞くが…
五月の声を聞くなり、大石はカラフト渡航のためソウヤ先住民の乙名(おとな=集落長)に舟を出してくれるよう依頼した。カラフトなど奥蝦夷と呼ばれる北方地域で活動できるのは、五月から七月までの三か月しかなかった。越冬して生き残った引佐新兵衛らは日を追うごと顔に血色が戻り、少しずつ回復へ向かっていくのがわかった。それでも、引佐と鈴木清七が本年度カラフトに渡り、探索活動にあたるのはとても無理だと思われた。大石は、松前にいる普請役の青嶋俊蔵と皆川沖右衛門(おきえもん)に宛てて引佐らの病状を報せ、船便の都合がつき次第、彼らを松前に帰して養生させるよう文をしたため、先住民の飛脚に託した。
五月三日、大石逸平は、カラフト南端のシラヌシ(白主)を目指し、先住民の操作する板つづり舟で単身ソウヤを発った。
三十二
五月四日、東蝦夷地探索の先発を担った徳内は、エトロフ島の北湾、ナイボに着いた。三人のオロシャ人が滞在しているというモリシハのシャルシャムまで海路一日の距離に迫った。徳内はここまで蝦夷本島アツケシ(厚岸)の乙名イトコイの舟で渡ってきた。
シャルシャムの乙名はマウデカアイノという名で、とりわけ才知に優れ、蝦夷本島から千島列島にいたる各地の先住民から畏敬の念をもって仰がれていた。しかも、イトコイの舅(しゅうと)にあたる人物だった。
徳内は一旦ナイボ村に上陸し、シャルシャムに滞在するというオロシャ人のことをあらかじめ確かめておく必要を感じた。ナイボ村の乙名はハウシビといい、彼は第三島のウルップより北の島々まで渡航した経験があった。ハウシビの弟はオロシャ人の通辞をつとめ、ハウシビ自身もオロシャ語を少し話せると聞いた。ハウシビの弟は、名をホウナニンと改め、今ではオロシャ人の宗教を信仰するのだという。
徳内がハウシビに会ってその点を問いただすと、オロシャ人の宗教は先住民の祖先信仰と自然崇拝とは異なり、天帝をあがめ、奇妙な形の塔婆(とうば)に礼拝する。徳内がこれから向かうシャルシャムのマウデカアイノの家には、オロシャ人によってその塔婆が立ててあるという。それは製材した木に横木を渡して十字を作り、その下にも小さな横木を取り付けてあるもので、同形の金属で出来た持ち運べるものには両手を広げた裸の男の像が付いているとハウシビは語った。
イトコイが交易で得たオロシャ製の赤い上掛け長衣や革長靴、革帯などを身に着けているように、オロシャからの品物がかなり東蝦夷地に入っていることはわかっていた。だが、千島第二島のエトロフ先住民に、オロシャから持ち込まれたキリスト教をすでに信仰する者が出ていた。かつて長崎でポルトガル船交易の必要からキリスト教に改宗する者が続出したごとく、あくまでも交易の便宜上キリスト教を信仰しているのか、あるいは心底キリストの教えを信奉しているのかは不明だった。
信教は、衣類や履物などとは異なり、人の心を支配する。オロシャからのキリスト教がどれだけ先住民に広まっているのか、徳内はそれも調べ上げる必要があると考えた。
シャルシャムのオロシャ人はやはり三名からなる者で、去年ウルップ島から着のみ着のままエトロフへ逃げて来たのだという。三人のうち頭(かしら)にあたる者はイジュヨという名で、オロシャ本国から来た人物らしかった。ハウシビの話では、オロシャ人もふた通りあって、「本国から来る者」は好い人物が多いが、本国から「遠い島々(カムチャッカ周辺)から来る者」は乱暴で無頼の徒が多いという。去年ウルップ島に来たのは、ほとんどが遠い島々からの者だった。そのイジュヨが、船員たちの不法をたびたび諫(いさ)め、それがもとで争論となり、船員たちがイジュヨを殺そうとした。それに気づいたイジュヨら三人はウルップ島の山に逃げ込んだ。すると船員たちは、イジュヨが浜辺に埋めておいた鉄砲や衣類、食糧を奪い、三人をウルップ島に置き去りにしたまま出帆して立ち去った。イジュヨら三人は、その後ウルップ島で出会ったエトロフ島先住民の舟でシャルシャムに着き、乙名のマウデカアイノに保護されて年を越したのだという。