◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第10回 後編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第10回 後編

ラッコ猟をめぐる先住民とオロシャ人の衝突──
徳内はオロシャ人から三年前の一件を聞くが…

 イジュヨは「カムサスカ(カムチャッカ)商人が交易のできるよう掛け合うため日本に渡りたい」と言った。そして、「船の乗員による合議に背けば罰せられる。われわれ三人は帰国することを決めた合議に背き、ウルップに残った。日本へ交易掛け合いのため渡海すれば、われわれが仲間の合議に背いた罪も許され、日本のことを国主に報告すれば喜ばれるにちがいない」と付け加えた。

 そしてイジュヨは、革袋と油紙で厳重に包んだ五寸四方の紙を見せた。その紙面にはオロシャ語で何やら書かれた文字と印判が押してあった。オロシャの本国政府が出した旅行免状だという。

「これさえあれば、イスパニア、フランスヤ、ポルトガリア、アムステルダム、アンゲリア(イギリス)、アラビア、ポリシヤ(ポーランド)などに行っても、本国へ帰してもらえる手形だ。日本の南海の港にはヨーロッパのイスパニア、フランスヤなどの船も来ているだろう。その通辞もきっといる。この旅行免状さえ出せば、すぐに本国へ送り届けてもらえるはずだ」とイジュヨは語った。

 イジュヨが、松前藩を越えて幕府からの交易許可を願っているのはわかった。だが、徳内は、蝦夷地探索においては幕府の役人に違いないが、一介の無禄人であり、検地竿役という臨時雇いの端(はした)役に過ぎなかった。上司の青嶋俊蔵でさえ、普請役という極めて不確かな身分の下級幕吏でしかない。当然のことながら幕府の交易許可を得るためオロシャ人を江戸へ連れて行けるはずがなかった。

 イジュヨら三人がウルップ島に残留したのは、蝦夷本島のアツケシまで渡り交易することを望んだためである。

「……ならば、カムサスカと永久交易の取り結びのため、自分と一緒にアツケシへ行ったらどうか」と徳内は提案した。

 するとイジュヨは非常に喜び、「早速カムサスカ役所とオホツコイ役所、また本国に宛ててその旨の書状を出すことにする」と繰り返し礼を述べ、宿舎に帰った。

 松前藩が蝦夷本島アツケシでのオロシャ人の交易許可に踏み切るはずがなかった。それでも、松前藩との交易交渉を行えば、イジュヨらは船員決議に反してウルップ島に残留した正当な理由を得ることができる。彼らを無事にオロシャへ帰すにはそれしかなかった。徳内は、クナシリ島に一度戻ってオロシャ人二名を普請役に託し、それから再びウルップ島へ渡航するしかないと判断した。

 

 五月下旬、やっと風波が穏やかになったのを機に、先住民の板つづり舟にイジュヨとサスノスコイの二人を同乗させてエトロフ島のシャルシャムを出発した。従者のニケタは、イジュヨの書状をオロシャの各役所へ届けるため、先住民の別便でカムチャッカへ戻ることになった。

 六月下旬、徳内と二人のオロシャ人を乗せた先住民の舟は、クナシリ島の南端、運上小屋のあるトマリへ着いた。トマリにはクナシリ島探索を終えた山口鉄五郎と青嶋俊蔵の普請役二名がいた。山口らも、初めて目にするオロシャ人にかなり驚いた様子だった。

 徳内は、山口らにイジュヨとサスノスコイがいかなる人物かということ、また彼らを連れてきた経緯を細かく話した。

「オロシャ語が話せエゾ語で通辞できる者は、エトロフ島北湾のナイボ村、乙名ハウシビの弟ですが、旅に出ていてつかまりません。イジュヨは少しエゾ語が話せますので、エゾ語を共通語として会話するしかありません」と徳内は伝えた。

 トマリには、松前藩から派遣されたエゾ語通辞の林右衛門もいた。山口と青嶋にも、直接オロシャ人に南下の状況やらオロシャ国内の諸事情を問いただす機会が訪れた。

「イジュヨらは、あくまでも蝦夷本島アツケシでの交易を望んでおり、松前藩との掛け合いを求めています。結果はいかにせよ、掛け合う場さえ与えていただければ、二人のオロシャ人は、大任を果たしたことで、オロシャ船乗員の決議に背きウルップ島に残った罪をすすがれ、本国への帰還も無事に果たせるものと思います。どうか、そのご便宜を図っていただきたく」と徳内は山口と青嶋に願い出た。

 徳内にはウルップ島探索の命題が残されていた。すでに六月も下旬にいたり、北方で探索のために残された期間も一月足らずだった。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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