◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第10回 後編
徳内はオロシャ人から三年前の一件を聞くが…
徳内を乗せた板つづり舟は、ウルップ島の西岸をタブケワタラからセクツの湾をたどり北上した。アタットイにいたる前、海上にベウワと呼ぶ小島があり、切り立った岸壁一面を鳥の糞が白く染めていた。
「ラッコです」とフリウエンが前方を指さした。海岸から二丁(約二百二十メートル)ほど離れた波間に、三十頭ばかりの群れが三群に分かれ漂っていた。先住民たちにとって取り分け高価な毛皮を持つラッコは特別な獲物らしく、舟を操りながらも彼らの視線はすべてラッコの波間に浮き沈みする群れへ向けられていた。先住民の水主(かこ)は、ラッコは潮に流されないようオニワカメなどの海藻につかまり、仰向けに浮かんだり潜ったりしているのだと徳内に伝えた。
舟が半丁ほどに近づくと、素知らぬ顔をしてラッコの群れは遠ざかり、必ず一丁余の距離を置いて警戒をゆるめなかった。ワニナウをはじめ太平洋側にあたるウルップ島の東側にラッコ猟場があるのは聞いていたが、島の西北にもかなりのラッコがいるとわかった。
アタットイの湾に着き、徳内は上陸した足で海岸の山際に建てられた六棟の家に向かった。オロシャ人の姿はなかった。どの家もさほど新しい建物ではなかった。家は茅(かや)で厚く葺いた屋根ばかりが目立っていた。近づいてみると周囲に岩と砂を盛り上げて土塁を築き、棟まで砂が盛られ、階段が作られ、地下に入り口の板戸があった。穴蔵のように地面を六尺(約百八十センチ)ほど掘り下げ、材木を並べて煉瓦と漆喰(しっくい)で固め、堅牢な造りをしていた。どの家にも煉瓦で築いた大きな竈(かまど)があり、煙り出しも作られていた。これならば冬も充分に越せそうだと思われた。
オンセイチャの乗った船は、交易のために船荷を積んでウルップ島アタットイに到来したもので、乗員の死に絶えた漂流船ではなかったのではないか。
徳内の疑念はまずそこにあった。
オロシャ船が連年ウルップ島西岸のアタットイに来航し、オロシャ人は上陸して海岸に冬も越せる家屋を建てた。エトロフ島、クナシリ島、蝦夷本島アツケシの先住民たちは、オロシャ人に年間を通して居住されウルップ島が領土のごとくされてしまえば、いずれラッコ猟も制限されまた毛皮の現物税を強いられることになる。それでは交易による先住民の暮らしが成り立たなくなる。
三年前、エトロフ島の乙名ハッパアイノたちは、アタットイ湾に到来したオロシャ船を襲い、船にいたオンセイチャという若い日系人らを殺し、船にあった珍品や衣類を奪い取って船に火を放った。オロシャ人船員の二十五人は、カラフトなどではなく、このアタットイで殺されたのではないか。東蝦夷地の先住民たちが、ウルップ島のオロシャ人支配は許さないと力で誇示した事件ではなかったかと徳内には思われた。
イジュヨらも、三年前の事件当時はウルップ島に来ていなかった。オロシャ船の積荷を奪ったハッパアイノらが、逃げる際に舟が転覆しすべて溺死したというその話も疑わしかった。イジュヨらの話もオロシャ人や先住民からの伝聞に過ぎないものだった。ひょっとしたらこのアタットイでオロシャ人と大規模な戦となり討死したのかもしれない。あるいは、ハウシビがオロシャ語通辞の弟を隠し通して徳内と会わせなかったように、ハッパアイノらもどこかに匿(かくま)われているような気がしてならなかった。
徳内の鋭い嗅覚は、この一件の裏にかなり複雑なことが隠されていることを嗅ぎ取っていた。しかし、言葉の問題もあり、起きた事実すら満足に把握できなかった。
松前藩や幕府からの普請役、徳内らも知らない、北太平洋沿岸地域の先住民たちによる広範囲の交易路が存在し、蝦夷本島から千島列島に住む先住民アイヌたちはこの交易路の一翼を担っていた。イトコイの祖先がかつて千島列島の島々からカムチャッカまでを統括する先住民の大首長だったことは徳内も聞いていた。
千島列島を北上するとカムチャッカ半島、そしてその北のチュクトカ半島にいたり、ベーリング海峡を隔ててアラスカ、すなわち北アメリカ北西海岸にたどり着く。この北太平洋沿岸には、ラッコやアザラシをはじめ鮭や鱒、鯨などの豊富な海洋産物によって暮らしを営む様々な先住民族がいた。彼らは、オロシャ人が侵略してくるはるか以前から近隣の他民族と盛んに交易を行っていた。
カムチャッカにはイテリメン人やコリヤーク人がおり、チュクトカ半島にはチュクチ人がいた。旧大陸シベリア側からチュクチ人やシベリア・エスキモーがベーリング海峡を渡って新大陸のアラスカに渡り、アラスカ・エスキモーがシベリア側へと行き来した。チュクトカ半島のチュクチ人は、オロシャがカムチャッカを占領公布した一七〇七年以降も、オロシャの侵略に対してしぶとく抵抗闘争を続けていた。そのことも、千島列島を経由してツキノエやイトコイらに伝わっていた。
オロシャ人によってウルップ島を追われた千島アイヌが、あたかも領地のごとくオロシャ人がウルップに定住する気配を見せれば反発するのは当然のことだった。
(連載第11回へつづく)
〈「STORY BOX」2019年12月号掲載〉