◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第11回 前編
蝦夷地では検地竿役の新三郎がある疑念を抱き……
三十六
東蝦夷地のアツケシ(厚岸)は、湾を守るように尻羽(しれぱ)岬が南に張り出し波穏やかな良港だった。舟の出入りもしやすく、気候も蝦夷本島の奥にしては比較的穏やかで、交易に携わる和人も多数住んでいた。ここに先住民との交易のため運上屋(うんじょうや)を設けたのは充分にうなずけるところがあった。
七月の声を聞くなり、東蝦夷地の各河川に鮭が遡上を始め、アツケシの運上屋は、日を追うごと鮭を満載した先住民の板つづり舟が各地から到来し、にわかに忙しくなった。
北橋新三郎(きたばししんざぶろう)は、佐藤玄六郎(げんろくろう)配下の検地竿役(さおやく)として前年蝦夷島に渡った。ところが、松前城下は藩士屋敷と内地由来の商家ばかりで、日本橋周辺とほとんど変わらぬ繁華な商人町だった。検地竿を入れるほどの満足な田畑など見当たらなければ農耕をもっぱらにする者もいない。検地役のはずが、新三郎は算盤(そろばん)片手に幕府主導による交易業務ばかりを松前とアツケシですることになった。
新三郎はこの年二十八を数えた。天文と暦学を千葉歳胤(としたね)に学び、それが縁で蝦夷地探索隊に加わることになった。色白く中背の瘦せた体軀(たいく)をしていた。前年に松前へ渡って以来、月代(さかやき)はもとより髭(ひげ)も剃(そ)らず、伸ばした髪を後ろで縛っているだけとなった。蝦夷本島では冷え込む朝夕には首に狐の毛皮を巻き、足回りも冬には先住民から手に入れたアザラシ皮の沓(くつ)を履いた。新三郎が笑った顔を見た者はなく、松前藩士らはもとより蝦夷地へ派遣された幕府役人ともほとんど話すことがなかった。酒をたしなまず、煙草(たばこ)を好み、アツケシでは先住民の食べるものを進んで口にした。何を食べても驚かず、飲まない酒と引き換えに先住民から手に入れたアザラシの毛皮を敷いてどこでも眠った。
天明六年正月一日は、偶然松前に居あわせた新三郎にとって特別な日となった。
元日の昼、松前付近で皆既日蝕(かいきにっしょく)が起こった。太陽の全面が消えた瞬間、昼が突然夜となり、全天に星が現われた。松前の町はこの奇怪な現象に騒然となった。
太陽の直径は、月の直径の四百倍あるが、距離も四百倍あるため見かけの大きさは同じで、太陽と月とが直列すれば月が太陽を隠し日蝕が起こる。新三郎は少しばかり天文学をかじり理屈ではわかっていたものの、実際に目にした日蝕は、気温も急に下がり、あまりの不気味さに周囲の町並みさえも重みを失って厚紙細工のように映った。
太陽が隠れていたのはほんの短い間だったが、ひどく時を長く感じた。再び太陽が現われ周囲を元通り照らし出した時に、おのれの存在は消えたままで、死者となって現世を眺めているような奇妙な感覚にとらわれた。通りに出ている人々も、突然の夜に混乱し狂ったように吠え続けている犬まで、何もかもが神聖で美しいものに思われた。
松前でもアツケシでも、周囲の者を驚嘆させたのは、新三郎が算盤を使わずにそらで行う算術の速さと正確さだった。いつの間にか松前藩士や小者たちが「先生」と呼ぶようになり、先住民にまでそう呼ばれるようになった。
先住民アイヌは数の概念がまったくなく、内地商人から騙(だま)され放題などと語られるのも何ら根拠のない出鱈目(でたらめ)だった。彼らは交易する時に鮭の本数を間違えたりしない。鮭は二十尾を一束と数えた。前年八月、アツケシから陸路三日離れたニシベツ(西別)川では、一日で型のよいものだけで九十七束、小さ過ぎたり大き過ぎたりしたものを合わせれば二千五百尾余もの鮭が捕れた。