◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第13回 前編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第13回 前編

厳罰に処された意次の栄華に思いを馳せる伝次郎。
玄六郎らは蝦夷地探索の停止を申し渡され──

 

 郡上藩主の金森頼錦(かなもりよりかね)は、万事派手好みの人物だったが、幕府の奏者番(そうじゃばん)に就くと一層出費がふえた。奏者番は老中への登竜門となる役職で、郡上藩の家臣も頼錦の出世に望みをかけた。

 そもそも金森家は飛驒(ひだ)一国を所領とした。飛驒一国は、表高こそ三万余石だったものの、領内に有する美林と金銀鉱山の収入によって実高は十万石もあった。ところが元禄五年(一六九二)領地替えとなって表高三万余石どおりの奥州上ノ山(かみのやま)に移封された。さらに五年後の元禄十年になって再び郡上八幡に移り、郡上郡二万四千石と越前大野郡一万五千石あわせて三万九千石の所領となったが、旧領飛驒一国から見れば実質は半分以下の収入しかないものだった。藩主頼錦が老中まで登り詰め、幕府領となった飛驒を奪還することが家臣も含め金森家の悲願となった。

 藩財政の窮乏の折から江戸表における藩主頼錦の出世金を捻出しようと、郡上藩は年貢の増徴を計画した。その手段として、それまでの定免(じょうめん)法による年貢徴収から、神尾春央が考案した有毛検見(ありげけみ)法を採用することに決めた。八十年以上も昔の検地によって決められた定免法による年貢から、あらたに年ごとの稲の出来を実際に刈り取って年貢額を決める方法へ変更しようとした。

 宝暦四年(一七五四)八月、郡上藩領の農民はこれを知ると、八幡城下へ千人余が押しかけ、有毛検見法実施の撤回を求めた。藩役人が実際に田一枚一枚の出来を刈り取って年貢高を決めることになれば膨大な時間がかかり、米収穫や裏作に大きな影響が出る。また、はるか昔の検地を行った時点よりそれぞれの田の生産は増大しており、検地帳に載っていない隠田(おんでん)までもすべて洗い出されて漏れなく年貢をかけられることになる。それではとても生活が成り立たない。農民の勢いに驚いた国家老三名は、善処を約束した旨の書状を出してその場を収めた。

 ところが、江戸家老たちがそれを了承するはずはなく、金森家と親戚筋にあたる若年寄の本多長門守忠央(ながとのかみただなか)や老中本多伯耆守正珍(ほうきのかみまさよし)、勘定奉行大橋親義(おおはしちかよし)などの幕府中枢へ働きかけを行い、あくまでも有毛検見法を実施しようと図った。老中の本多伯耆守は、かつて郡上藩主の金森頼錦へ次女を嫁がせることを約していたものの、その次女が病死するという過去があった。また若年寄の本多長門守は、祖父の姉が金森家へ嫁していた。

 宝暦五年(一七五五)七月、上司にあたる勘定奉行大橋親義の命を受けた笠松郡代の青木次郎九郎は、所轄外にもかかわらず郡上藩領の庄屋たちを笠松町に呼び出して、有毛検見法を了承するよう迫った。一私藩の年貢問題に管轄外の幕府役人が立ち入り、恫喝(どうかつ)して年貢法を強要するという異例のことが起こった。諸藩の財政立て直しのための年貢増徴を、幕府が主導している実態がここで明らかとなった。

 翌八月、有毛検見法の採用はあくまで国家老による策謀と信じた郡上の農民四十名が、江戸へ出て藩主金森頼錦に訴えようとしたものの、逆に捕えられ江戸屋敷に監禁されてしまった。

 郡上藩は反対する農民の切り崩しをさかんに行い、入牢(じゅろう)させられる農民も続出した。藩の強硬な圧力に、一揆から離れ藩に従う農民「寝(ね)百姓」と、あくまで抵抗する農民「立(たち)百姓」とに分かれ、それぞれが仲間固めの証文を作るなどして対立を深めていった。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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