◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第1回 後編
「佐野家は、元来田沼家の主人筋に当たった家であるが、今では立場が入れ代わり自分は禄高五百石に過ぎない。権勢をほしいままにする田沼に願い出てせめて何かの役職に就きたいと思い、以前から田沼山城守の公用人(こうようにん)に頼んでいた。公用人から役職の空きが出るたびに報せがあり、そのたびに役にありつくべく多額の金子(きんす)を贈った。一昨年から今年にかけて総額六百二十両を公用人に贈った。だが、結局何の役にも就けず、田沼山城守に金子をただ騙(だま)し取られただけに終わった。
また、三年ほど前に、田沼山城守から佐野家の系図を見たいという要請があり、善左衛門が自家に伝わる系図を田沼山城守に貸した。その後、系図を返してほしいと田沼山城守に何度催促しても一向に返してくれなかった。そのうえ、佐野善左衛門の家には七曜(しちよう)の紋が入った旗が蔵されていた。それも、田沼山城守から見せてほしいと求められたので見せたところ、七曜の紋は田沼家の定紋であるといってその旗も奪い取られてしまった。そればかりか佐野善左衛門は上州甘楽(かんら)郡に知行地があり、そこには佐野大明神なる神社があった。田沼山城守の家来が度々やって来て、神社を田沼大明神に改名し、これも奪い取られてしまった。
昨年十二月、木下川に将軍のお成りがあった際、佐野善左衛門はそのお供として随行し、鳥を射止めた。ところが田沼山城守は、鳥に付いていた矢を佐野善左衛門のものではないとして、ほかの者の手柄にすり代えてしまった。結局、自分の手柄は将軍に言上されることはなかった……」
結局のところ佐野善左衛門の怨恨(えんこん)による凶行とされていた。将軍警備のため狩りの先駆けをしたり江戸城に詰めているだけで五百石もの禄が下されるのであれば、食うや食わずの庶民には何の不満も生じないどころか羨ましい限りである。伝えられる口述が事実とすれば、佐野は二年間に六百二十両もの賄賂を贈れるだけの資産を有したことになる。
かつて家来筋にあった田沼家が、父意次は四万七千石の城持ち大名となり、息子の山城守でさえ五千石相当の手当てをもらう身となった。それと我が身を比較すればすべてが不平不満の種となる。「足ることを知らざる者は貧す」ただその了見違いから引き起こされた、極めてわかりやすい事件にされていた。確かに田沼意次が幕政を支配してから金銭が何よりの力を示す露骨な時代となり、それが回り回って佐野善左衛門を狂わせ、未来を担う息子が凶刃に倒れるにいたった。
「……下天(げてん)は金ぞ、みな狂えか」伝次郎は笑った。
加瀬屋伝次郎の住み暮らす一帯は、愛宕下(あたごした)と呼ばれ、そのほとんどが寺社地と武家屋敷に占められていた。町家は海岸近くを走る東海道沿いに開かれた。海に突き出て東に浜御殿があり、北西に愛宕山、その山下は諸大名の上屋敷が占めて大名小路(こうじ)と呼ばれた。西に増上寺の大伽藍(だいがらん)が望め、その南には五重の塔がそびえていた。芝増上寺は、上野寛永寺と小石川伝通院(でんづういん)と並ぶ江戸の三大霊山の一つに数えられ、二代将軍秀忠を始め将軍家の墓所で落書(らくしょ)などを貼るのは憚(はばか)られたが、芝神明宮(しんめいぐう)は増上寺と東海道の間に位置し、広い境内には水茶屋などが並んで旅人や近隣の客足を集める場となっていた。伝次郎の住む宇田川町から品川へ向かう東海道沿いの隣町が神明町で、神明宮の門柱や塀には、何者かが落としていった落書が拾い上げられてよく貼り付けられた。
『金とりて田沼るる身のにくさゆへ 命捨ててもさのみおしまん』
『剣先が田沼が肩へたつのとし 天命四年やよいきみかな』
『諸大名むしょうに憎む七つ星 今しくじれば下(しも)の仕合わせ』
江戸市中の寺社などに貼り付けられ書き写された落書は、次々と郊外まで落とし文となって広められていった。いずれも田沼意次に罵声を浴びせ、佐野大明神の世直しに手放しの快哉(かいさい)を叫ぶ類(たぐい)だった。
なかにただ一首、伝次郎の気を引いたものがあった。