◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第1回 後編

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歴史小説の巨人・飯嶋和一が描く新たな田沼時代、連載開始!

 そこに並べられた十七ヶ条のうちの一項に伝次郎は目を留めた。

『一、倅(せがれ)山城守、若年寄仰せつけられ候節、諸人困窮の時節、御高力米(ごこうりょくまい)五千俵、天下の定法に背(そむ)き、みな米にて下野屋(しもつけや)十右衛門方へ請(う)け取り申し候』

 

 五十二年前の享保十七年(一七三二)、西日本は春から雨続きで寒気が抜けず、五月の声を聞いても一向に晴れ間の見られることはなかった。その夏、九州、四国、中国、五畿内にわたる広い地域にイナゴやウンカの害虫が大量に発生し、あらゆる作物が甚大な被害をこうむった。四国の伊予松山藩などは十五万石とされる年貢収入が皆無となり、一藩の餓死者三千四百八十九人、牛馬も三千九十七頭が死んだ。幕府は、中部地方以東の各藩から米を西日本に送らせ、大量の幕府備蓄米も西日本へ送った。

 翌十八年(一七三三)正月、西日本の餓死者は一万二千人を数え、牛馬も一万四千頭が飢え死にしたと伝えられた。江戸幕府開闢(かいびゃく)以来の大飢饉であった。

 その正月、江戸の米価も急騰して、金一両で一石五斗買えたものが、約半分の七、八斗しか手に入らない事態となった。江戸市中の困窮した民は、奉行所に押し寄せ、米価の引き下げを要求した。幕府は、米価の引き上げを狙った江戸廻米制限令を撤廃し、米問屋、仲買、米穀商に手持ち米の放出を命じた。

 正月二十日、御用米商の高間伝兵衛(たかまでんべえ)が、大量の米を隠し、米価の引き上げを目論んでいるとの噂が広まった。幕府は米価の下落によって旗本や御家人の困窮が甚(はなは)だしくなったのに合わせ、数年来米価を引き上げるべく高間伝兵衛らに米の買い上げを行わせていた。

 同月二十五日、高間伝兵衛は蓄えた二万石の米を安売り放出することを決めたものの、千七百人の町衆が伝兵衛の店に押し寄せ、柱を伐り、太綱をかけて店を引き倒し、帳簿は引きちぎられて焼き捨てられた。将軍のお膝元、江戸初めての打ちこわし騒乱で、高間騒動と呼ばれた。

 

 奥州では、この四年、冷夏続きで米が半作に満たない状況にあった。去年、天明三年(一七八三)の夏には麦も取れず、民の窮乏はいよいよ深刻な事態となっていた。そして、八月十三日の夜、霜が降り、奥州一帯の大豆、小豆、粟(あわ)、稗(ひえ)、蕎麦がすべてやられるという未曽有の大凶作に見舞われた。稲作は全滅、ほかの穀物も全く姿を消した。奥州はもとより関東も五穀実らず、米価は江戸で十倍にも急騰した。その十一月、田沼山城守は若年寄に昇進した。田沼山城守は、まだ独立して屋敷を構えぬ部屋住みの身でありながら異例の昇格となった。

 佐野善左衛門の凶行に庶民が快哉を叫ぶのは、この飢饉の時に世間の困窮を一顧だにせず、田沼山城守が五千俵もの米を現物で受け取ったという事実に因(よ)っていた。田沼山城守が殺されても同情に全く値しないとするならば、五千俵の米を引き渡した下野屋もただでは済まない。大飢饉を背景に、またも江戸市中で騒乱が吹き荒れる予感がした。

(連載第2回へつづく)
〈「STORY BOX」2019年3月号掲載〉

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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