芥川賞作家・花村萬月が書き下ろし! 新感覚時代小説【くちばみ 第19回】

「脂身だな。猪のあばらの脂を生でくらうのと変わらん」
「なるほど。ひとつ悧巧になり申した」
「ま、人も獣も同じだわ」
「人も獣も同じ。含蓄のある御言葉でございます」
「道利よ。俺は獣か」
「人も獣も同じ──で、ございますから」
「誰彼の区別なく、人は獣か」
「然様に存じます」
「よし。獣を貫徹しよう」
「それが、よろしかろうと」
「差し詰めおまえは狐だな。俺は獅子か」
 遥かに年長の道利を完全に見下している義龍である。しばし沈黙が拡がったが、道利の視線に気付いた。
「魔羅を見つめるのが趣味か」
「いえ、斯様に立派な御物ぎょぶつ、はじめてお目にかかり申したがゆえ」
「なあ、道利」
「はい」
「俺がな」
「はい」
「横柄な野郎であるとするなら、その横柄さは、この逸物のせいだ」
「なるほど」
「目の当たりにしたことはないが、おまえは到って控えめであろう」
「はい。並の下ゆえ、でしゃばらぬよう気配りしつつ、小技に専念でございます」
「なーにが小技かよ。龍重龍定一挙に葬り去る方策立案、たいした大技だ」
「お褒めにあずかりまして」
「褒めてないと言おうと思ったが、おまえがそそのかしてくれなければこのような荒技、病を装うなど思いもつかなかったよ。思いついたとしても、できなかった」
「お褒めにあずかりまして」
「──食えない奴だな」
「されど、御屋形様を裏切ることはございませぬ。道三憎しは御屋形様と御一緒でありまするがゆえ」
「ん、呼び棄てたな」
「道三は道三でございますがゆえ」
「まあ、よい。国人衆の調略、順調か」
すこぶる順調でございます。さすがは土岐家の血統。皆が靡きます」
「なんか引っかかる物言いだな」
「なにを申されます。御屋形様の御器量こそが、他の土岐一族郎党を差し措いて、この美濃を統べる真の正統でございます」
 義龍は、真っ直ぐ道利を見つめる。
「たぶん俺は、おまえほどには父を憎んではおらぬぞ」
「父」
「いや──」
「御屋形様の御父上は、土岐頼芸様でございます」
「だな」
 道利の眼差しが、弱気を諫めている。義龍は、ふっと息をついた。
「しかし斎藤やましろのかみ道三、ひたすら子に祟られる哀れな男よのう」
「それも身から出た錆でございましょう」
「錆か。あの男は錆臭くもなければ、腐臭もせぬ」
 唇を真一文字に結んで黙りこみ、唐突に問う。
「なぜだ。幼いころから感じていた。あの男は妙に澄んでいた」
「この道利、無粋ゆえ機微がわかり申さぬ。ただ、相手はくちばみ、ゆめゆめ御油断なされるな」
「わかっておる。土岐氏の旗のもと、いかにたくさんの国人衆をまとめあげようとも、増長せぬぞ」
「それがよろしいかと」
 義龍は、大きく頷いた。
「俺の魔羅のごとく、太く長く美濃を治めようぞ」

   *

 龍重、龍定がおびきだされて謀殺されたとの報を聞いた道三は一瞬の空白の後、歯がみした。とっとと出向けと、見舞いを厭がる二人の臀を押したのは、道三である。俺としたことが──と、天を仰いだ。
 報せを聞いた深芳野が取るものも取りあえず尼寺からやってきた。道三も深芳野も剃髪している。二人はお互いの頭を同時に見やった。
「さすがは、俺とおまえのせがれだ。なかなかやるのう」
 深芳野は、言葉もない。父と子の離反は致し方ないと諦めてはいたが、いつ、道三と義龍に、このような絶望的なすれ違いが生じてしまったのだろう。だが過去をあれこれ思い巡らし悔やんでも、もはや修復はならぬ。毒を盛るといった曖昧かつ不明瞭な遣り口ではなく、斬殺である。
「これは義龍の宣戦布告だ」
「然様な──」
「いや。彼奴きゃつは美濃国主として国衆に己の拳の強さを示したいのだ」
「では、父と子の──」
「まさに血で血を洗う争いである。俺とおまえの血が流れた義龍が、その手を俺の血で洗おうといきりたっておるのだ」
 これはまさに、後に成立する中国は明代の正史である明史・張漢卿伝にある『骨肉相む』である。
 道三は日蓮宗具足山妙覚寺で修行をしていた若きころ、唐の書物を読みあさり、皇帝たちの末路、権をもつ者の家はなんとも恐ろしい仕舞いを迎えるものだと背筋が凍るようであったが、まさか己のところがそうなるとは思いもしなかった。
 沈思からもどった道三は、深芳野の大柄に義龍の面影を見て笑んだ。
「土岐頼芸をいいようにあしらったつもりだったが、結局は頼芸の仕込んだ火縄がいよいよ煙硝を炸裂させるときがきた」
 道三は頼芸の不能を一切口外せず、筋を通したのだ。
 我が子義龍に美濃を渡すため、くちばみとして血も涙もない所業を為す一方で、人の、男の誇りの根源に関わる事柄に対しては、完全に口を噤んできたのである。
 ここに道三のいささか奇妙な美学を見るのは自由だが、深芳野を下げ渡された時点で、周囲に頼芸の不能と、義龍の内腿に印された松波の家に代々伝わる徴であるの65267cf267d2de787b09aac70a9352cb形のあざのことを吹聴していれば、このような悲痛なこじれは生じなかったのである。
 目尻に浮かんだ涙を高々指の先ですっと消し、深芳野が問う。
「で、どうなさるのです」
「もちろん戦って」
「戦って」
「討たれてやる」
 深芳野は、がっくり首を折った。
「そうすることでしか貴方様は義龍に対してまなを示せぬのですか」
 真は愛とも書く。道三は微笑したまま、頷いた。さらに人払いもせずに深芳野を抱き寄せ、幼子にするようにその頭を丹念に撫でてやった。
「おまえも老けたなあ」
「貴方様こそ。──ただ」
「ただ」
「はい。ただ、いまだに不可思議な艶を放たれて、わたくしは頭を剃っていることを忘れてしまいそうです」
「おまえがいなくなってしまって、以来、ひたすらな匹如身するすみに堕ちたがごとくの日々であった」
 このとき道三、無精髭もすっかり白く色変わりした六十二歳。匹如身とはひっきょう、孤独としてよいだろう。
 道三は深芳野の軀にまわした手にぐっと力を込め、息災であれよ──と囁き、すっと背を向けた。一切振りかえらなかった。

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