芥川賞作家・花村萬月が書き下ろし! 新感覚時代小説【くちばみ 第19回】
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首実検の場で、義龍は鼻と耳の欠けた父と対面した。死を覚悟して
そればかりか十数匹ほど、蟻が忙しなく侵入を試み、削ぎ落とされた耳の穴を見つけ、乾いて見えるがまだ粘つく血に足を取られつつも列をなして次々に消えていく。
閉じられていた唇から強引に鋏虫が這いでてきた。飽食したらしい鋏虫は愚かにも義龍の足許に向かった。
血まじりの唾液でぬらついた鋏虫を踏み潰し、義龍はあらためて父の顔を凝視した。
もともと表情に乏しかった父である。あるいは、常に無表情をつくっていた父であったが、鼻が欠落していることもあって、その半眼は、のっぺらぼうじみていた。
これぞ正真正銘、山城守殿の
小牧源太は家臣のなかでもとりわけ父に目をかけられ、腰巾着のように父に張りついていた男である。後になにを思ったか道三塚をつくりあげ、道三を祀ったが、義龍が道三に牙を剝いたこのときは、一も二もなく義龍に付いた。
源太に首を落とされるとき、父はなにを思ったであろうか。義龍は源太のいかにも得意げな様子に腸が煮えくりかえったが、ぐっと抑えこみ、左の掌を差しだした。
怪訝そうな源太であったが、瞬きせぬ義龍の凍てつく眼差しに刺され、狼狽気味にその大きな掌に鼻と耳を安置した。
抓みあげた鼻を父の顔にそっと宛がった。多少縮んではいたが、鼻は父の顔にぴたりと合った。
蟻どもが潜りこんで消え去った穴にあわせて耳を押しつけると、血糊で張りついた。多少
端正な道三の
無表情に磨きがかかって、じつに粛然として見える父の死に顔ではあったが、妙に作り物めいてもいた。鼻を中心にして左右を折り曲げると、ぴたりと合うのではないか。
義龍はしばし道三の顔に鼻を押しつけて、息を詰めていた。
父の鼻も耳も──死も、そして義龍自身の立場も、あるべきところにあるべきものがぴたり当てはまった。そんな気がした。
愛惜に、たっぷり憎悪をまぶしたかの不可解な感慨が迫りあがった。
殺した父の鼻と耳を見事に所定の位置にもどすことができた。
義龍は大きく頷いた。
道三福笑い──の完成であった。
*
陣を構えていた大良口より道三救援に向かわんとしていた信長であったが、信長が動くよりも早く義龍は手勢を差し向けた。その動きを逐一知らせる伝令の声をさえぎるようにして、苦渋の滲んだ声が届いた。
「山城入道殿、お討ち死になされました」
報せを聞いた信長は、遅かったか──と中天を仰ぎ、動かなくなった。家臣が狼狽気味に声がけする。
「勢いに乗る義龍が手勢、当方に殺到しており申す。山口取手介、土方彦三郎、御両名、討ち死になされました」
「森
信長は歯軋りした。家臣たちは信長の
「御注進、御注進。国許で謀叛。伊勢守様、岩倉城を発されたとのこと。清洲に攻め入ってまいりました」
伊勢守とは織田信安のことである。道三救援に間にあわなかったばかりか、不在を狙って信安が動いた。
信長は、察した。義龍が信安を調略したのである。唆したのだ。
思えば父、信秀の二度目の稲葉山城攻略のときも、道三は尾張下四郡守護代織田信友を誑かして信秀の古渡城を攻めさせたのである。
信秀は美濃二郡を手に入れるほど圧倒的優位に進めていた戦いの腰を折られ、道三が大垣城を与えて信秀を調子づかせ、あえて深入りするように仕向けたことにようやく気付いたという。
将兵たちにも信友謀叛が洩れ伝わり、浮き足立っているところに、伏兵を主体にした奇襲を受け、最後は木曾川に追い込まれ、突き落とされるという信秀最悪の敗戦を強いられたのである。
それと同じことを倅の義龍が目論んだ。
道三は、討ち死にしてしまった。
もう、ここにいる理由はない。
一刻も早く尾張にもどり、伊勢守の謀叛に対処しなくてはならない。退却である。
信長は徒労をぐっと吞みこんだ。義龍は戦が巧い。認めざるをえぬ。
「さすがは、くちばみの子──」
呟いたきり、信長は微動だにしない。家臣たちは上目遣いで様子を覗っている。
長良川を渡河、道三を討ち取って勢いに乗った義龍の軍勢が迫りくるのだ。信長は尾張から進軍してきて木曾川を渡った大良口に陣を構えているのだが、退くならばふたたび木曾川を渡らねばならぬ。
家臣たちは気が気でない。しかも近習たちは、信長が逡巡していることに気付いた。
近習の眼差しに気付いた信長は、大きく息を吸った。胸中で呟く。
──舅殿の死を悼み、俺は、これから大
そもそも信長は裡なる合理と道理、論理の塊を悟られぬために、あえて幼きころより
たとえば越前征伐にて義弟
これほどまでに合理的にして己が生き残るためには、そして将来の壮大なる展望のためならば、体面など一切かまわぬ男が、先に牛馬と
「
信長は近習の一人に向けて荒々しく顎をしゃくる。家臣たちは目を剝いた。
主が自ら追撃してくる敵を防ぎ、家臣を逃がす役を買って出るなど、ありえない。殿は負け戦につきものだが、殿を負わされた者は自らの命を楯にして他の者を逃がす。つまり死を覚悟するしかない。しかもたった二人で残るというのだ。
だが、信長は口の端を歪め、殿を全うするのみであると己を曲げようとしない。縋りつかんばかりに諫め、引きとめようとする家臣を一喝した。
「舅殿の弔いだ。口をはさむな」
全軍撤退を見届けてから、信長は木曾川の真ん中に舟一艘を浮かべ、常日頃から鉄砲の鍛錬に同道させている近習に、五挺ほどの鉄砲の準備をさせた。
「舅殿を死なせてしまった。俺を見抜き、認めてくれた舅殿を──」
「火縄の匂いはよいな。じつによい」
先を争って抜け駆けした義龍配下の騎馬武者十数騎が大良口に到った。皆を従えていた一騎が手綱を引きしめ川端を左右し、浅場を見切り、ここから渡河すべしと愛馬に烈しく鞭をくれ、我に続けと白銀の飛沫を蹴立て、舟の上に仁王立ちする信長に迫る。
信長はとことん引きつけた。
引き金を引く。
鉛玉が
「次」
後に長篠の戦いにて武田軍をとことん壊滅させた鉄砲の用法を信長はいま、この場で試しているのである。
新たな鉄砲を受けとると、ふたたび狙いをつける。一発目よりも雑に撃つ。
というのも馬が銃声に驚いて流れのなかに棒立ちとなり、じつに狙いやすい標的と化して、いかにも撃ってくれといった態であったからだ。
次々に撃つ。
気負わずに撃つ。
騎馬武者四名、馬一頭が流れに倒れこみ、鮮やかな朱で川面を染めた。
追撃の者たちは信長の気配に圧倒され、鉄砲の連射に度肝を抜かれ、渡河を断念した。されど背を向けると銃弾の餌食になる。まだ火縄の煙が信長の傍らから立ち昇っているのである。様子を覗い、恐慌をきたした馬の首を撫でさすってなだめつつ徐々に後ずさっていくしかなく、いよいよ弾が届かぬあたりまでもどったと判断したとたんに反転、あとも見ずに逃げ去った。
殿の役目を全うした信長は、奥歯を嚙み締めると長良川の方向を睨みつけ、瞑目し、静かに頭を垂れた。
〈次回は4月下旬頃に更新予定です。〉
プロフィール
花村萬月(はなむら・まんげつ)
1955年、東京生まれ。1989年、『ゴッド・ブレイス物語』で第2回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。98年、『皆月』で第19回吉川栄治文学新人賞、『ゲルマニウムの夜』で第119回芥川賞、2017年、『日蝕えつきる』で第30回柴田錬三郎賞を受賞。『ブルース』『笑う山崎』『セラフィムの夜』『私の庭』『王国記』『ワルツ』『武蔵』『信長私記』『弾正星』など著書多数。
初出:P+D MAGAZINE(2020/03/28)