芥川賞作家・花村萬月が書き下ろし! 新感覚時代小説【くちばみ 最終回】
義龍はきつく唇を結ぶ。
「されど、祖父も途轍もない御方でございまして、幼い父に、親子二代で美濃をものにする──と吹いたそうでございます」
義龍の背筋が一気に伸びる。祖父とは北面の武士である松波
「父は私には生い立ちをまったく口に致しませんでしたが、父が問わず語りに母に幼きころの惨状を語っていたようで、母によると、幼少のみぎり、飢えにて死する寸前、傘張りの荏胡麻油を舐めてどうにか生き
嗚呼──と義龍は胸中にて嘆息した。頼芸を
「話をもどしましょう。さる御武家様のところにあずけられることとなった父は、祖父と鴨の河原で雉の焼き物を食べ、鴨で雉を食べる──と気丈にも戯れ言を口にし、祖父は涙したということでございますが、祖父との追憶に耽る父は、ゆっくり私に顔を向けたのでございます」
「で──」
「それだけでございます。ただ」
「ただ」
「はい。私は感じとったのです」
「なにを」
「まずは、いずれ父は美濃をものにするために私を棄て、母を棄て、いわば出奔するであろうということを」
義龍に言葉はない。妻子を棄てた道三があったからこそ、義龍は美濃の国主と相成ったのである。表情をなくした義龍を見やり、奈良屋は呟いた。
「次に、もうひとつ」
「もうひとつ──」
「はい。もうひとつ私は感じとりました」
「なにを」
「父に慈しまれている、ということを」
奈良屋は道三より俺と同様の扱いを受けて育ったが、幼いうちから父の真情を見抜き、拗ねず、歪まず、いまに到る。それに引き比べ、俺は──。
義龍は、奥歯を嚙み締めるのみである。
「ま、本音を申せば、とんでもない祖父と父でございます。呆れて物も言えぬところをあえて言ってしまえば、美濃をものにすると父に吹きこんだ祖父はいつのまにやら奈良屋から消え去っておりまして、かわりに武家を離れて寺にて修行していた父が奈良屋に入りまして、母とのあいだに私を成したというのですから、いやはや、なんとも──」
奈良屋の苦笑が深い。が、じつにさばさばした気配である。
「──母上は息災か」
「はい。とても小柄で、
「最後に、つかぬことを訊く」
「なんなりと」
「奈良屋の内腿には
「三方を指し示すあれでございますね。ございます」
「そうか」
「はい」
義龍と奈良屋は見交わした。よけいなことは一切口にせず、しばし見つめあった。
「義龍様の御厚意に甘えてしまい、長居致してしまいました。そろそろお暇を」
「うむ。長々と御苦労であった。これからもよしなにな」
「今日は奈良屋ばかりがお喋り致しました。次はどうか義龍様の御言葉を」
「──苦手なのだ。気持ちをあらわすのが、じつに苦手だ」
「奈良屋は、義龍様の御言葉が聞きとうございます」
義龍はぎこちなく頷いた。奈良屋は未練の欠片も見せず、静かに立ちあがると、背を向けた。
その背には美濃一国を背負う義龍以上に、奈良屋という看板を背負って揺るぎない男の自負と自信が漲っていた。
義龍は奈良屋の背に父を見て中空を仰ぎ、瞑目した。
もう奈良屋とは逢わぬほうがよいのではないか。逢えぬのではないか──。
*
予感どおり、義龍は美濃支配に
義龍の後を継いだ龍興の
□〈了〉
〈長い間、ご愛読ありがとうございました。本作品は小社より刊行される予定です。〉
プロフィール
花村萬月(はなむら・まんげつ)
1955年、東京生まれ。1989年、『ゴッド・ブレイス物語』で第2回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。98年、『皆月』で第19回吉川栄治文学新人賞、『ゲルマニウムの夜』で第119回芥川賞、2017年、『日蝕えつきる』で第30回柴田錬三郎賞を受賞。『ブルース』『笑う山崎』『セラフィムの夜』『私の庭』『王国記』『ワルツ』『武蔵』『信長私記』『弾正星』など著書多数。
初出:P+D MAGAZINE(2020/04/28)