芥川賞作家・花村萬月が書き下ろし! 新感覚時代小説【くちばみ 第1回】
鞘の奥で刀身が錆で軋む音がした。砂が噛んでいるかの頑なな手応えで、まったく動かない。
抜けなかった。
しばらく格闘したが、餓えのせいもあって気力が続かない。癇癪を起こした。が、空腹もある極限をすぎてしまって怒りにも力がこもっておらず、雑に投げ棄てた。
床を打った刀のほうに、峯丸が力ない眼差しをむけた。基宗は目頭を揉んだ。抜けぬ刀はただの棒である。峯丸の喉笛を刺してから自身の喉笛を突いて一思いに死ぬ気であったが、刀に裏切られた。
「餓えてじわじわ死していくのだけは──」
呟いて峯丸の首に手をのばす。
峯丸は拒むどころか、まるで待ち構えていたかのごとく顎をあげて首をあらわにした。ぐっと力を込め、軀の重みをかけると左右対称の位置にあった瞳が真ん中に寄った。
基宗は凝視した。
乳児にして諸々を突き放す冷徹な気配のある峯丸だからこそ眷愛していた。
媚び諂いこそしなかったという自負はあるが、気位の高さをぐっと抑えこんで妥協し、迎合してきた人生である。しかもそれを見透かされて軽く扱われることばかりの日々だった。
峯丸ならば、このようなみじめな生き方をせずにすむであろう──と心窃かに思いを託していた。それがこの剽軽な寄り目の表情である。
首を絞められているのだから峯丸はおどけているわけではない。けれど死が間近に迫って、はじめていまだかつて見せたことのない愛嬌とでもいうべきものがその顔貌に立ち顕れていた。
それは苦悶であった。
紛うことなき苦悶の顔だちであった。
峯丸が生まれてはじめて見せた人間らしい顔つきであった。
あわてて手をはずした。
峯丸は泣き騒ぎもせずに、ただ烈しく不規則に胸を上下させている。充血した舌先が揺らめくように痙攣して、その口の端からだらだらと涎が流れ落ちていた。
そんな峯丸の顔に基宗の涙が滴り落ちた。基宗は手放しで泣いていた。
男泣きに、泣いていた。
基宗自身はすべてに対して過敏であり、けれど過敏ゆえに思い込みが強く、しかもその思い込みはいつだって的外れであり、ずれていた。だから他人から見ると途方もなく鈍感に見えるのである。
人生でもっとも残酷なものが、このずれである。このように落ちぶれ果てたのも、基宗にいわせれば、信頼し、入れ込んでいた上司に裏切られたからであった。
が、それは基宗に人を見る目がないというよりも、過敏さゆえに過剰に忖度し、あれこれ先廻りしたあげく、それらはすべて上司にとって論外であったということだ。基宗がする事なす事、上司にとっては的外れで鬱陶しく、疎ましかったのである。
しかも、その過敏は伝染するのだ。基宗がそばにいると皆がぴりぴりしてしまう。落ち着きをなくす。和気藹々だったのに、基宗がいるというそのことだけで、皆の首が寝違えたがごとくぎこちない動きになる。言葉少なになる。瞬きが少なくなって、先ほどまでの和やかさも消え、無数の尖った針が周囲に撒き散らされているかのような張り詰めた気配に支配されてしまう。
そんな厭な緊張がさらに基宗に伝播し、それをもたらした当の基宗が、しなくてもよい失敗をする。全身の関節を強張らせ、同様に精神も視野狭窄をおこして、なにも見えなくなってしまう。
いや、見なくてもよいものばかりに視線がいってしまい、肝心のものを見逃して足を踏み外す。
最悪の連鎖であった。畳の縁を歩く程度の事柄であっても、まるで無限の高さの峡谷に張られた綱を渡るがごとくの硬直ぶりで、結果、谷底に墜ちてしまうのである。
ところが、唯一の存在といってよい藤といっしょにいると、なぜか、基宗は呆れるほどの鈍な男となった。身近にあって依存し心を許したとたんに、つまり甘えの心が生じたとたんに、あれほど過剰であった忖度ができなくなってしまうのだ。
上司は的外れな気配りをして場を乱す基宗を忌み嫌い、藤は基宗のあまりの気遣いのなさに愛想を尽かした。
この期に及んで、さすがに基宗も己の内面の過敏と鈍感という両極端に漠然とではあるが気付かされ、頭を抱えるのであった。
基宗は生まれて初めて、人生がうまく廻らぬことの原因が己にあるというごく単純な事実を悟ったのだった。
「噛みあわぬ歯車。空廻り──」
いままで自分は悧発であると信じ込んでいた。抽んでているとさえ思っていた。間抜けな周囲にはそれが理解できないのだと諦念を抱いて俯き加減の気取った笑みさえ泛べ、自身の才覚を露ほども疑わなかった。
だが、それこそが莫迦の証しであった。