芥川賞作家・花村萬月が書き下ろし! 新感覚時代小説【くちばみ 第1回】
閑人は度し難しと藤は胸中で吐き棄てる。功成り名を遂げた男が女を慾するならばともかく、取り柄のない基宗の好色は無様の極致だ。無聊をもてあましている大の男が昼日中からいそいそと我が子のお湿しを替えて内腿の痣に自身とおなじ徴を見いだして妄想気味に悦に入る姿は頬笑ましさをとおりこして薄気味悪い。
鷹揚さの欠片もない細かい性格で、すべてにわたって己の定めた規範を押しつけてくるような男である。しかも窮鼠猫を噛むではないが、追い詰められると自棄気味なことばかりして自滅する。
このようなどん底の貧窮にあるのも、取るに足らぬ些細なことで癇癪を破裂させた結果である。自尊心ほど面倒なものはない。雇われたくせに妙なところで意地を張って上位に立とうとする男なのだ。相手をすると七面倒くさいので、いまでは誰も近寄ってこなくなった。
松波左近将監基宗と名だけは仰々しい。出自を問われれば、いや問われずとも押しつけがましい口調にて、先祖代々北面の武士である──と居丈高なことを口にする機会ばかり窺っているような男である。
そもそも北面の武士と称していた時代も、実際のところは下僕として門番をしていただけだ。いまでは無意味な自尊の心が災いして門番の職も喪い、落ちぶれ果てた貧しき傘張り職人と相成った。
ちかごろはその傘張りもまともにせずに日々、遊び暮らしている。よほど峯丸が気に入ったらしく、その相手ばかりして一日を過ごしているのである。
結果、もともと乏しい蓄えがどんどん費えていって、もはや猶予ならぬところが近づいている。自分がなんとかしなければ──と、藤は悲愴な心持ちでどのような商いに手をつけるべきか思案しているが、結局は春を鬻ぐことになりそうで、それはそれでかまわないと割り切り、開き直ってはいるが、肌の合う男があらわれたら、ちゃんと家にもどる自信がない。
乳母に諸々を頼めるような身分でもないから、峯丸に乳を与えねば即座に消耗して事切れてしまうだろう。なにしろこの時代、子供がつつがなく育っていくことは稀なことで、水膨れした青紫の風船のような姿を曝した幼児が桂川の川面を流れていくのを見るのは特段珍しいことではない。水死体よりも水面に流れて短く尾を引く死人の軀の脂が陽射しを反射して鮮やかな七色に光る光景のほうが印象深い。人の脂は虹色に輝くのである。
我が子を桂川に流さずにすむように財力のある者は乳母を雇う。経験則から、乳母の乳を飲ませると他人の免疫をもらえることにより母親の乳を吸うよりも強い子に育つことがわかっているからこそ、とりわけ力のある武士は乳母を珍重する。乳母の子が強靱であるならば、我が子もそれにあやかろうと当の乳母の子を差し置かせて、我が子に乳を飲ませることを強いる。
気位だけは高い基宗を藤は横目で一瞥し、溜息を呑みこむ。こんな男でも、一応は出自は武士なのである。けれど、こんな貧困の底の底で、この美しい子はまともに育つのだろうか。峯丸の姉と兄は庭の片隅に埋められている。姉が死んだとき桂川に棄てにいこうとした基宗を押しとどめて、藤が埋葬した。その場所を示したふたつの石は、生い茂る雑草に覆いつくされてしまい、もはやここからは見通すことができない。
基宗のどこが北面の武士か。北面でも西面でもいい。門番に毛の生えたような仕事でもかまわない。戦にでて首級をあげてこいとまではいわない。とにかく銭を持ち帰ってもらわなければ、出産からたいしてたたぬこの身を売らねばならぬ。夜毎、四条町の辻に立って我が身を立ち売りせねばならぬ。
北面の武士とは上皇や法皇の御所を警護する武士のことだ。白河上皇の院政開始とともに設置され、御所の北面にあって院中を警護する任に当たった。そう聞けばなにやら一端ではあるが、北面の武士が成立したのは平安時代の末期であり、鎌倉時代をさかいに徐々に衰微していき、いまや見る影もない。
先祖は北面の武士と言い得たのかもしれぬが、いまでは院中警固の任と称しつつも生業としては傘に油紙を貼ることであり、そもそもがおなじ山城国とはいえ、基宗は御所とは遠く離れた西岡の地に荒ら屋を構えているのだから、一朝事あったときに御所の北面に駆けつけるには半日以上要する。院中警固という仰々しい科白が虚しく響くばかりだ。
さらに話がずれるのを承知で記してしまえば、いわゆる頭上にさしかけて雨をふせぐ傘というものは、峯丸が生まれてからちょうど百年後に堺の商人、納屋助左衛門が呂宋のものを伝えたのがはじまりとされている。
つまりこの時代は、頭にかぶる笠はともかく、傘張り職人という職業自体が成立しないわけだが、道三の美濃支配から斎藤氏三代龍興、さらに信長の東美濃攻略、関ヶ原合戦で結ばれる堂洞軍記に道三の父は傘張り職人だったと記されているのだから致し方がないと開き直らせていただく。いかにもうらぶれた気配が立ち昇る常套句として傘張り職人はなかなかのものではある。だからあえてそれを採用した次第だ。
そもそもが現時点でもっとも信憑性が高い資料とされる六角承禎条書その他によれば、これから語るお話のほとんどが厳密な史実からは外れたところがあるのだが、これはあくまでも小説であり虚構であるとお断りして頰被りさせていただく。
図に乗って言い訳じみた注釈を加えるが、この作品では作者がいちいち口を差しはさむという自由気儘な小説作法に則って、事績と感情の坩堝をとことん描いていこうと考える。だから言葉の用い方においても自由気儘をある程度許してほしい。
たとえば〈思う〉に含まれる情緒的な部分を削って、より知的な思弁作用をさす語としての〈考える〉という言葉が成立したのは十一世紀前後とされるが、以降の文献にも考えるという言葉はあまりみられない。時代小説に用いるにはちいさな引っかかりを覚える言葉だ。
地の文はともかく科白において「拙者はそう考える」は「拙者はそう思う」としたほうがしっくりくるということだ。とはいえ、もちろん文章として〈思う〉よりも〈考える〉のほうがわかりやすい場合は遠慮なく使わせていただく。安易な原理主義を採用しないということだ。
あえて時代設定にずれのある福笑いを冒頭に置いた理由も、このあたりにあると御賢察いただき、基宗と道三、そして道三と義龍、二代にわたる根深い父と子の物語を愉しんでいただきたい。
さて、松波家であるが、運よく銭が転がり込んできて暮らし向きが好転したなどということはあろうはずもなく、もともと傾いていた日常はほぼ倒壊してしまっていた。されど基宗は峯丸の面倒を見ることに夢中になって傘張りもしない。
もちろん弱い男の常として現実を直視することができず、まちがいなく我が子であるという徴をその内腿にもつ峯丸に逃げているというのが正しいところであるが、独りで気を揉み苛立つ藤はたまったものではない。