芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方【第3回】人間と社会を描くということ

芥川賞作家・三田誠広が、小説の書き方をわかりやすく実践講義!連載第3回目は、伊藤たかみ著の『八月の路上に捨てる』を取り上げ、現代小説の特色と、その技巧について学びます。

破綻に向かう夫婦を淡々と描いた、伊藤たかみ『八月の路上に捨てる』について

【今回の作品】
伊藤たかみ 『八月の路上に捨てる』破綻に向かう夫婦を淡々と描く

日本の近代は明治時代に始まりました。近代小説といわれるものは、ヨーロッパでは19世紀の前半にはすでに全盛期を迎えていたのですが、日本に近代小説という考え方が導入されたのは、19世紀も末近くなってからのことです。

早稲田の文学部を作り、シェークスピア全集の翻訳をした坪内逍遙という作家が出した『小説神髄』という本が、日本の「小説」というもののガイドラインのような役割を果たしました。逍遙は江戸時代に盛んだった戯作と呼ばれる読み物はただの「お話」にすぎない。これからはちゃんとした「小説」を書かないといけない、といったことを主張しました。

ちゃんとした「小説」とは、いったい何でしょうか。
話をおもしろくするために、次々と偶然をつみかさねていくような作り話ではなく、一人の人間がそこに生きていて、苦しんだり悩んだりする姿を、ありのままに描く、というのが本物の「小説」だということになるでしょうか。
逍遙はそれを、「人情と風俗」と表現しました。これはちょっとふるい言葉なので、ここでは「人間と社会」を描く、というふうに言っておきます。

社会に目を向け、生き方を考える

子どものころの読書は「絵本」と「おとぎ話」から始まります。そこに「まんが」も入れておいていいでしょう。そこから推理小説や、ファンタジー小説に移行していく……。これが読書好きの若者の基本コースでしょう。
そういう人が、教科書に出ている文学作品を読もうとすると、何だかおもしろくないな、という印象をもつことになるだろうと思います。
殺人事件が起こらない。主人公が変身しない。わくわくするような展開がない。最後に謎が解き明かされるということもないし、そもそも謎みたいなものが出てこない。それでは何を楽しみにして次のページに進めばいいのか、わからなくなります。

でも、それが文学なのですね。

本を読んでわくわくしたい人は、「まんが」や「ファンタジー」を楽しんでください。でもそれでは、永遠に現実から目をそらして、空想の中にひたっているだけではないでしょうか。
近代(現代)の人間は、社会というものに目を向け、その中に自分を位置づけて、いかに生きるべきかを真剣に考える。そうやってたえず社会と自分との関係というものを考えていないと、めまぐるしい社会の動きに対応できなくなってしまう。それが現代社会なのです。

ぼくは教室の学生に、ひまな時に何してる、とたずねることがあります。
わりと多い答えが、自分よりちょっとだけさえない感じの若者のツイッターやブログをフォローする、というものでした。気持ちはわかります。
お金もなく、将来に希望もなく、友だちもいなくて、もちろんカノジョもいない。そういう若者の日常生活をフォローして、自分の方が少しはましだ、と思えることが、見ている方には救いになるのですね。これって、文学に少し似ている気がします。苦しみ悩んでいる人の姿をフォローし、半ばは同情しながら、自分はこれほど不幸ではないと確認して、少しだけ安心する。

他人の不幸って、自分の心のいやしになるのですね。
小説を読んで涙が流れてきた時、泣いている自分に感動することがありますし、主人公といっしょになって苦しみながら、ふと本のページを閉じて、自分は安全地帯にいると思って、ほっと息をつく……。

ただの身の上話にしないための仕掛け

さて、今回は、伊藤たかみさんの2006年の芥川賞受賞作、『八月の路上に捨てる』を紹介しましょう。
シナリオライターになりたいという夢をもちながら、三十歳の現在、自動販売機に缶飲料を補充するトラックの助手というアルバイトをしているさえない若者が、未来の見えない貧困のために奥さんとの離婚を決意した話を、トラックの中で愚痴まじりに話をする、ただそれだけの小説です。

事件は起こらないし、犯人が判明することもなく、本を読み終えても感動するわけではないのですが、確かにここには、人生の一つの断面があって、主人公の苦しみや悩みがすなおに伝わってきます。
話を聞いているのは正社員の女性ドライバーなのですが、離婚歴ありのこのおばさんのキャラクターがうまく設定されていて、主人公の悩みが相対化されます。この仕掛けが、この小説をただの身の上話や告白調の私小説と一線を画した、「人情と風俗」を鮮やかに切り取った文学作品に仕上げています。
現代小説の、お手本のような作品です。

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初出:P+D MAGAZINE(2016/09/08)

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