【連載お仕事小説・第5回】ブラックどんまい! わたし仕事に本気です

燃えるお仕事スピリットが詰まった好評新連載、第5回。主人公の七菜(なな)は、いつも仕事に全力投球! 早朝から始まる撮影現場で、イレギュラーな事態が続出。先輩の頼子手作りの生姜湯の温かさに癒やされながら、撮影は進む。そんな中、現れたのはなんとあの人物だった……!

 

【前回までのあらすじ】

主人公の七菜(なな)は、テレビ局の下請け制作会社のAP(アシスタントプロデューサー)。緊迫した撮影現場と家との往復で、へとへとになりながら帰宅する七菜。気力と体力を振り絞って階段を上がっていくと、無造作に置かれた男物の黒い皮靴が一足。恋人の、拓(たく)が来ていたのだった。付き合い出して2年。出会った時のことを七菜は鮮明に覚えている。七菜の、仕事に賭ける情熱を、理解しようとしつつ気遣ってくれている拓。しかし、七菜の心には少しの苛立ちが……。
 

【今回のあらすじ】

早朝から始まる撮影。緊張感に包まれた現場だが、先輩の頼子が心を込めて作る温かい生姜湯が疲れを癒やしてくれる。もちろんイレギュラーな事態も多発。その度に七菜は機転を利かせ、主演女優のケアにつく。そして順調に撮影は進むが、なんとそこにあの人物が現れた……!
 

【登場人物】

時崎七菜(ときざき なな):テレビドラマ制作会社「アッシュ」のAP、31歳。広島県出身。24歳で上京してから無我夢中で走り続け、多忙な日々を送っている。

板倉頼子(いたくら よりこ):七菜の勤める制作会社の上司。チーフプロデューサー。包容力があり、腕によりをかけたロケ飯が業界でも名物。

小岩井あすか(こいわい あすか):撮影が進行中のテレビドラマの主演女優。

橘一輝(たちばな いっき):撮影が進行中のテレビドラマの主演俳優。

佐野李生(さの りお):七菜の後輩のAP。26歳で勤務3年目。

平大基(たいら だいき):七菜の後輩のAP。今年4月入社予定の22歳の新人。

野川愛理(のがわ あいり):メイクチーフ。撮影スタッフで一番七菜と親しい。

佐々木拓(ささき たく):七菜の恋人。大手食品メーカーの総務部に勤めている。

 

【本編はこちらから!】

 
 翌朝五時半。まだ暗い新宿の街を抜け、ロケバスは撮影場所へと走ってゆく。
 今日のロケ地は公民館近くの公園だ。天気予報は一日中晴れマーク。二月の撮影はからだにはこたえるけれども、晴天率が高いのがありがたい。屋外ロケは天気が命だ。もし雨で順延となると、そのぶん製作費がかさんでしまう。
七菜(なな)はだんだん明るくなってゆく外の風景を横目で見ながら、スタッフや出演者に早朝飯を配って歩く。
「なんだよ、またオリーブのおにぎり弁当かよ」
 受け取った()(むら)が渋い顔をする。
「ここ、いっつもおかずがひとつだろ。同じ値段なんだから、桔梗にしてくれよ七菜坊」
 オリーブと桔梗は、早朝に弁当を届けてくれる数少ない仕出し屋だ。もともとはオリーブ一強だったのだが、最近ライバル店である桔梗ができた。おにぎり二個に唐揚げかゆで卵のどちらかしかつかないオリーブに対し、桔梗は唐揚げと卵の両方がつき、しかも卵は味のしみた煮卵だ。おかげでスタッフや出演者から、
「毎日オリーブは勘弁してくれ」「せめて三日に一度は桔梗を入れろ」といった要望が届くようになってしまった。
「わかりました。明日は桔梗にしますから」
 七菜はそそくさとその場を離れる。たかがロケ弁と侮ってはならない。弁当の味如何でみなのやる気もずいぶんと変わるのだ。
「明日は桔梗に頼むこと」
 七菜はこころのノートに書き込んでから、残りの弁当を配って歩いた。七菜の後ろでは李生(りお)が後方に座るスタッフに弁当を渡している。
 (だい)()は何をしてるんだろう。不審に思い振り返ると、座席にだらしなく座り、大口を開けて眠っているすがたが目に入った。
 かっと頭に血が上る。
 だが叱ってはならない。ちゃんと時間通りに来ただけでも褒めてやらねば。なにせ二日めは大遅刻して昼前にあらわれたのだから。七菜は深呼吸して怒りを鎮めた。
 すべて配り終わり、最後列に座る(より)()の隣に戻る。コートのフードを目深にかぶった頼子は、窓にもたれかかるようにして目を閉じていた。早朝のせいか、頼子の顔色は白を通り越して青白い。メイクで隠してはいるが、目の下の(くま)がはっきり見て取れた。頼子を起こさぬよう気配を殺して、七菜はそうっと座席に滑り込む。
 一時間ほどでバスは目的地に到着した。
 出演者と、ヘアメイクの(あい)()やロケ飯の仕込みに入る頼子を公民館にまず落とす。
「七菜ちゃん、手伝ってくれる?」
 バスを降りた頼子に声をかけられ、いったん七菜も席を離れた。
 頼子は後続のバンから大きな保温ポットをひとつ、出しているところだった。
「なんですか、これ」
 重たいポットを受け取りながら聞く。
「特製生姜湯。今朝仕込んだの。からだ温まるよ」
 よろしくねと手を振り、頼子が公民館に入ってゆく。七菜はポットを右手に提げ、ふたたびロケバスに乗り込んだ。
さらに十五分ほど走り、七菜たちは公園に到着した。今日の撮影は、さくら塾から逃げ出した生徒をあすかや一輝(いっき)たち講師が公園で探し回るシーンからのスタートだ。()(ぐち)監督の指示のもと、カメラの田村や照明の諸星(もろぼし)たちが機材を配置して回る。その間に七菜はブース横に設けられた休憩所の支度を整える。
 熱いコーヒーの入ったポット。その横に、コーヒーが苦手なひとのためのお湯のポットと日本茶や紅茶、ハーブティのティーバッグを並べる。ひと口大のチョコやのど飴が盛られたかご、紙コップやウエットティッシュの箱、最後に頼子手作りの生姜湯のポットを簡易テーブルに置いた。
 手作りの生姜湯。どんな味なんだろう。好奇心を覚えた七菜は、紙コップにひと口ぶんだけ、ポットから生姜湯をそそいだ。
 コップから立ち上る生姜の匂い。生の生姜をすりおろしたのだろう、うす茶の湯のなかに細かな繊維が漂っている。繊維と一緒に、細長い、小さな種が浮いていた。
 生姜湯に種? 不思議に思いながら口に運ぶ。
 まず感じたのは独特の匂いと辛みだった。それらを包み込むような優しい甘さ。砂糖ではなく蜂蜜を使っているのだろうと想像する。
 例の種が舌に残った。七菜は前歯で押しつぶす。
 とたんにクミンの爽やかな芳香が口じゅうに広がり、生姜の辛みや蜂蜜の甘みがすうっと落ち着いてゆく。吐く息にクミンの香りが感じられた。からだに残る眠気やだるさが、いっぺんに軽くなる。胃のあたりを中心に、ほっこりとした熱がわき上がってくる。
 さすが頼子さん。生姜湯ひとつとっても抜群にセンスがいいなあ。この生姜湯を飲めば、気持ちがほぐれ、きっと力みや、よけいな気負いが抜けてゆくことだろう。七菜はこころのなかで(うな)る。
 作業を進めているうちにようやく陽が昇り、少しずつだが気温が上がって来る。それでも空気は刺すように冷たく、あっという間に鼻の頭や耳がかじかんで痛くなってきた。とてもではないがじっと立ってなどいられない。今日も厳しい寒さとの戦いになりそうだ。七菜は薄い青に輝く冬の空を見上げた。
 八時半、支度を整えた出演者や愛理たちスタッフが公園に到着した。出迎えるため、七菜はロケバスを降りた一団のもとへ急ぐ。
「おはようございます」
「よろしくお願いします」
 あちらこちらで挨拶の輪ができる。
 バスを最後に降りてきたのは頼子だった。先ほどよりは血色のよい顔をしており、七菜は少し安心する。
「あ、ちょうどよかった、七菜ちゃん」
 頼子が小さく手招きした。
「なんでしょう」
「悪いけど、今日は一日、()(いわ)()さんについてくれる?」
「え? マネージャーさんは?」
「それがね、急病でお休みって連絡が入って」
「まさかインフル!?」
 七菜の発した忌まわしき四文字に、周囲のスタッフがぎょっとした顔でこちらを振り返る。
「違うちがう、腹痛だって、腹痛」
 あわてたように手を振って頼子が否定し、七菜もスタッフもほっと安堵の息を漏らした。
 厳寒期の撮影、一番の敵はインフルエンザだ。チームのひとりでも発症すれば、あっという間に全体に広がってしまう。替えのきくスタッフはまだしも、俳優部に感染(うつ)ったらひとたまりもない。撮影不能という最悪の事態に陥ってしまう。
「よかったぁ」
「じゃあよろしくお願いね」
 頼子が大きめの日傘を七菜に手渡した。(うなず)き、目であすかを探す。すでにカメラ横で一輝や子役とともに、矢口監督、田村カメラマンと台本片手に打ち合わせを始めていた。話が終わるのを待ち、七菜はあすかに声をかける。
「おはようございます。今日はわたしが小岩井さんのケアに入らせていただきます」
「おはようございまぁす。ごめんね、忙しいのに」
 あすかがぴょこんと頭を下げる。
 色白の滑らかな肌、細く尖った(あご)から首にかけてのラインが惚れぼれするほど美しい。長いまつ毛の下の茶色い瞳は七菜の三倍はありそうだ。あすかを見るたびに「ほんとに同じ人間だろうか」と我が身に引き換え七菜は感じてしまう。
 撮影は順調に進んだ。
 とはいえ昨日と違い、今日はカットひとつ撮るたびにこまかく移動しなくてはならないので、どうしても時間がかかる。移動するカメラを追って、七菜はディレクターズチェアと日傘を抱え、あすかについて回った。
 時間が刻々と過ぎてゆく。
 昼に近づくにつれ、太陽はちからを増し、気温が上がっていく。ひなたでは少し汗ばむくらいの温かさだ。
 だが日傘の下のあすかは、つねに寒そうにからだを揺らせている。それもそのはずで、実際は二月だが、撮っているシーンは初夏の設定、厚いコートを何重にも羽織っているが、あすかが着ているのは薄手のシャツ一枚だけだ。
「小岩井さん、日傘、差さないほうがいいですか」
見かねた七菜はあすかに問う。あすかは一瞬だけ迷ったのち、決然と首を振った。
「ううん、差しといて。日焼けしちゃったらまずいし」
「じゃなにか温かい飲みものを」
「それもいい。トイレ、近くなっちゃうから」
 なんというプロ意識の高さ。大基に爪の(あか)でも煎じて飲ませたい。七菜が感心していると、
「そういえばさ、ナナちゃん、あ、うちのワンちゃんね、昨日帰ったら三か所もお漏らししててさー」
 いかにチワワのナナがお馬鹿で間抜けで下が緩いか、滔々(とうとう)と語りだした。
 複雑な思いに駆られながらも七菜は笑顔で相づちを打つ。あすかのプロ意識に免じて多少の天然は気にすまいぞ。じぶんに言い聞かせる。
 強い風が吹き、あすかの長い髪を揺らせる。大きく身震いしたあすかが首を(すく)めた。
「追加のカイロ、持って来ましょうか」七菜が尋ねると、
「だいじょうぶ。板倉(いたくら)さんのロケ飯を楽しみにがんばる。ね、ね、今日のメニューはなに?」逆に尋ね返された。
「なんでしょう。今日は仕込み、手伝っていないので」
「聞いてきてよ、時崎(ときざき)さん」
「いいですよ。ちょっと待ってくださいね」
 あすかのもとを離れ、ブースでモニタを熱心に覗き込む頼子に小走りで近づいていく。七菜に気づいた頼子が顔を上げた。
「あれ、どうしたの七菜ちゃん」
「今日のロケ飯はなにかって小岩井さんが」
「ええとね、今日はね」
 言いかけた頼子が、ふいに口をつぐんだ。(いぶか)しげな目で、公園の入り口を見つめている。
 なんだろう。七菜は頼子の視線の先を辿る。
 最初に目に入ったのは、薄い灰色のコートをぴらぴらなびかせて歩いてくる痩せた猫背の男だった。右肩の下がった独特の姿勢、右に左にふらふら揺れるなんとも頼りない歩きかた。ひと目で上司である、チーフプロデューサーの(いわ)()耕平(こうへい)とわかった。
 その後ろにつづくのは、真っ赤なコートを着た横幅の広い女性。背は耕平と同じくらいで、艶やかな黒髪が見え隠れしている。
 誰だろう。局の人間だろうか。よく見ようと七菜は背を伸ばす。と、頼子が息を呑む音がした。
「……(かみ)(じょう)先生」
「え、上条先生って」
 七菜の問いにこたえず、頼子が全力で耕平たちのもとへと走り出す。反射的に七菜は頼子の背を追った。
 頼子たちを認めたのか、耕平が背後を振り返り、なにごとか(ささや)いた。ついで恭しげな態度で横に寄り、女性を前に立たせる。女性の全身があらわになる。
 ボブというより限りなくおかっぱに近い黒髪。前髪はきっちりまっすぐに眉の上で切りそろえられている。大きなカーブを描く太い眉は髪と同じく真っ黒だ。吊り上がったアーモンド型の目は、これまた真っ黒なシャドウで隅々まで縁取られており、思わず七菜はエジプトの壁画を連想してしまう。えらの張った四角い顔の中央には巨大なわし鼻が陣取り、下につづく分厚いくちびるはコートと同色のルージュで彩られていた。
 この顔。テレビや雑誌でしょっちゅう目にするこの顔は。七菜はごくりと唾を呑む。
 上条(あか)()
 数々のベストセラーを持つ国民的小説家であり、映像化された作品は数知れず、さらには教育評論家としても名高く、なによりこのドラマ「半熟たまご」の原作者である上条朱音だ。

 

【次回予告】

美味しいロケ飯を心の支えに、緊張が続く撮影を乗り切る七菜たち。予測できない事態はよく起こるものの、まさか原作者の上条朱音が現場に訪れるとは……。次回、何が起きるのか!?

〈次回は2月21日頃に更新予定です。〉

プロフィール

中澤日菜子(なかざわ・ひなこ)

1969年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。2013年『お父さんと伊藤さん』で小説家デビュー。同作品は2016年に映画化。他の著書に、ドラマ化された『PTAグランパ!』、『星球』『お願いおむらいす』などがある。

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初出:P+D MAGAZINE(2020/02/14)

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