頭を打って倒れた七菜。飲み過ぎの果ての失態に自己嫌悪……。消えてしまいたいくらい落ち込む七菜のもとを訪れたのは? 【連載お仕事小説・第10回】ブラックどんまい! わたし仕事に本気です

燃えるお仕事スピリットが詰まった好評新連載、第10回。主人公の七菜(なな)は、いつも仕事に全力投球! あろうことか、二日酔いのためフラフラの状態で仕事に臨んでいた七菜。突如現れた盗撮犯を捕まえようとした時に転倒、頭を強く打ってしまう。目覚めた時、そこには見慣れない天井が。七菜は一瞬何があったのか思い出せず……。

 

【前回までのあらすじ】

コートについた鳥のフンの応急処置が功を奏し、朱音は上機嫌に。危機を乗り越えた安心感からその日の夜飲み過ぎてしまった七菜を襲ったのは、重い二日酔いだった。長時間続く撮影になんとか耐えていた七菜だが、具合は一向に良くならない。重い頭痛を引きずりながらなんとか踏ん張っていると、そこに新たな事件が……!

 

【今回のあらすじ】

二日酔いが祟って、体調が最悪の七菜。何とか仕事場で踏ん張っていると、そこになんと盗撮犯が現れる! 七菜が慌てて捕まえようとした時、転倒し頭を打って倒れてしまう。病院に運ばれ、目が覚めた時、七菜の中に少しずつ記憶が蘇る。一体何をしてしまったというのか、激しい後悔の念に苛まれるが……。

 

【登場人物】

時崎七菜(ときざき なな):テレビドラマ制作会社「アッシュ」のAP、31歳。広島県出身。24歳で上京してから無我夢中で走り続け、多忙な日々を送っている。

板倉頼子(いたくら よりこ):七菜の勤める制作会社の上司。チーフプロデューサー。包容力があり、腕によりをかけたロケ飯が業界でも名物。

小岩井あすか(こいわい あすか):撮影が進行中のテレビドラマの主演女優。

橘一輝(たちばな いっき):撮影が進行中のテレビドラマの主演俳優。

佐野李生(さの りお):七菜の後輩のAP。26歳で勤務3年目。

平大基(たいら だいき):七菜の後輩のAP。今年4月入社予定の22歳の新人。

野川愛理(のがわ あいり):メイクチーフ。撮影スタッフで一番七菜と親しい。

佐々木拓(ささき たく):七菜の恋人。大手食品メーカーの総務部に勤めている。

上条朱音(かみじょう あかね):ドラマ『半熟たまご』の原作者。数々のベストセラーを持つ小説界の重鎮。教育評論家としても名高い。

 

【本編はこちらから!】

 
 最初に見えたのは、薄いクリーム色の天井だった。
 どこだろう、ここは。ぼんやりとした意識のなかで七菜は不思議に思う。うちの天井じゃない。そういえば寝てるベッドも違う――
 起き上がろうと七菜は首を持ち上げる。
「動いちゃだめ!」 
 枕もとの右から女性の鋭い声が聞こえてきた。
 頼子さん? なんで頼子さんが。
 七菜は首を枕に戻し、傾けて、右側を見る。薄いブルーのカーテン、その前に真剣な表情を浮かべた頼子が座っている。
「頼子さん」
 七菜は反射的に起き上がろうとする。ふたたび頼子が鋭い声を発した。
「動いちゃだめだって。頭、打ってるんだから」
 頭を打った? あたしが? 
 七菜は驚いて右手を頭にあてる。右のこめかみにガーゼのようなものが貼られているのがわかる。鈍い痛みが頭の芯で(うず)く。
なんで? どうして? 七菜は混乱する。ほうっ、頼子が重たげな息をついた。
「ようやく目が覚めたわね」
「頼子さん、いったいなにが? あたし、どうしてここに」
「覚えてないの?」
 問われて七菜は記憶を辿る。
 ええと、確かロケをしてて、そう、公民館の前で。誰かが叫んだ、ああ村本さんだ、あすかのマネージャーの。それでそっちを見たら―― 
 記憶が情景として鮮明によみがえってきた。
「盗撮! どうなりましたか、あの男!」
 またしても起き上がろうとする七菜を、みたび頼子が制した。
「だから動いちゃだめだって。何度言えばわかるの、もう」
「ご、ごめんなさい。あのでも頼子さん」
「男は佐野(さの)くんが捕まえて、その場で画像を消去させたわ」
「よかった……」
「よかったじゃないわよ、まったくもう」
 頼子が再度深いため息をついた。
「え、なんでですか? 撮影どうなりました? てか、ここどこですか? いま何時ですか? あたしどれくらい気絶してたんですか?」
 思い出したとたん、疑問がいちどきに湧いて出た。頼子が目を(つぶ)って眉間を揉んだ。
「撮影は中止、ここは国立市の総合病院、いまは午後四時半、あと――気絶してたんじゃない、たんに寝てただけ七菜ちゃんは」
「え、でもあたし頭打って」
「CT撮ったけどとくに異常なし。ただ頭を打ったのは確かだから、二十四時間は要経過観察で絶対安静と医師の診断が下りたの」
「……絶対安静……二十四時間……」
 七菜は頼子のことばを繰り返す。頼子がまぶたを上げ、強い視線を七菜にあてる。
「――猛烈に酒臭かったわよ、七菜ちゃん。昨夜相当飲んだようね」
「え? あ、は、はい」
「だから忘れたの? 昨夜のわたしの指示を」
 昨夜の指示? 七菜は必死に記憶を手繰(たぐ)る。
 そうだ、愛理さんと飲んでるとき、頼子さんからLINEが入ったんだ。確か「エキストラ表をチェックして」と。それで帰ったらやろうと思って、でもあたしそのまま――
 そこまで思い出し、七菜の全身から音を立てて血が引いてゆく。
「……もしかして……あの男、NG猛者(もさ)だったんですか? それがエキストラに混じって」
「その通りよ……だからわざわざ確認してねと頼んだのに」
 頼子の切れ長の目がすっと細まった。
「で、でもあのリストは(たいら)くんが作って」
「だからこそ七菜ちゃんにチェックをお願いしたんじゃないの。なのにあなたはやらなかった。結果、NG猛者が現場に入り込んでしまった」
 頼子のことば一つひとつが七菜の胸を(えぐ)る。
 NG猛者は熱狂的なファンのことだ。いやファンというよりストーカーに近い。あすかのような人気若手女優にはあの男のようなしつこいストーカーが何人もついており、ときには私生活にまで入り込んでくる。入り込んでくるだけでなく、危害を及ぼす危険性すらある。だから事務所側はそのような危険人物を常に把握し、絶対にそばに近寄らせないようリストにして制作会社に渡している。例えばエキストラに混じって近づいてこないように。なのに。
――やってしまった。
七菜は両手で顔を覆った。頼子のことばがつづく。
「平くんのせいにはできないわよ。彼は単なるアルバイトにすぎないんだから。責任を負うのは、七菜ちゃん、社員であるあなたなのよ」
 顔を覆ったまま、七菜はちいさく(うなず)く。見えていなくても、突き刺さるような頼子の視線を感じた。
()(いわ)()さんの事務所は激怒しているわ。『いったい現場はなにをやっているのか。もう信用できない』と。当然今日の撮影は中止。明日以降の予定もすべて白紙。明日、(いわ)()さんが直接謝罪に行くけれど、事務所側がどう出て来るか、まったくわからない状況よ。ほんとうに……なんてことをしてくれたの、七菜ちゃん……」
 最後は(ささや)くような小声だった。
「……すみません。本当にほんとうにすみませんでした……」
 七菜は腹の底から声を絞りだす。長く深い吐息とともに頼子がこたえる。
「起こってしまったことはもう取り返しがつかないわ。あとはどう対処するか、とにかく最善の策を考えるしかない」
「あ、あたしも行きます! 岩見さんと一緒に」
 両手を顔からはずして訴える。頼子が左右に首を振った。
「同行したほうがいいのかどうか、わたしには判断できないわ。一応岩見さんには伝えます。とにかくいまは安静にして、一刻も早く元気になって。それじゃ」
 頼子が席を立った。ベッドの足もとに向かって歩いてゆく頼子に、七菜は夢中で声をかける。
「あ、あの頼子さん!」
「なに?」
「……ごめんなさい。現場のみなさんにも、そうお伝えしてください……」
 それだけ言うのがやっとだった。いや、それしか言うべきことばが見つからなかった。
 頼子の顔がふっと緩んだ。
「……大きな怪我がなくて本当によかった。もし七菜ちゃんになにかあったらと思ったら、わたし……」
 込み上げてくるものを必死で抑えるように、頼子がくちびるを噛んだ。そのまま視線を合わせることなく、足早にカーテンをくぐり、去ってゆく。
 ひとり残された病室で、七菜はぎゅっと目を閉じ、シーツを頭までかぶった。心臓のどくどくと打つ音が、どんどん早く大きくなってゆく。胃が縮み、鋭い痛みを感じる。手足が急速に冷えていくのがわかった。
 なんてことしちゃったんだろう。後悔が波のように押し寄せる。
 確認を怠るなんて。しかもよりによってNG猛者が紛れ込んでいたなんて。全部あたしの責任だ。あたしがうっかりしていたから。いや、うっかりでは済まされない。それほどの大事をしでかしてしまったんだ。
 空調は効いているはずなのに寒くてたまらない。七菜はシーツをかき寄せる。
 撮影が中止されたということは、それだけで何万、いや何十万もの損害を引き起こしたということだ。お金の問題だけじゃない、スタッフキャスト一人ひとりに多大な迷惑をかけ、さらには現場でいちばん大事な信頼関係、それを壊してしまったのだ、あたしは。
 消えてしまいたい。七菜はシーツの闇のなかで思う。いっそこのまま死んでしまいたい。頭の打ちどころが悪くて死んじゃえばよかったんだ、あたしなんか。
 いまからでも遅くない。
 七菜のこころのうちを、暗く冷たい衝動が走る。呼吸が荒くなってゆく。冷たい汗が額に滲む。七菜はシーツの端を強く握りしめた。爪が手のひらに食い込み、鈍い痛みが広がった。
 落ち着け。馬鹿なことを考えるな。
 頭の片すみで、もうひとりのじぶんが声を上げた。
 死んでどうなるというのだ。よけい頼子さんやスタッフキャストに迷惑をかけるだけじゃないか。そんなことを考える暇があったら、これからどうしたらよいか、それを考えろ。逃げるな。甘えるな。七転び八起の七菜だろう、おまえは。声がしだいに大きくなってゆく。
 そうだ、その通りだ。七菜はシーツから顔を出し、冷静になろうと深呼吸を繰り返す。
 大きなミスを犯してしまったけれど、それで誰かが死んだり怪我をしたわけじゃない。誠意を尽くして謝罪すれば、きっとリカバリーできるはず。そのためにはなんとしても明日退院しなくっちゃ。だとしたら今は医者の指示通り、ひたすら安静にしているしかない。
 眠ろう。七菜は静かに目を閉じる。眠れないかもしれないけれど、せめて目を閉じ、じっとしていよう。いまやれることを全力でやろう。
 七菜は全身のちからを抜いた。頭を空っぽにして、規則正しい呼吸を繰り返す。連日の寝不足がかえって功を奏したのか、しばらくするうちに睡魔がとろとろと忍び込んできた。流れに逆らわぬよう、七菜は意識をさらに深いところへと沈めてゆく。ああ、眠れそう――だが、そこまでだった。
 とつぜん派手な音を立てて、カーテンが引き開けられた。
「七菜! 七菜ぁ!」
 低く野太い女性の声が病室に響き渡る。七菜の心臓が跳ねる。一気に眠気が引いてゆく。
 目を開けた七菜の視界に飛び込んできたのは、小太りで背が低く、真っ黒に日焼けした熟年の女性――母親の(たみ)()だった。
「……お母、さん?」
 まだぼんやりした頭で七菜はつぶやく。
 なぜここに母が? 幻でも見ているのだろうか。
 だが幻ではなかった。その証拠に、母はベッドの枕もとに走って来るや、シーツに包まれた七菜の肩に抱きつき、ものすごいちからで前後左右に振り回し始めた。世界がぐるぐる回る。
「お、お母さま! 患者さんは絶対安静ですので!」
 後ろから走ってきた女性看護師があわてたように母をとめる。ようやく揺さぶりが収まった。喘ぎながら七菜は問う。
「な、なんでお母さんがここに」
「会社から電話来たけえ。びっくりしたよぉ『頭打って病院に運ばれた』言うけえ、もう驚いてさ、取るものも取り合えず駆けつけたんじゃき」
 七菜の肩を掴んだまま母がこたえる。
 黒い顔に並ぶちんまりとした両目。いまその目には、うっすらと涙の膜が張っている。髪の毛にはきついパーマがあてられ、ところどころ紫色のメッシュが入っている。真っ赤なセーターにヒョウ柄のズボン。肩にはゴブラン織りの巨大なバッグがかけられていた。
「それではわたしはこれで。のちほど入院受付までおいでくださいね」
 看護師が落ち着いた声で告げる。
「はい。ありがとうございました。本当にありがとうございました」
 何度も頭を下げる母に一礼し、看護師が静かな足取りでカーテンの向こうに消えてゆく。
「べつに来なくてもよかったのに」
 看護師がいなくなるやいなや、七菜はくちびるを尖らせて抗議した。母の小さな目がまん丸になる。
「なに言うてるの。入院するんだよあんた。誰が保証人になるというのさ」
「入院ったって一日だけだし」
「馬鹿言うんじゃないき。一日だって入院は入院、親族のハンコだのなんだの必要になるんじゃき。父ちゃんも『一緒に行く』言うてたけど、どうしても仕事抜けらんき、あたしが駆けつけたんやないの」
 母の声がどんどん高くなる。カーテン越しに右隣のベッドから、わざとらしく咳をする音が聞こえてきた。
「わかったから。静かに話して」
 七菜は小声で注意する。まったくもう、どうして田舎のひとってこんなに声がでかいんだろうか。
「で、怪我の具合はどうなのよ」
 母が七菜の全身を()めるように見る。七菜は右のこめかみに貼られたガーゼを指さす。
「切ったのはここだけみたい。CT検査では特に異常はなかったって」
「顔に傷なんかこさえて。嫁入り前の娘が」
 母が不安と非難の()い交ぜになった声を上げる。
「仕方ないじゃん、仕事中だったんだから」
「仕事仕事って、あんたいっつもそればっかりで。正月にも帰って来んで」
「帰れるわけないでしょ。撮影前のいちばん忙しい時期に」
「でも正月よ。みーんな休みなんだよ。なんもそんなときまで働かなくたって」
「お母さんやお父さんの仕事とは違うの。何度も説明したでしょ」
 畑仕事の傍ら、父は農協で事務を、母はスーパーでレジ打ちのパートをしている。ちいさな町の、残業など縁のない仕事。七菜の住む世界とは正反対の場所だ。
母の太い眉がぐっと上がった。
「そんな仕事ばっかしとるけん、結婚もできないんでしょうが。幾つになるかわかってんの、あんた。三十一よ、三十一」
 ああ、始まってしまった。七菜は深いため息をつく。この「攻撃」が嫌で、実家にはなるたけ寄り付かないようにしているというのに。
 七菜のため息などつゆほどにも気にせず、母はまくしたてる。
「あたしが三十一のときにはねぇ、あんたはもう小学生になっとったよ。ほら中学のとき仲良しだった(りっ)ちゃん、あの子なんかもう子ども三人いて、上の子は来年中学生よ。梨華(りか)ちゃんだって二人いるし、梨華ちゃんのお姉ちゃんのほら(のぞみ)ちゃん、望ちゃんなんか去年孫が生まれたんだから」
「そんなんひとそれぞれじゃん」
「減らず口叩いてるうちに、あんた、どんどん歳を取るんだよ。子どもだって産めなくなるき。どうするんじゃ、結婚もしない、子どももいないんじゃ」
「だからそれは」
 ごほ、ごほん。ふたたび右隣から咳き込む声が響いてきた。七菜はいそいで声を低める。
「とにかく今そんな話してる場合じゃないでしょ。わざわざ来てくれたのは嬉しいけど、その話はまた今度」
「今度こんどって、あんた、いっつもそればっかで」
「七菜ちゃん!」
 とつぜん降って来た男性の声に、母がぎょっとしたように振り返る。
 ああ。絶望感にかられて七菜は目を閉じる。最悪のタイミングだ。
「あ、あんた誰ね?」
 母が警戒心に満ちた声を発した。カーテンの前で立ちすくんだ(たく)が、母を見、七菜を見、そしてもう一度母を見た。
「あの……ぼく、いえわたくし、七菜さんの友人で佐々木(ささき)拓と申しますが……ひょっとして、あの七菜ちゃん、いえ七菜さんの……」
 母が、ひゅっと音を立てて息を呑んだ。
「ええ母です、母の時崎(ときざき)民子と申します。あらまあご友人の。あらまあそうでしたか。いつも七菜がおせわになっております」
 ひと息に言い、腰を直角に折った。つられたように拓も深く頭を下げる。
「いえこちらこそ。七菜ちゃん、七菜さんにはいつもお世話に」
「あらあらまあまあ。わざわざご丁寧に」
 再度、一礼した。頭を上げた拓が、あわててお辞儀を返す。
 だめだ。このままではふたり、世界が終わるまでお辞儀し合うに違いない。諦めて七菜は割って入った。
「挨拶はもういいから。それより拓ちゃん、なんでここに」
 拓ちゃん、と口にしたとたん、母が振り向いてにんまりと笑んだ。さっきまで吊り上がっていた眉は、いま盛大に垂れ下がり、口もとがこれでもかというほど緩んでいる。
「愛理さんからLINEが入って。ごめん、さっきまで会議中で来るのが遅くなって」
 母の向こうから拓がこたえる。母が、ずざっとからだを引いた。
「佐々木さん、でしたかしら。どうぞどうぞ七菜のそばへ行ってやってくださいな」
「あ、はい、でも」
「いいからいいから、ね?」
 母は拓の袖を掴まんばかりの勢いだ。
「失礼します」
 拓が母の横をすり抜け、枕もとに立った。すかさず母が椅子を勧める。礼を言ってから拓が椅子に腰をかけた。その一挙手一投足をひとつも見逃さじといった目で、食い入るように母が見つめる。
「転んで頭打ったって聞いたけど、どうしたの、だいじょうぶなの?」
 心配をあらわにした顔の拓に向かい、七菜は先ほど母にしたのと同じ説明を繰り返す。話し終えると同時に、拓が詰めていた息を吐きだした。
「そっか。とりあえずはよかったよ」
「ごめんね、心配かけちゃって。それにまだ仕事中でしょ」
「いいよいいよ仕事なんか。それより七菜ちゃんの顔が見られてほんとにほっとしたよ」
 拓が大きく首を振る。拓の斜め後ろに立つ母の顔が、さらに笑み崩れてゆくのが見えた。
 んんっ。母が喉の奥で痰を切る。はっとしたように拓が振り返り、席を立った。
「すみませんお母さん。どうぞおかけください」
「……おかあさん……!」
 感に()えぬ、といった風情で母がつぶやいた。そんな母を、拓が不思議そうなまなざしで見つめる。
 ああ、怪我なんてしなけりゃよかった。七菜はこころの底から後悔する。
 よっこらしょ、声を上げて母がベッドの足もとに腰を掛け、拓に向き直った。
「ところで佐々木さん、いつごろから七菜の、その、お友だちなんですか」
「二年ほど前からです。あの、七菜ちゃんからはなにも……」
「えーえー、この子ったらじぶんのことはなにも話してくれなくて」
 非難するようなまなざしを七菜に投げる。
「それで佐々木さん、お勤めはどちらに」
「アタカ食品という食品メーカーに勤めております」
「ええっ!」
 母が悲鳴のような声を上げる。
「『あったかアタカ、あったか家族、アタカのカレー』でおなじみの、あのアタカ食品に!?」
 ご丁寧にテーマソングまで歌い上げ、まじまじと拓の顔を見つめる。
「いえ古いというだけでそれほどの会社では」
 拓があわてたように手を振った。母の目がさらに輝きを帯びる。
「お幾つでらっしゃるの? お住まいはどちら? ご家族はどんな?」
「お母さん! 失礼でしょ、いきなりそんな」
 動けない七菜は、首だけを傾けて母に言い返す。
「いいって、七菜ちゃん。自己紹介ができてかえって好都合だよ」
 拓が笑顔で七菜の顔を覗きこみ、それからふたたび母のほうへ振り向いた。
「三十歳です。実家が成城にありまして、そこから通勤しています。家族は両親と兄、姉ですが、兄も姉も結婚して家をでております」
 拓が律儀にこたえる。母が瞑目(めいもく)して天を仰いだ。
「……成城……次男坊……」
 母のこころのうちが見えるようだ。七菜はどんどん憂鬱になっていく。
「じゃあ拓さんも、いずれ結婚して家を出ようと?」
 いつのまにか佐々木さんから拓さんに呼びかたが替わっている。
「そうですね、いずれは、と思っているのですが……」
 拓がちらりと七菜を見た。何気ないふうを装って七菜は視線を外す。
「……七菜ちゃんの仕事が忙しくて、なかなか話をする時間が取れなくて」
 母が、我が意を得たり、といった顔で大きく頷いた。
「ですよねですよね。あたしも常々そう言ってるんですよ『仕事が忙しすぎる』って。『こんなんじゃ結婚もできないよ』って」
 今度は拓が深く頷いた。
「本当にお母さんのおっしゃるとおりです。終電で帰れればまだ良いほう、時期によっては徹夜がつづくことすらありますから、七菜ちゃんは」
「ま! そんなに遅いんですか」
 母が、ちいさな目を思いきりひん()く。
「拓ちゃん」
 懇願の思いを込めて呼びかけるが、拓には届かなかったらしい。
「仕事が充実してるのはいいことだとぼくも思うんですが……限度があるといいますか。ほら今は働きかた改革で、残業じたい禁止されてることも多いでしょう。ぼくの会社でも定時退社や、残業規制がかなり徹底されていて」
「ええ、働きかた改革。ええ、ええ」
「それに比べると七菜ちゃんの会社は」ちらりと拓が七菜を見やる。「かなりブラックっていうか、仕事のさせかたに問題があると思わざるを得ないんですよ」
「ブラックじゃないよ、うちの会社は」
 むっとした思いで言い返す。負けずに拓が早口で言い募る。
「だけどじっさいブラックじゃないか。残業多いし、休みも取れないし」
「でもちゃんと残業代出てるよ。それに忙しい時期は休めないけど、そのぶん暇な時期にはまとめて代休も取れるし。なによりじぶんがやりたくてやってるんだから、ブラックとは違う、ぜったいに」
「いつも言ってるけどさ、ぼくは七菜ちゃんのからだが心配なんだよ。今のような働き方をしていたら、きっとからだを壊してしまう。今日の怪我だって、無理が祟ったせいなんじゃないの」
「いや今日は」
 反論しかけた七菜を母の野太い声が遮る。
「ほんとにそうですよ。人間、なんたって健康がいちばんですからね。それに男のひとと違って、女には妊娠できる限界がありますでしょ。この子ももうすぐ三十二、それを考えると、もう毎日心配で心配で」
 母が、芝居がかったしぐさでそっと目頭を指で押さえた。
「お母さん」
 拓が席を立ち、母の肩に手をかける。
 いい加減にしてくれ! 叫び出そうとしたそのとき。
「あら。まだここにいらしたんですか」
 カーテンが揺れ、手に血圧計を持った先ほどの看護師があらわれた。
 天の助け。七菜は看護師に(すが)るように問いかける。
「入院の手続きをしなくちゃいけないんですよね」
「ええ。受付は六時で閉まってしまうので、そろそろ行っていただかないと」
 腕時計を確かめて看護師がこたえる。
「というわけだからお母さん」
 シーツから手を出し、しっしっと追い払うしぐさをする。母が眉根を寄せる。
「そうなの? じゃ一度受付行って、また戻って来るけん」
「いいよ、もう来なくて」
「だけどあんた」
「患者さんのことならご心配なく。当院は完全看護ですので」
 母を安心させるように看護師がほほ笑んだ。七菜はこころのなかで看護師に手を合わせる。拓が不安げな顔で七菜を見つめる。
「ほんとにだいじょうぶなの、七菜ちゃん」
「うん。なにかあったらすぐ連絡してもらうから」
「そう……じゃあ行きましょうか、お母さん」
 看護師の邪魔になると思ったのだろう、拓が母の肩を軽く揺さぶった。母がようやく縦に首を振る。
「わかったき。今日はもう帰るけん」
「ありがと、お母さん。遠いところをわざわざ」
「明日また来るけん、おとなしゅうしとるんよ」
「え!? 明日も来るの!?」
 悲鳴のような声が出てしまった。
「そりゃそうじゃ。大事な娘じゃもの」
 母の面持ちは真剣そのものだった。全身から七菜を心配する気配が漂ってくる。今日初めて、七菜は母に対して申し訳ない気持ちになった。
「そっか。わかった」素直に頷く。「それで泊るところはもう手配してあるの?」
「まだじゃ。なんせ東京に来るんだって十年ぶりじゃけえ、なんもわからん」
「だったらあたしの部屋に泊ればいいよ。ちょっと待って、いま鍵を」
「動かないください」
 反射的に身を起こそうとした七菜を看護師が止める。拓がやんわりと言う。
「いいよ七菜ちゃん。お母さんはぼくが送っていく。合鍵あるから、それ使ってもらえば」
「アイカギッ!」
 母が化鳥のような叫びを発し、その場にいた全員がびくりとからだを震わせる。右隣のベッドから短い悲鳴が聞こえた。
「す、すみません。も、もちろん七菜ちゃんの許可はもらっていますので」
 恐るおそる申し出る拓に、母が光り輝くような笑顔を向ける。
「いいんですよいいんですよ、合鍵くらいもう十個でも二十個でも」
 そんなに作ってどうする。七菜はこころのなかで(うめ)く。
「じゃあぼくらはこれで。あとはよろしくお願いします」拓が看護師に頭を下げる。「七菜ちゃん、くれぐれもお大事に。退院したら連絡してね」
「わかった」
「また明日ね、七菜」
 母が盛大に手を振り、拓に先導されるかたちで病室を出て行った。
 なんという一日だろうか。七菜は重い吐息をつく。今までの人生で最低最悪なのは間違いない。目を瞑り、眉間を揉んだ。
「どこか痛いところがあるの?」
 血圧計のカフを伸ばしながら看護師が聞く。
「いいえ」
 七菜はちからなく首を振る。
 痛いのはからだじゃないんです、こころです、とはさすがに言えなかった。

 

【次回予告】

激しい後悔から落ち込む七菜だったが、懸命に冷静さを取り戻そうとする。そんな中、心配して病院を訪れた母と対面した、恋人の拓。結婚の話になることは避けられず……!?

〈次回は3月27日頃に更新予定です。〉

プロフィール

中澤日菜子(なかざわ・ひなこ)

1969年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。2013年『お父さんと伊藤さん』で小説家デビュー。同作品は2016年に映画化。他の著書に、ドラマ化された『PTAグランパ!』、『星球』『お願いおむらいす』などがある。

<中澤日菜子の「ブラックどんまい!」連載記事一覧はこちらから>

初出:P+D MAGAZINE(2020/03/20)

秋山武雄『東京懐かし写真帖』/子どもの頃を思い出す、古き良き下町風景
これを読めば手紙の名手になれる! 往復書簡からなる書簡体小説5選