「大麻パーティーには行ったけど吸ってない」? 聖人が語った、本当の思いに驚愕!  【連載お仕事小説・第27回】ブラックどんまい! わたし仕事に本気です

燃えるお仕事スピリットが詰まった好評連載、第27回。主人公の七菜(なな)は、いつも仕事に全力投球! パーティーに行ったが“吸ってない”と証言した朱音の息子・聖人。本当にやりたかったことを隠し、母に言われるがままの人生を送ってきた聖人だが、今回の事件を期に、本当の気持ちを初めて打ち明けることに。それを聞いた朱音は……。

 

【前回までのあらすじ】

ドラマの放送中止を朱音に伝えにいかなくてはいけない七菜は、追い詰められ、逃げ出したい思いだった。テレビ局よりも先に朱音に放送中止の事実を伝えたかった七菜は、勇気を振り絞り朱音に話しかけようとした。そんなとき、今回の放送中止事件の当事者である朱音の息子・聖人が現れた……!

 

【今回のあらすじ】

大麻パーティーに行ったが“吸ってない”と証言した聖人は、本当にやりたかったことを隠し、母である朱音に言われるがままの人生を送ってきた。本当の気持ちを初めて聞いた朱音は、ずるずると床に崩れ落ちてしまい……!?

 

【登場人物】

時崎七菜(ときざき なな):テレビドラマ制作会社「アッシュ」のAP(アシスタントプロデューサー)、31歳。広島県出身。24歳で上京してから無我夢中で走り続け、多忙な日々を送っている。

板倉頼子(いたくら よりこ):七菜の勤める制作会社の上司。チーフプロデューサー。包容力があり、腕によりをかけたロケ飯が業界でも名物。

小岩井あすか(こいわい あすか):撮影が進行中のテレビドラマの主演女優。

橘一輝(たちばな いっき):撮影が進行中のテレビドラマの主演俳優。

佐野李生(さの りお):七菜の後輩のAP。26歳で勤務3年目。

平大基(たいら だいき):七菜の後輩のAP。今年4月入社予定の22歳の新人。

野川愛理(のがわ あいり):メイクチーフ。撮影スタッフで一番七菜と親しい。

佐々木拓(ささき たく):七菜の恋人。大手食品メーカーの総務部に勤めている。

上条朱音(かみじょう あかね):ドラマ『半熟たまご』の原作者。数々のベストセラーを持つ小説界の重鎮。教育評論家としても名高い。

岩見耕平(いわみ こうへい):チーフプロデューサー。七菜の上司。

 

【本編はこちらから!】

 

 聖人の全身を覆っていた靄のようなものが消え、輪郭が存在が周囲の風景から際立って見える。いつもならおどおどとここではないどこかを彷徨さまよっているような目に、静かだが強い光が宿っていた。
「い、行ったの? ほんとうに?」
 舌を縺れさせながら朱音が問う。聖人が静かに頷いた。朱音が縋るように言う。
「で、でも吸ってはいないんでしょう?」
「吸ってない。周りのみんなは吸っていた。ぼくもすすめられた。でも──ぼくには吸う勇気がなかった。かと言って止める勇気も、逃げ出す勇気もなかった。なにもないんだ、ぼくには」
 朱音の目が驚きのあまり限界まで見開かれる。七菜はぼう然としたままふたりのやり取りに聞き入る。
「どうして? なにかあったの、仕事やプライベートで」
 朱音が聖人の肩に手をかけ、強く揺さぶる。聖人が強いちからで朱音の手を振り払った。反動で朱音がよろめく。
「──その逆だよ、母さん。いまも言ったろう。なにもない……なにもないんだ、ぼくには」
「どういうことよ」
 聖人がまっすぐに朱音を見つめた。
「……母さん。ぼくはNPOの仕事なんか、まったく興味がない。むしろ嫌だった。やりたくなかった」
 朱音のくちびるがじょじょに開いてゆく。顔から赤みが引いていった。聖人がゆっくりと、けれども決然とした口調でつづける。
「ぼくはほんとうは画家になりたかった。絵を描いて生きていきたかった。だけど──母さんはぼくのことばに耳を貸してはくれなかった。いやそれどころかずっと否定しつづけたよね『あなたには無理だ。プロになんかなれっこない』と」
「だ、だってそれは」
「プロの世界がどれだけ厳しいものか、それくらいぼくにだってわかる。でも挑戦してみたかった。ぼくはね母さん──母さんや時崎さんのようにものを作る人間になりたかった。いや、なりたいんだ」
 ひと息に言い、ちらりと七菜に視線を投げる。七菜はただ黙ってその視線を受け止めることしかできない。
 朱音が空気を求める魚のように、ぱくぱくと口を開け閉めする。
「だってまあちゃん、いままでひと言もそんなこと言わなかったじゃない。いつも素直に母さんの言うことをきいて」
 聖人の顔が苦しげに歪む。視線を七菜から外して床に落とす。
「……逆らえなかった。言うことを聞くしかなかった。それほどまでに母さんはぼくにとって絶対的な存在だった。でも……それはたんなる言い訳だ。ぼくはただ逃げてただけなんだ。母さんと正面から向き合うのが怖くて。それに──」
 いったん口を閉じ、朱音によく似たくちびるを舌で舐めた。ややあってから、ふたたび朱音と正面から向き合う。
「──失望させたくなかったんだ、母さんを。苦労してぼくを育ててくれた母さん、強引だけどいつもぼくを守ってくれた母さんのことを思うと……どうしても、言えなかった……」
 語尾が掠れ、震える。朱音は木偶のように突っ立ったまま微動だにしない。
「でも結局、いちばん最悪のかたちでぼくは母さんを失望させてしまった。いや、失望どころじゃないね……母さんを、母さんを信じてくれているすべてのひとを裏切り、傷つけてしまった……」
 聖人の瞳が揺れる。先ほどまでの射るような光が消え、いつもの、見慣れた聖人の目が戻ってくる。
「ごめん、母さん……ぼくはやっぱりだめな息子だ……」
 聖人が両手で顔を覆う。上半身が小刻みに震えだす。やがてその震えが全身へと波のように伝わってゆく。朱音の顔は白を通り越してもはや青い。戦慄わななく聖人を見つめたまま、朱音が口を開いた。
「……そんなことを……まあちゃんが考えていたなんて……」
 ぐらり。朱音のからだが揺らいだ。七菜はあわてて駆け寄り、朱音のからだを抱きとめる。
「先生!」
 だが朱音は七菜を一顧だにしない。そこにいることすら忘れているかのようだ。
「三十年……三十年間、あたしはいったいなにを見てきたんだろう……」
 朱音の膝が割れる。なんとか支えようと足を踏ん張るが、ちからの抜けきった朱音のからだは重く、ずるずると床に崩れ落ちてゆく。つられて七菜もぺたんと床に尻もちをついた。
 震えの止まらぬ聖人。表情がいっさい消えた朱音。
 七菜には目の前の光景が現実のものだとは思えない。混乱しきった頭で、ただひたすらふたりを交互に見やる。
 電話が鳴りだした。
 静寂が支配する応接間の空気を掻き乱すように電話は鳴りつづける。
 執拗に鳴って鳴りつづけて──やがてかかってきたときと同じように唐突に電話は切れた。
 重い固い沈黙がふたたび部屋を満たす。
 憔悴しきったふたりを見ていることに耐えられず、七菜は視線を引き剥がす。そのまま見るともなく部屋に這わせた。ドアの横に掛けられた聖人の絵が目に入る。静かな湖畔から生命力溢れる街中へと、歪み、渦巻き、変貌する世界。繊細さと猥雑さの、奇妙だけれども確かな融合。
 ふと七菜は思う。
 これは聖人自身なのか。ふたつに引き裂かれ分断され、それでもなおひとつの自我で在ろうと必死でもがく聖人自身のこころなのか──
 七菜は振り返ってそっと聖人を見る。
 華奢で女性的な薄い背中。以前会ったときより、さらに痩せたように思える。肩まで届く黒髪はかさつき、緩くかかっていたパーマは伸び切り、乱れ放題に乱れている。
 七菜は静かに首を振る。
 いまここで、あたしにできることはなにもない。帰ろう。ここにいてもなんの意味もない──
 ふらつく足を踏みしめ、七菜はゆっくりと立ち上がる。バッグを肩にかけ直し、朱音と聖人に向かって深く一礼してから踵を返した。
 気配に気づいたのだろう、聖人が顔を上げ、七菜を見た。表情がみるみるうちに歪み、崩れる。
「……時崎さん、ごめん……ほんとうに……申し訳ない……」
 両手を膝に置き、聖人が深く腰を折る。
 対面に座り込む朱音がゆっくりと視線を七菜にあてた。双眸そうぼうからは光がせ、森の奥の淀んだ沼のような闇が宿っている。朱音のくちびるがかすかに動く。声にならぬつぶやきを七菜は読み取る。
 ──ごめんなさい──
 あの朱音が謝るとは。しかもあたしに向かって。
 一瞬、驚きがよぎるが、泡粒のように弾けて消えた。
 ちからなく首を振ってから、七菜はドアノブに手をかける。
 いまさら謝られても、なにになるというのだ。すべては終わってしまった。
 もう取り戻すことはできない。
 廊下に出、静かにドアを閉める。
 遺跡に残る崩れかけた彫像のようなふたりのすがたが逆光のなかに浮かび上がって、消えた。

 

【次回予告】

朱音の事務所をあとにした七菜は、取引先へ謝罪に行くため都内をかけずり回っていた。精神的にもすり減った七菜のもとにメイクチーフの愛理から連絡があり、会うことに。七菜が愛理に打ち明けた衝撃的な胸の内とは……!?

〈次回は7月24日頃に更新予定です。〉

プロフィール

中澤日菜子(なかざわ・ひなこ)

1969年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。2013年『お父さんと伊藤さん』で小説家デビュー。同作品は2016年に映画化。他の著書に、ドラマ化された『PTAグランパ!』、『星球』『お願いおむらいす』などがある。

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初出:P+D MAGAZINE(2020/07/17)

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