〈第20回〉加藤実秋「警視庁レッドリスト」

失踪していた中森と会った慎は、
みひろを呼び出す。

CASE5 野望と陰謀:左遷バディ、最後の調査(2)


 2

 天井のスピーカーから、午後五時を告げるチャイムが流れた。みひろは抱えていた段ボール箱を別の段ボール箱の上に載せた。息をついて手の埃(ほこり)を払い、室内を見回す。

 今朝「今後のことは、また知らせるから」と言った豆田益男(まめだますお)は、あれきり姿を現さなかった。気持ちが落ち着かず、パソコンに触れる気にもなれなかったので、ずっと自分の机と窓の前に積まれた荷物の片付けをしていた。ただし窓の前の荷物はゴミかゴミでないかの見分けが付かないものばかりなので、置き場所を変えただけだ。

 バッグを持ってエアコンと電気を消し、職場環境改善推進室を出た。廊下を進み、エレベーターで一階に降り、職員の通用口から外に出た。エレベーターも通用口も退庁する職員で混んでいたが視線や防犯カメラが気になり、きょろきょろしてしまった。

 傘を差して内堀(うちぼり)通りを歩き始めて間もなく、ジャケットのポケットでスマホが鳴った。取り出して見た画面には、覚えのない番号が表示されている。みひろは怪訝(けげん)に思いながら歩道の端に寄り、スマホを耳に当てた。

「はい」

「阿久津です」

「し」

 室長と言いかけて慌ててやめ、みひろは周囲を見回した。慎が言う。

「今、内堀通りに出たところですか? では、本庁から離れて」

 なんでわかるのよ。まあ、ほとんど毎日五時きっかりに退庁してるから、察しが付くんだろうけど。みひろは早歩きで内堀通りを西に進んだ。国会議事堂の前の交差点を渡り、本部庁舎が見えなくなったところで足を止める。

「言うとおりにしました。休暇を取ったって聞きましたけど、大丈夫ですか?」

「『大丈夫』の解釈に迷いますが、健康面を指しているならイエスです」

「私も話したいと思ってました。気になるものを見ちゃって。伊丹さんが使っていた、フリーメールの下書きフォルダなんですけど」

 みひろは早口の小声で訴えた。「下書きフォルダ?」と問うた慎は一旦口をつぐみ、改めて言った。

「三雲さん。僕の寮に来て下さい。お願いしたい買い物もありますので」

「買い物? なんですか?」

「その前に謝罪します。一昨晩、堤(つつみ)のアパート前での会話についてです。僕の発言に過誤はありませんが、主観的表現に一部自省を必要とする箇所が認められました」

「……早い話が、『言い過ぎた』ってことですか?」

「そう受け取っていただいて構いません」

 なんで素直に「すみません」って言えないのよ。癪(しゃく)に障(さわ)るが、それどころではない。みひろは傾きかけていた傘を立て直した。

「わかりました。買い物って?」

「ノートパソコンを一台。メーカーやスペックはお任せしますが、支払いはキャッシュで。移動はタクシーを使って下さい」

「給料日前でお金がないんですけど。財布に七千円、銀行にも二万円ちょっとしか」

 肩にかけたバッグを覗きながら告げると、慎はため息交じりに返した。

「一度帰寮して、誰かに借金すればいいでしょう。こちらに来たら、すぐに清算します」

「あ、そうか。ついでに服も借りて変装しましょうか? 室長は見張られてるんですよね? 私が訪ねて行ったら、疑われるかも」

 背中を丸め、さらに声を潜めて訊ねたみひろに、慎は即答した。

「必要ありません。自分の私服で来て下さい」

「でも」

 言いかけたみひろを遮り、慎は続けた。

「三雲さんの場合、私服がほぼ変装です。意味がわからなければ説明しますが、またの機会に。他に質問は?」

「いえ」

 勢いに圧(お)されて答えた。

「結構。では、迅速かつ慎重に行動を開始して下さい」

 3

 言われた通りに一度帰寮し、私服に着替えて友だちや先輩からお金を借りて外出した。タクシーをつかまえ、渋谷(しぶや)の家電量販店でノートパソコンを買って再びタクシーに乗った。

 慎が暮らす寮は、港区の麻布十番(あざぶじゅうばん)にあった。十八階のタワーマンションの十七階だ。 

みひろはタクシーを降り、雨のなか歩道を横切って寮の敷地に進んだ。通りには車が数台停まっていたが、敢(あ)えて目を向けずにガラスのドアから寮の玄関に入る。オートロックのパネルがあったので、慎の部屋番号とインターフォンのボタンを押した。すぐに慎が応え、エントランスに通じるドアを開けてくれた。

 エレベーターで十七階に上がり、教えられた部屋のチャイムを押すとドアが開き、慎が顔を出した。

「お見事」

 慎が言った。片手でドアハンドルを摑み、メガネ越しの視線をみひろの全身に走らせている。つられて、みひろも自分の体を見下ろした。

 トップスは、前身頃と両袖に赤い染料を血しぶきを浴びたように散らした白い長袖Tシャツ。ボトムスは裾がアシンメトリーな赤いタータンチェックのミニスカートと、ところどころ穴の開いた加工がほどこされた黒いレギンス。加えて、顔にはオーバル型でフレームの黄色い大きなサングラスをかけている。

「なにがですか?」

 意味がわからずサングラスを外しながら問うと、慎は「独り言です。どうぞ」とみひろを室内に招き入れた。慎は、シンプルだが仕立てのよさそうなシャツにスラックス姿だ。

 慎の後から廊下を進み、居間に入った。フローリングで広々として、天井も高い。

「さすが幹部用宿舎。ここって1LDKですか? まだ新しいし、いいなあ」

 みひろは視線を巡らせ、室内をうろついた。ベランダに通じる掃き出し窓にはカーテンが引かれているが、眺望も抜群だろう。午後七時近くなり、雨のせいもあって外は暗い。

「築三十年近いし、新しくもないですよ」

 隣接するキッチンから、両手にペットボトルの緑茶を持った慎が出て来た。ローテーブルに緑茶を置き、ソファに座る。ソファは白い革張りで、ローテーブルは黒いガラス製。他の家具もモノトーンを基調としたモダンスタイルで、いかにも慎らしい。 

「でも、私が住んでる世田谷(せたがや)の寮なんて築五十年以上経(た)ってますよ。リフォームしたって言うけど、エアコンは効かないしトイレはすぐ詰まるし」

 ボヤいていると、慎が手を差し出した。みひろはソファに向かい、提げていた家電量販店の紙袋を慎に渡した。慎は紙袋からノートパソコンの箱を出し、みひろは向かいのソファに座った。それから、みひろは今朝堤和馬(かずま)が職場環境改善推進室を訪ねて来てからの流れを伝え、慎はノートパソコンをセッティングしながらそれを聞いた。

 三十分ほどしてみひろが話し終えると、慎は言った。

「仲間内でユーザーアカウントとパスワードを共有し、作成したメールを下書きフォルダに保存して閲覧し合う。Uh-huhメールはどこからでもチェックできるし、送信しなければ第三者に傍受される恐れはない。元CIAの長官が不倫相手の女性と連絡を取り合う際に使い有名になった手法で、テロ組織などもこの手法を用いていたと聞いています。しかし十年近く前の話で、今さらというか時代錯誤というか。まあ、伊丹や持井さんの年齢を考えれば、さもありなんという気もしますが」

 冷ややかに言葉を締め、ペットボトルの緑茶を取って口に運ぶ。その間ももう片方の手は、ローテーブルの上のノートパソコンを操作している。まだセッティング中だがネット接続は済んでいるようで、ノートパソコンの脇には黒いスマホが置かれていた。いつも慎が使っているものとは違うので、さっきはこのスマホで電話をしてきたのだろう。

「そうだったんですか。めちゃくちゃ焦りましたよ。あの下書きの内容、何なんでしょうね。沢渡暁生(さわたりあきお)さんは、『画期的でセンセーショナルな計画』『人員の有効利用』って書いてましたけど」

 敢えて沢渡暁生の名前を出して問いかけてみたが、慎は液晶ディスプレイを見たまま無表情に「さあ」とだけ答えた。流れを伝えた際、沢渡のメールについて触れても、慎はノーリアクションだった。

「とにかく、買い物と情報提供をありがとうございました。いま、代金を払います」

 ペットボトルをローテーブルに戻し、慎は立ち上がった。口元にはいつもの笑み。みひろは返した。

「用は済んだから帰れって言いたいんでしょうけど、そうはいきませんよ。この後、伊丹さんたちの下書きフォルダを調べるんでしょ? でも私、まだユーザーアカウントもパスワードも教えていませんよ」

「三雲さん。一昨晩『僕たちはお終いですね』と言ったのは、あなたを巻き込みたくないからです。職場環境改善推進室は間もなく閉鎖され、あなたも赤文字リスト入りは避けられません。今後も警視庁に勤務するつもりなら、これ以上僕に関わらない方がいい」

「今さら? 伊丹さんのメールにログインした時点で、私はハッキング犯ですよ。赤文字リスト入りどころか、刑務所送りだわ」

 そう捲(まく)し立て、みひろはソファにふんぞり返って脚を組んだ。慎はわざとらしくため息をつき、前髪を搔(か)き上げた。

「確かに三雲さんの行為は、不正アクセス行為の禁止等に関する法律、通称・不正アクセス禁止法に抵触します。しかし、他人のメールにログインした程度で刑務所送りにはなりません。せいぜい――」

「なんでもいいけど、私も一緒に下書きフォルダを調べます。OKしない限りここを動かないし、ユーザーアカウントとパスワードも教えませんから」

 そう宣言し、みひろは脇に置いたボール形の黒革のバッグを引き寄せて開けた。中から袋入りのパンを二つ取り出し、ばん、とローテーブルに載せた。ここに来る途中で買ったものだ。

「『しみ旨フレンチトースト』と『焼きそばドッグ』ですか。コンビニパンの鉄板ですね。念のため訊きますが、僕の分は」

「ありません!」

 嚙(か)みつくように言い返し、みひろはローテーブルの上の袋を取って封を開け、焼きそばドッグにかぶりついた。

  しばし無言でみひろを見てから、慎は頷いた。

「わかりました。二人でやりましょう。ただし、何か気づいたらすぐに言って下さい。独断は禁止」

「了解です。じゃあ、室長も知っていることを教えて下さい」

 焼きそばドッグを食べながらみひろが言うと、慎は胸の前で腕を組んで顎を上げ、「いいでしょう」と応えてソファに戻った。

 


「警視庁レッドリスト」連載アーカイヴ

 

加藤実秋(かとう・みあき)
1966年東京都生まれ。2003年「インディゴの夜」で第10回創元推理短編賞を受賞し、デビュー。『インディゴの夜』はシリーズ化、ドラマ化され、ベストセラーとなる。ほかにも、『モップガール』シリーズ、『アー・ユー・テディ?』シリーズ、『メゾン・ド・ポリス』シリーズなどドラマ化作多数。近著に、『渋谷スクランブルデイズ インディゴ・イヴ』、『メゾン・ド・ポリス5 退職刑事と迷宮入り事件』がある。
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