〈第2回〉加藤実秋「警視庁レッドリスト」
身内の警察官を調査する
新部署での仕事がはじまる。
その後、古屋の案内で一階の交通課に移動した。日本橋署の交通課は交通安全運動や運転免許事務、車庫証明、道路使用許可などを行う交通総務係、交通取り締まりを行う交通指導係、交通事故を捜査する交通捜査係に分かれている。
署の玄関を入ってすぐの場所に、交通総務係の運転免許更新とその他の業務のためのカウンターがあり、係員が大勢の市民に応対していた。係員はカウンターの奥にもいて、総勢十名といったところか。半数が女性で、男性は四十代、五十代が多い。
会議室の一つを借り、交通総務係の係員から順番に話を聞いた。ディテールに違いはあるが、返ってくる答えは「仕事は地味だが、責任とやり甲斐を感じる」「ベテランが多く、アットホームな雰囲気で働きやすい」「強いて不満を言うなら、女性が多いので結婚などで人の出入りが多く、引き継ぎや指導が大変」といった当たり障りのないものばかりだった。予想はついていたし、調査対象の職員以外への面談は形だけとわかっていても、みひろはつい「そうは言っても」と本音を聞き出したくなり、ぐっと堪えた。
黒須文明巡査部長が会議室に入って来たのは、聞き取りを始めて四十分ほど経った頃だった。
「どうぞお座り下さい」
慎に促され、黒須はパイプ椅子を引いて長机の向かいに座った。いよいよだ。慎の隣でみひろが気を引き締めると、黒須がちらりとこちらを見た。中背だががっちりした体格で、日焼けしている。
「黒須さんは、平成十五年に警視庁に入庁。卒業配置で北千住(きたせんじゅ)署地域課に配属。三年後に巡査部長を任じられ、以後会計課、警務課と主に事務方の業務についていらっしゃいますね。仕事は正確で丁寧、人柄も快活かつ堅実と伺っています。素晴らしいですね」
手にしたファイルに目を落とし、慎は面談を始めた。黒須は鼻が高くエラが張り気味の鋭角的な顔をこちらに向け、「ありがとうございます」と応えた。みひろも同じファイルを手にし、黒須の身上調査票のページを開いている。
身上調査票には氏名、住所などのほか異動と賞罰歴、警察学校での成績順位や拳銃操作法、逮捕術等の級位、家族構成や交際相手の有無、預金・借金の額、保有車両の種類、飲酒喫煙の状況、果てはSNSの利用状況まで記載されている。これによると黒須は、二十年ローンで江東(こうとう)区の東陽町(とうようちょう)に買ったマンションで三歳年下の妻と中学一年生の長女、小学四年生の長男と暮らし、趣味は野球。地元の草野球チームでは、副キャプテンをつとめている。賞罰ともに記録はなく、成績と級位は中の上。つまり目立った問題はないが、特筆すべき実績もない。この状態を、「正確で丁寧」「快活かつ堅実」と言い換えるのか。みひろが感心していると、慎は質問を始めた。
「現在は、交通安全運動の企画を担当されていますね。いかがですか? ここで伺ったことは外部には漏らしませんので、忌憚のない意見をおっしゃって下さい」
「高齢の運転者への対応ですね。事故の発生数などを考えると、完全に後手に回っていると思います。免許の返納を呼びかけるだけでなく、定年制の導入も視野に入れるべきではないでしょうか」
これまた当たり障りのない内容だが、語り口調は堂々としている。
「なるほど。では、職場についてはどうでしょう。女性と先輩に囲まれて、居心地が良いような悪いようなといった印象ですが」
慎がさらに問う。真顔だが、最後のワンフレーズは冗談めかしている。素早く反応し、黒須は「確かに」と頰を緩めた。唇の薄い口元から、白い歯が覗く。
「頼りにされる時とスルーされる時の差が大きいですね。でも家でもそういう扱いなので、もう慣れました」
家の話が出た。自分の出番だ。そう閃き、みひろも口を開いた。
「事務方とはいえ、警察官は特殊な職業です。ご家族の反応はいかがですか?」
「警察の家族寮にいた頃は妻がご近所付き合いに苦労していたようですが、今の家に越してからは楽しくやっています。妻とは幼なじみで僕が子どもの頃から警察官に憧れていたのを知っているので、応援してくれています」
「いいですね。素敵な奥様じゃないですか」
「ええ。感謝しています」
照れたり謙遜したりする様子はなく、黒須は即答した。笑顔もキープしたままだが、くっきりした二重の大きな目がこちらの顔、スーツのジャケットを着た胸、また顔と素早く動く。嫌悪感を覚え、みひろはとっさに開いたファイルを胸の前に持ち上げた。
黒須一人に時間をかけると怪しまれるので、そろそろ切り上げなくてはならない。最後にもう一つと、みひろは問いかけた。
「困ったり悩んだりしていることはありませんか? 職務や私生活に変化があった、でも構いません」
「腹回りの贅肉が落ちにくくなったことぐらいですね。とくにありません」
制服の上からお腹をさすって答え、最後に真顔に戻る。
「そうですか。わかりました」
みひろは返し、慎に目配せをした。「ありがとうございました。調査にはしばらくかかるので、追加でお話を聞かせていただくかもしれません」と慎が告げると黒須は「わかりました。お疲れ様です」と一礼し、会議室を出て行った。
次に五十代の男性の話を聞き、その次は二十代の女性だった。小柄で細身、長い髪を後ろで無造作に束ねている。慎が「お座り下さい」と言うと、正面ではなくドアに近い位置の椅子に座った。
「星井愛実(ほしいまなみ)巡査。平成二十八年入庁、二十四歳。仕事に慣れて、警察や警察官というものがわかって来た時期ですね。貴重な意見が聞けそうで楽しみです」
慎は微笑みかけたが、星井は「いえ、そんな」と目を伏せて固い動きで首を横に振った。小作りの整った顔立ちで、メイクに気合いを入れたら別人のような華やかな美女になりそうだ。
「担当は、運転免許更新の窓口業務ですか。いろいろな方が来るから、大変でしょう」
星井がかなり緊張している様子なので、ここは女同士、とみひろは語りかけた。しかし星井は視線を落としたまま、さらに固い動きで首を横に振った。
「いえ。仕事ですから」
そう言われると、話が終わっちゃうんだけど。心の中で突っ込み、みひろは向かいを眺めた。身を縮めて俯きながらも、星井はピンクベージュのグロスを塗った唇を擦りあわせるように絶えず前後に動かしている。
緊張っていうより、焦って怯えてる? そう感じ、みひろは横目で隣を見た。慎は前を向いたまま無表情。しかしその後星井に投げかけた質問は、他の係員に対してのものよりさらに当たり障りのないものだった。みひろ同様なにかを感じ、星井に警戒されないようにしたのだろう。豆田に渡された資料によると、黒須の不倫相手はこの星井巡査だ。
昼過ぎには面談を終え、日本橋署を出た。車に乗り込み署から離れたのを確認し、みひろは話しかけた。
「星井巡査は、わかりやすく挙動不審でしたね。隠し事か悩み事があるのは確実です」
「ええ。同感です」
ハンドルを握りながら、慎も言う。みひろは続けた。
「黒須巡査部長は押し出しがいいっていうか、同性のウケはよさそうですね。でもちょっとギラついたところがあって、女性は好き嫌いが分かれるタイプかな」
「そうですか。僕も体育会系のノリだなとは思いました」
「あとは奥さんの話題に対しての反応が、ちょっとわざとらしかった気がします」
「と言うと?」
「カスタマーセンターのオペレーター時代に、『旦那の口癖が〈嫁さん一筋〉だったから安心してたら、ずっと愛人がいた』って女性の相談に乗りました。人間って、後ろめたかったり隠したかったりすることほど強調しちゃうんですよね」
「なるほど。僕も監察係で、浮気をしていながら外では奥さんの自慢や愛妻家のアピールをしていた男性職員の事案を担当したことがあります。三雲さん、すごいですね」
こちらに目を向け、慎が微笑む。しかし「すごいですね」という発言に「思ったより」「予想外に」のニュアンスを感じ取り、みひろは釈然としない気持ちになる。それでも「ありがとうございます」と返すと、慎は視線を前に戻した。
「明日から行動確認を始めましょう。星井巡査は警戒心が強くなっているようなので気をつけて下さい。それと、内通者にも注意が必要です」
「内通者?」
「内部通報者。密告またはタレコミとも言いますが。今回の調査は職場改善ホットラインへの、『日本橋署の黒須巡査部長は星井巡査と不倫している』という電話がきっかけです。非違事案のほとんどが、警察内部からの通報で発覚するというのは知っているでしょう?」
「ええまあ」
知ってはいたし、その手の電話を受けたこともある。しかし元の職場が密告の窓口扱いされたようで不愉快になり、みひろは曖昧に答えた。
「今回は匿名でしたが、内通者は女性で電話の発信元は日本橋署の近くの公衆電話です。恐らく交通総務係の係員の誰かですが、当然その人物にも我々の目的を知られてはなりません。くれぐれも慎重に行動して下さい」
前を向いたまま、慎が告げる。その滑舌よくてきぱきした口調と使命感に燃えた眼差しに、みひろはさらにもやもやし、不愉快さが増すのも感じた。しかし口に出すのははばかられ、
「はい」
とだけ答えて膝に載せたバッグを両手で抱えた。