〈第1回〉加藤実秋「警視庁レッドリスト2」

警視庁レッドリスト2

発売即重版の新・警察小説!
待望の続編スタート!!

CASE1 シークレット・ガーデン :  男社会の女の園(1)


 

 1

 息を殺し、阿久津慎(あくつしん)は向かいを見つめた。

 体の前に両手でファイティングポーズを作った男が、じりじりと間合いを詰めて来る。男は無表情だが、全身から殺気を漂わせていた。

 このままではやられる。そう判断し、慎は両手を伸ばして男の襟と袖の下を掴んだ。同時に右足を上げ、男の左足首を蹴り上げようとした。が、一瞬早く男は左足を後ろに引き、慎の右足首を外側から蹴った。続いて両手で慎の襟と袖を掴み、右横にひねる。バランスを崩し、慎は男に右手を掴まれたまま仰向けで倒れた。視界がぐるりと半回転し、背中と腰に衝撃が走る。

「一本!」

 傍らで声が上がり、男は慎の右手を放した。だが衝撃の大きさで、慎は身動きできない。男がその場を離れ、入れ替わりでひたひたという足音が近づいて来た。

「室長。大丈夫ですか?」

 そう問いかける声がして、視界に女の顔が現れた。三雲(みくも)みひろだ。近視と乱視のせいでピンボケ状態だが、ライトグレーのスカートスーツを着ているのがわかる。

「ええ。問題ありません」

 答えている間に冷静さを取り戻し、手足の感覚も戻った。慎はみひろが差し出した手をジェスチャーで断り、代わりに「メガネを」と告げて体を起こした。

「秒殺でしたね。でも、落ち込むことないですよ。明らかに勝ち目ゼロな相手に、攻めの姿勢を見せたのは立派です」

 メガネを差し出し、みひろが言う。その視線は慎が身につけている柔道着に向けられている。

 励ましのつもりだろうが、なぜ上から目線。呆れたが無視し、慎はメガネをかけて髪の乱れを整えた。ピントが合った視界に、畳敷きの広い道場と、その奥で立ち話をしている柔道着姿の数人の男が映る。男の一人は、ほんの少し前に慎を倒した若者だ。

「稲葉巡査部長はシロですね」

 自分を倒した男を見て、慎は告げた。大柄でがっちりとして、髪は五分刈り。その耳は、遠目に見てもわかるほど変形している。いわゆる「餃子耳」だ。みひろも稲葉に目を向け、潜めた声で問いかけた。

「でも聞き取り調査に非協力的だったし、同僚や後輩も『毎晩飲み歩いてる』『しょっちゅう飲み屋に呼び出される』と言う人が多かったですよね」

「性格及び嗜好の範囲内ですね。飲酒行動が職務に支障を来したという事実は確認できませんでしたし、アルコール依存症の患者は、あんなに見事な燕返を決められません」

「燕返? ああ、今の技ですか……そんな判断ができるほど、室長は柔道に詳しいんですか? 秒殺を、『相手が強すぎた』でチャラにしようとしてる気が」

 独り言めかしたみひろの突っ込みを、慎は「内通の記録を」と命じて遮った。「はい」と応え、みひろは肩にかけた黒革のバッグを下ろした。小柄で童顔。厚めの前髪を眉の上で切り揃えたショートボブのヘアスタイルも相まって、二十七歳という年齢よりずっと若く、というより幼く見える。

 稲葉進巡査部長は、二十八歳。柔道四段で、高校時代にはインターハイで準優勝している。警視庁入庁後は機動隊に所属しながら柔道、剣道などの武道に秀でた職員が選抜される武道専科の試験に合格。一年間の訓練を受けた後、助教の職階を任じられ、武術指導者として先日ここ、渋谷東署に配属された。現在は署員に稽古を付ける傍ら、署が主催する子ども向けの柔道教室で指導している。

 しばらくバッグの中を引っかき回した後、みひろは「どうぞ」と一枚の書類を差し出した。受け取った慎が目を通したのは、警視庁職員のための悩みや苦情の窓口「職場改善ホットライン」に寄せられた内部通報、略して内通の電話の内容を書き起こしたものだ。内通者は男性で、氏名や所属部署などは明かさなかったが「渋谷東署の稲葉進巡査部長はアルコール依存症だ。本人は隠しているが、稽古に支障を来している」と話したという。

「ここに『キンジュウ』『まわす』『もっていかれる』とありますね。どれも柔道の世界の隠語で、キンジュウは『近代柔道』という柔道の専門誌の誌名。まわすは、稽古でのいわゆるしごき行為、もっていかれるは、ケガをしたり試合で負けることを指します」

 言いながら、慎は書き起こしの文面を指した。みひろも脇から覗き、ふんふんと頷く。

「よく知ってますね」

「僕も警察学校の術科では、柔道を選択しましたから。あとは同期に柔道経験者がいて、『柔道あるある』的な話を聞かされたんです」

「ふうん。じゃあ、内通したのも柔道経験者?」

「と言うより、武道専科の関係者でしょう。稲葉進巡査部長はこの春、助教に任ぜられたんですよね」

 閃くものがあり、慎はみひろに書類を返して歩きだした。稽古を重ねて柔らかくなった青い畳を踏んで道場を横切り、稲葉のもとに向かう。

「突然のお願いにもかかわらず、稽古を付けていただきありがとうございました。完璧な燕返でしたね」

 一礼して語りかけると、稲葉は振り返って「恐縮です」と礼を返した。周りの男たちも一礼する。彼らにもさっき聞き取り調査を行ったが全員巡査部長で、階級は警部の慎より二つ下だ。

 


「警視庁レッドリスト」シリーズ連載アーカイヴ

 

加藤実秋(かとう・みあき)
1966年東京都生まれ。2003年「インディゴの夜」で第10回創元推理短編賞を受賞し、デビュー。『インディゴの夜』はシリーズ化、ドラマ化され、ベストセラーとなる。ほかにも、『モップガール』シリーズ、『アー・ユー・テディ?』シリーズ、『メゾン・ド・ポリス』シリーズなどドラマ化作多数。近著に、『渋谷スクランブルデイズ インディゴ・イヴ』、『メゾン・ド・ポリス5 退職刑事と迷宮入り事件』がある。
特別対談 松浦弥太郎 × イモトアヤコ[第2回]
◎編集者コラム◎ 『鴨川食堂ごちそう』柏井 壽