〈第7回〉加藤実秋「警視庁レッドリスト2」
不適切な異性交際との内通があった。
「いえ。サンドイッチで」
慎とみひろに声を揃えて返され、生田は面食らったような顔になった。
「カレーじゃなく、サンドイッチですか?」
「はい」
また声を揃えて返され、生田は「わかりました」と答えて歩きだしたが、釈然としない様子だ。
カレーについて訊ね、「おいしそう」とまで言っておきながら注文しなかったのだから、無理もない。しかし名物やお勧めがなんであろうと、メニューにパンがあれば注文する。慎とみひろにとっては当然のチョイスだ。
間もなくミニサラダが運ばれて来て、続いてサンドイッチが来た。やや小ぶりで具も少なめだが、具はハム、チーズ、卵とバラエティーに富んでいて、フルーツサンドが一切れあったのも嬉しかった。
慎ともども黙々とサンドイッチを完食し、食後のコーヒーを飲んでいると、席の脇の通路を生田が通りかかった。慎は紙ナプキンで口を拭い、素早く店内を見回して、「すみません」と声をかけた。サラリーマン二人組が店を出て、初老の男性は店主と話し続けている。足を止め、「はい」と振り向いた生田に、慎は警察手帳を見せた。
「警視庁の阿久津です。こちらは三雲。町田北署の水野巡査について、お話を伺わせて下さい」
生田は戸惑った様子で後ろのカウンターに目を向けてから、「はい。でも、呼ばれた時に話しましたけど」と答えた。
「度々恐縮ですが、念のため。水野巡査とは、三月に交通事故の現場で会うまで面識はなかったんですか? こちらには、寮に入居している警察官がよく来ると聞いています」
「ええ。でも水野さんとは、事故の時初めて会いました」
「免許を取って三カ月も経たずに事故では、さぞかし焦ったし不安にもなったでしょうね」
「そうなんです。警察に報せたのはいいけど、手が震えて膝もガクガクしちゃって。そうしたら水野さんが『大丈夫ですよ』と言って、もう一人の警察官の方が作業している間にいろいろ話しかけてくれたんです」
身振り手振りも交えて生田が答え、慎は微笑んで「そうですか」と頷いた。町田北署の職員がしたであろう質問とダブらないように注意し、できるだけ生田をリラックスさせようとしているのがわかった。
また「さすが」と「負けていられない」という気持ちになり、みひろも質問を始めた。
「カレーの話で盛り上がって、後日水野巡査ともう一人の警察官がこちらに来たそうですね。カレーを食べて、水野巡査の反応はどうでした?」
「『おいしいですね』と言ってくれました。でも、もう一人の方のほうが『おかわりしたい』とか『写真を撮ってもいいですか?』とかよく喋ってました。その後も同じで、私と連れの方が話して、それを水野さんが聞いてるって感じだったんですよ。だから投書とストーカーの話を聞いた時は、驚いちゃって」
後半は口調を砕けたものに変え、生田は眉根を寄せた。みひろは質問を続けた。
「夜道で後を付けられたり、自宅アパートを見張られているような気配を感じることが続いたそうですね。いつ頃からですか? 最近も感じますか?」
「三月の下旬頃からで、毎日じゃないけど最近も感じます。でも、振り向いたり窓から外を見ても誰もいないし、神経質になり過ぎているのかもしれません」
さらに眉根を寄せ、生田は俯いた。「大丈夫です」と強い声で言い、みひろは身を乗り出した。
「神経質になり過ぎかどうかは、警察が調べます。ストーカーに心当たりはないと聞いていますが、犯人について考えた時、水野巡査のことは浮かびませんでしたか? 一瞬でも浮かんでいたら、教えて下さい」
そう問いかけると、生田は首を横に振った。深く呼吸をして間を置き、
「いいえ。ないです」
と答える。みひろが「わかりました」と返すと、慎は話を変えた。
「事故の原因は、ハンドル操作のミスだそうですね」
「はい。近所に買い物に行ったんですけど、夜道を走ったのは初めてで緊張して、すごいノロノロ運転になっちゃったんです。で、後ろの車に少し間を詰められて、焦ってアクセルを踏んだらハンドルを切り損ねちゃいました」
「詰められた、というのはいわゆる煽り運転ではなく?」
慎の問いに生田は、「違います」と言って手のひらを横に振った。
「私の速度の落とし過ぎです。後ろの人は悪くないです」
「そうですか。お仕事中に申し訳ありませんでした。店主の方にも少しお話を伺いたいのですが、構いませんか?」
そう問いかけ、慎はカウンターを見た。「はい。ちょっと待って下さい」と答え、生田はカウンターに向かった。
生田が何か囁くと、店主の男性はこちらを見て会釈をした。生田と入れ替わりでカウンターを出て、こちらに近づいて来る。
「わざわざすみません。警視庁の阿久津と三雲です。店主の松尾重治さんですね。生田さんの遠縁にあたられるとか」
慎に笑顔で滑舌よく語りかけられ、松尾は頷いた。
「ええ。彩菜の父方の遠縁で、岡山の同じ町の出身です……あの、何かわかったんですか? ストーカーとか投書とか」
心配そうに訊ねた松尾に慎は、「鋭意捜査中です」と答え、さらに問うた。
「松尾さんから見て、水野巡査はいかがでしたか? 生田さんに特別な感情を抱いているように感じたことは?」
「さあ。物静かな方でしたから。でも事故の時には彩菜がお世話になったそうだし、いいお客さんだなと思っていましたよ」
「そうですか。では、ストーカーと投書についてはどうでしょう。犯人に心当たりは?」
「ないですねえ。彩菜は人気者なので、お客様に誘われたり口説かれたりすることもありますけど、私がやんわりお断りしています。何かあったら、あの子の親に顔向けできませんから。でも、ずっと付き添っている訳にもいかないし、ストーカーのことは警察に相談した方がいいと言っているんですが、気が進まないみたいで」
ため息をつき、松尾はやや太り気味な体の前で腕を組んだ。すると慎は「お気持ち、お察しします」と返し、カップに残ったコーヒーを飲み干した。
「もう結構です。サンドイッチは美味でした。とくに卵サンドの黒コショウに、スパイスへのこだわりを感じました。ごちそうさまです」
笑顔でそう続け、バッグと伝票を手に席を立つ。そのまま通路に出て、カウンターの端のレジに向かった。みひろも「ごちそうさまでした。今度はフルーツサンドを食べに来ます」と早口で告げ、慎に続いた。後ろで呆気に取られたような、「ありがとうございました」という松尾の声が聞こえた。
7
翌朝から、みひろと慎は水野の行動確認を開始した。
昨日、水野は夜勤だった。通常、夜勤の日は午後一時頃に署に行き、柔道や剣道の稽古をして午後三時半から勤務が始まる。しかし昨日はみひろたちが見たものの他にいくつかの交通事故があり、水野は呼び出されて午前中から勤務していたらしい。そして今日、昨日の事故の捜査が長引いたのか、水野が町田北署を出たのは正午近かった。
「第一当番勤務員との交替って、午前十時ですよね。二時間もオーバーしてるし、仮眠を取ってるとはいえ、昨日から二十四時間勤務しっぱなしじゃないですか。投書やストーカーより、このブラックな職場環境の方が問題だと思いますけど」
セダンのフロントガラス越しに前を見て、みひろは言った。通りの三十メートルほど先にある町田北署の裏門から、水野が出て来るところだ。ワイシャツにスラックス姿で肩にデイパックをかけ、足取りはしっかりしているがさすがに疲れた顔をしている。
第一当番とは警察用語で日勤を指し、第二当番は夜勤だ。警視庁の警察官の多くは、第一当番、第二当番、非番、休日を繰り返すという勤務形態で、休日や勤務時間外に呼び出されることも珍しくない。
エンジンをかけてセダンを出し、慎は応えた。
「ごもっともですが、それは我々の職分から外れます。加えて、警察官になったからには私より公を重んじるべきです。ちなみに公務員の非番は、文字通り『当番に非ず』という意味で、休日ではありません。また非番には通常非番と、呼び出しに備えて自宅待機が義務づけられる待機非番があり、待機非番の職員だけでは足りない場合は、通常非番の職員も呼び出されます」
「知ってますよ、それぐらい。でも、働き過ぎは働き過ぎです。しかも水野さんが住んでる寮は、マンションの3DKぐらいの部屋に他の職員二人と住むタイプで、個室はあるけどお風呂とトイレは共用。食事も他の部屋の職員と一緒に食堂で、でしょ。ほぼ全員先輩だろうし、気が休まるヒマがなさそう。もし水野さんがストーカーだとしたら、原因はストレスですよ」
「勤務形態が違うから三人が顔を揃えることは珍しいし、転勤で人の出入りが多いので、トラブルもそう多くないですよ。まあ、女性職員は自宅通勤が多いし、三雲さんのように寮暮らしでも、民間のワンルームマンションを借り上げている場合がほとんどですからね」
水野に気づかれないように間隔を空け、セダンをゆっくり走らせながら慎は返した。
なにそれ。「わかってない」、じゃなきゃ「女性職員は気楽でいいよな」ってこと? むっとしたみひろだったが、気が楽なのは確かだし、「しばらくは寮に入ってもらうけど、普通のワンルームマンションだから」と言われたのが警視庁への入庁を決めた理由の一つなので、言い返せない。