出口治明の「死ぬまで勉強」 第21回 ゲスト:ヤマザキマリ(漫画家) 「生きる」という勉強(後編)

 

■ヤマザキ「行き詰まったらさっさと逃げます。何かいけないかしら?」
■出口「逃げて捲土重来を期すのは、正しい選択だと思います」

出口 『プリニウス』に限らず、仕事をしていて行き詰まったときはどうされるんですか。
ヤマザキ 締め切りが重なったりして、「もうダメだ」と思ったら、根を詰めていてもしょうがないから、考えるのをやめてどこかに行っちゃいますね。レンタカーを借りて、伊豆や箱根の温泉に行って風呂に入って、2時間くらい寝る。それですっきりしたら、持ってきたiPadでまたガンガン仕事をします。お風呂には、行き詰まってしまったり、老廃物が蓄積してしまったりした頭の中を浄化してくれる効果があるんです。
出口 1960年代から70年代にかけてドイツの総理大臣だったヴィリー・ブラントと同じですね。彼は行き詰まったら逃げ出すんですよ。何か理屈をつけて、ぜんぶ放り出して本当に他の国に逃げてしまう。それで2〜3日、あるいは1週間くらいしてリフレッシュしたら、また帰ってきてバリバリと仕事をする。
ヤマザキ それを「逃避だ」といって批判する人もいますが、逃げたっていいじゃないですか。そのおかげで、エネルギー100倍になって帰ってこられるんですから。
 行き詰まっているときにやった仕事は、夜中に書くラブレターみたいなもので、まったくダメです。あんなに命を削る思いをして描いたのに、朝起きて読み返すと羞恥心のパンチを喰らう(笑)。だったら、いったん逃げて、清々しい風通しの良い気持ちになってから挑んだほうが絶対にいいですよ。
 実際、手塚治虫先生も、行き詰まったら、突然いなくなったりしていたそうですが、そういう手段を取る人は少なくないんじゃないかと。
出口 企業などの仕事も同じです。遅い時間までデスクにしがみついていても知恵なんか出るはずがないので、場所を変えて気分転換をして、脳をもう一度活性化させるのは、とてもいい方法だと思います。
 渡辺和子さんの『置かれた場所で咲きなさい』という本がベストセラーになりましたね。渡辺さんは立派な人だと思いますが、「ご縁があったのだから、その場所で咲けるようにがんばろう」というのはいいけれど、咲けなかったら、ヤマザキさんの本を読んで、広い世界へ飛び出したほうがいいんじゃないかと僕は思うのですが。
ヤマザキ 植物もその場でずっと根を張り続けるものと、種を飛ばして別の土地で咲くものがあるじゃないですか。たぶん人間にもいろんな性質な人がいて、動いたほうが咲ける人もいるでしょう。動こうとする人がいたとき、無理に押し込めない社会になってほしいなと思いますね。
 あと、人には逃げなければいけないときがあります。たとえば虎に襲われているとき、「ようし、向き合うぞ!」とやっていては死んでしまいますから。日本の社会は、どんな苦境からも逃げないことを評価しますが、何でもかんでも立ち向かっていればいいわけではないです。
出口 13世紀から14世紀にかけて建てられたイタリアのシエナのプブリコ宮殿は、いま市庁舎として使われているのですが、ここに「善政と悪政の結果」と呼ばれる3枚の壁画があります。「悪政」のほうには、市民がロバに荷物を積んで逃げ出している様子が描かれています。つまり、政府や組織がブラックだと思ったら、逃げ出していいということです。
ヤマザキ そうですね。苦難に向き合った人は美談として語られますが、そもそも苦難の質によると思いますし、なんでも向き合ってボロボロになればいいというものじゃない。
「美談ってそもそもなんなの?」と思うことがありますが、あれは自分や家族が“世間的に”恥ずかしくない、っていうだけの話ではないのかと。
出口 美談は、ある意味ではマスターベーションですよね。仕事でもなんでも、大事なことは、いい結果を残すことです。それなのに潔く腹を切って死んでしまったら、何も残らない。それよりも逃げて捲土重来を期すほうが、はるかに正しい選択だと思います。
ヤマザキ 本当の意味で立ち向かっているのは、世間体など気にせず、必要に応じて逃げることができ、いい塩梅で自分を甘やかしながら生き延びていくことのできる人のほうですよ。大事なことは、それでも生きてさえいれば、人生なんとかなるということです。
出口 僕もご飯を食べていければ、それでいいと思っています。還暦でベンチャー企業を創業したとき、多くの人から「せっかく大会社にいたのに、ベンチャーに飛び込むなんて、怖くはなかったですか?」とよく聞かれましたが、うまくいかなかったら、添乗員をすればなんとか食べていけるだろうと思っていました。

 

ヤマザキ「本当の意味で立ち向かっているのは、必要に応じて逃げることができ、生き延びる人のほうです。そして、それでも生きてさえいれば、人生なんとかなるんです」 出口「僕も、もし起業に失敗しても、ご飯を食べていければ、それでいいと思っていました」

ヤマザキ「本当の意味で立ち向かっているのは、必要に応じて逃げることができ、生き延びる人のほうです。そして、それでも生きてさえいれば、人生なんとかなるんです」
出口「僕も、もし起業に失敗しても、ご飯を食べていければ、それでいいと思っていました」

 

ヤマザキ え、旅行の添乗員ですか?
出口 僕は大学を出てすぐに就職したので、手に職はないのですが、旅の経験だけは豊富です。じつは、趣味で友だちを集めて旅に行くことがよくあるのですが、そのときは僕が全部ガイドをするんですよ。ロンドンに住んでいたころは10回以上、添乗員を務めました。
ヤマザキ でも添乗員って、お客さんが集合場所に来なかったりしたら大変じゃないですか。
出口 それは放っておけばいいんです(笑)。まあ、とにかくその旅行が結構好評だったので、飢えることはないのではないかと。
ヤマザキ 私はイタリア時代、電気・水道・ガス・電話を止められるほどお金には苦労したし、漫画家として軌道に乗るまではいろいろな仕事をしていました。だから、もしいま漫画がぜんぜん売れなくなって、再び無一文になったとしても、怖くはありません。お金がどうにもならない、という状況からでなければ得られない栄養もある。
 最悪、南国までたどり着けば、とりあえずなにがしか食べられそうなものはありそうですよね(笑)。農作業や釣りとかも学んでおこうかな。そのときはそのときで、「ああ、また新しい世界が始まるんだな」と考えればいいのだと思います。もともと自分の人生に対して理想を描いてきたわけではないので、思いどおりにならなかった、幻滅した、っていうのもありません。
出口 そういう覚悟ができるのも、いろいろな経験を積み、勉強してきた結果ですね。
ヤマザキ ははは、うまく「勉強」につなげられましたね(笑)。いま、私の血肉となっているものは、イタリアのサロンで勉強不足や知識不足をバカにされたり、チリ紙交換やテレビのレポーターをしたり、とり・みきさんとコラボレーションをしたりという経験のすべてです。
 どんなつまらない経験でも、無駄にはなりません。情報で頭を埋めて知ってるつもりになるのではなく、実際に動いて、考えて、失敗して、逃げたり立ち止まったりしてきた心身の経験こそが、何にも勝る勉強になると思います。そういう意味では、私はきっと死ぬまで「生きる」という勉強をし続けていくことになるのだと思います。

 

プロフィール

死ぬまで勉強プロフィール画像
出口治明 (でぐち・はるあき)
1948年、三重県美杉村(現・津市)生まれ。 京都大学法学部を卒業後、1972年日本生命保険相互会社に入社。企画部などで経営企画を担当。生命保険協会の初代財務企画専門委員長として、金融制度改革・保険業法の改正に従事する。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを歴任したのち、同社を退職。 2008年ライフネット生命保険株式会社を開業、代表取締役社長に就任。2012年に上場。2013年に同社代表取締役会長となったのち退任(2017年)。 この間、東京大学総長室アドバイザー(2005年)、早稲田大学大学院講師(2007年)、慶應義塾大学講師(2010年)を務める。 2018年1月、日本初の国際公慕により立命館アジア太平洋大学(APU)学長に就任。 著書に、『生命保険入門(新版)』(岩波書店)、『直球勝負の会社』(ダイヤモンド社)、『仕事に効く 教養としての「世界史」Ⅰ、Ⅱ』(祥伝社)、『人生を面白くする 本物の教養』(幻冬舎)、『本物の思考力』(小学館)、『働き方の教科書』『全世界史 上・下』(新潮社)、『人類5000年史 Ⅰ、Ⅱ』(筑摩書房)、『世界史の10人』、『0から学ぶ「日本史」講義 古代篇』(文藝春秋)などがある。

ヤマザキマリ
1967年東京都出身、北海道育ち。17歳で絵画の勉強のためイタリアに渡り、国立フィレンツェ・アカデミア美術学院で、油絵と美術史を専攻。
1997年に漫画家としてデビュー。『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。
エジプト、シリア、ポルトガル、米国を経て現在はイタリア在住。
2015年度、芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2017年、イタリア共和国星勲章コメンダトーレ綬章。
著書に『国境のない生き方』『仕事にしばられない生き方』(小学館)、『男性論』(文春新書)、『スティーブ・ジョブズ』(講談社)、『プリニウス』『パスタぎらい』(新潮社)、『ヴィオラ母さん』(文藝春秋)などがある。
 
9784098252152  9784098253241
 
 
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初出:P+D MAGAZINE(2019/09/12)

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