【SM小説】美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第22話 メデューサは死ねない―妖女メデューサの冒険①

人気SM作家・美咲凌介による書き下ろし掌編小説・第22回目は、「メデューサは死ねない―妖女メデューサの冒険①」。恐ろしくも美しく、偉大なる力を持つメデューサ。そのシリーズ第1回目です。ギリシア神話から想像するに留まらない、壮大な、そしてどこかおかしい不思議なSMの世界……。めくるめくその世界観をお楽しみください!

メデューサ……ギリシア神話に登場する怪物。ゴルゴン三姉妹の一人。その目は宝石のように光り輝き、その姿を見た者は石に変えられる。もともとは類いまれな美少女であったが、不遜にもアテナ神と美を競ったため、呪いを受けて自慢の髪を蛇に変えられた。イノシシの歯、青銅の手、黄金の翼を持つとも伝えられる。のちにペルセウスによって退治された。切り落とされたメデューサの首からは、天駆ける馬ペガサスと黄金の剣を持つ怪物クリュサオルが生まれた。この両者は海神ポセイドンとの間にできた子であるともいわれる。

メデューサ。十七歳。美しい少女だった。

美しいだけならよかった。しかし、この少女にはほかにも卓越したところが多すぎた。まず異様なほど賢い。おまけに手も器用で、十五になったころには、彫刻家である父親よりも巧みに大理石を彫ることができるようになった。そして、一番よくなかったのは、むやみに喧嘩が強かったことである。そのせいで、このひと月余りのあいだに、けっこうな婿候補を三人も家から追い出してしまったのだ。両親の困惑は言うまでもない。

「だって、お父様、お母様。男の人って初めだけは優しそうな顔をしていても、すぐに威張りだすじゃありませんか。いいえ、威張るだけなら私だって少しは我慢もできますけれど、二、三度臥所を共にしただけで、まるで私を自分の飼っている犬のように扱って。一週間もしたら、決まって私を殴ろうとするじゃありませんか。しかも、あの人たちの馬鹿なことといったら……」

夏の盛りの太陽の光が、南向きの窓から飛び込んできて、メデューサの青い目はきらきらと輝きはじめる。

「女は黙って殴られるものと思いこんでいるなんて。そんなはずないでしょう。殴り返される覚悟も持たずに、人に殴りかかるなんて、本当に愚か者です」

「二、三度臥所を共にしただけで……」とメデューサが言ったのは、この土地には少し変わった風習があるためだ。男女が結婚する前に、ものは試しとしばらく同居してみるのである。たいていは男の家に女が住んでみるのだが、一人娘のメデューサは婿をとるつもりなので、男の方が住み込んでいた。メデューサはその男を一人追い出し、二人追い出し、そしてついに昨日は三人目の男を追い出してしまったのだ。

実はメデューサは、一度も男から殴られてはいない。全てかわしたからである。しかも、ただかわすだけではない。そのときにはもう、反撃が始まっているのだ。いったいどんな本能が宿っているのか――誰から教えられたわけでもないのに、メデューサの小さな拳や爪先は、的確に相手の急所を突いてしまうのである。鼻と口の間、喉、みぞおち、股間。何度か瞬きをするあいだに、男はもう床に倒れ伏して、悶絶している。

メデューサは、それで手を緩めはしない。苦痛にのちうちまわっている男の服を剥ぎ取って裸にしてしまい、一晩中苛み続ける。朝になったときには、男は涙と鼻汁を垂らしながら、丸裸で少女の前に這いつくばり、「どうか家に帰してください」と哀願している。そんなことが、ちょうど三回繰り返されたわけである。

メデューサは、早く生まれすぎたのだろう。

数千年も後に生まれたなら、格闘家として名をなしたかもしれない。彫刻家として評価されたかもしれない。あるいはまた、SM遊びの女王様として人気者になったかもしれない。

しかしこの当時、女の美徳は男に従うことだけだった。

父親は言った。「お前は少し、やりすぎるのだよ」

「身の程を教えてあげただけです」とメデューサ。

母親は言った。「お前こそ、男の人たちを犬のように扱ったんじゃないのかい」

「犬のほうが、あの人たちよりはずっとましです」と、再びメデューサ。

メデューサは、灰色の毛をした大きな犬を一頭、ひどく可愛がっている。

メデューサの家は、村のはずれ、森の入り口近くにぽつんと建っている。犬は、その森の中からやってきたのだ。本当に犬なのか。犬にしては、大きすぎはしないか。

「あれはオオカミですよ」とは、家に一人だけいる女奴隷――メデューサの乳母のようなことをやらされている――の言葉。

「それにしても……」

メデューサは、両親に向かって長いため息をついた。

「男の人って、私のことをアテナ様みたいにチヤホヤしてくれますけど、所詮は最初だけのこと。とうてい信用できません」

「だが、それでは困るではないか」と、父親はぼやいた。

「そうよ、本当に」と、母親は嘆いた。

二人には、なるべく早くこの家に金持ちの婿をとらなければならない事情がある。そのことをよく知っていたので、メデューサも最後には済まなそうに目を伏せた。

「ごめんなさい、お父様、お母様」

「男の人って、私のことをアテナ様みたいにチヤホヤしてくれますけど……」

この言葉が、ずいぶんと間違って、アテナのところに伝わってしまったらしい。もともとメデューサの美貌は神々の住まうオリュンポスにまで知られていて、好色なゼウスがいずれ手を出すのではないかと、そんな噂が囁かれていた。ゼウスの愛娘アテナは、それを少し小憎らしく思っているところだった。

「私は、アテナ様より美しい」

メデューサがそんな不埒なことを言っている。そう伝わってしまったのである。

「なんとあさはかな、自惚れのつよい娘よ! 報いを受けよ!」

アテナは、メデューサの美しい髪を無数の蛇に変えた。おまけに――

「永遠に己の醜さに悶え苦しむがよい」と、メデューサを不死の身にしてしまったのだ。

乳母は嘆き悲しんだ。

「可哀そうなお嬢様! 可哀そうなお嬢様!」

母親は物も言わずに、気を失った。

父親はぶるぶる震えながら、うめいた。

「万事休す。これで、あのヒッポロコスの奴に、家も土地も取られてしまうのか……」

ヒッポロコスというのは、町一番の物持ち、金持ちである。このころは、世の中にようやく金銭というものが出回り始めた時代だった。多くの者がその危うさについて無知であり、メデューサの父親もその一人だった。おまけに父親は、賭け事が好きだった。

なんだか分からぬうちに、家も土地も、ヒッポロコスのものになっていたのである。数か月前から、早く出て行けと矢のような催促。おまけにときどき、ヒッポロコスに頼まれたらしいゴロツキどもが嫌がらせにやってくる。もっとも、メデューサの愛犬――ひょっとするとオオカミ――がいるおかげで、連中も大して悪さはできずにいたのだが……。

そこでメデューサの父親の考えたのが、ヒッポロコスほどではないにしても、それなりの金持ちの家の息子を婿にとって、この窮地を救ってもらおうということだった。だが、メデューサがこんな化け物になってしまった以上、もはやその望みも絶たれたわけである。

もっとも、もう一つだけ、方法がないでもなかった。

ヒッポロコスには、二人の息子と一人の娘がいる。その次男坊の名がテルシーラスというのだが、この男が以前から「メデューサと一夜臥所を共にさせてくれるなら、ヒッポロコスのところから借金の証文を盗み出してきてやる」と、ひそかに申し入れてきているのである。

ただ、このテルシーラスという若者は、顔立ちこそいいが、実は父親のヒッポロコス以上に性が悪いという評判だった。この男のせいで気が変になったり死んだりした娘が何人もいるという。あちこちの娘の親に似たような話を持ち掛け、一晩寝て気に入ると、配下の者どもにさらわせる。そして、好きなだけ娘を弄んだあげく、飽きると両目をつぶし、ゴロツキどもに下げ渡すというのだ。最後には裸のまま町の路傍に捨ててしまう。そのまま家に戻れずに死んだ娘、家に戻れても首をくくって死んだ娘が、もう十人以上もいる。そんな話が耳に入っていた。

ヒッポロコスの一家に、ろくな奴は一人もいない。長男はヒッポロコス同様にずるく強欲で、他人の財産を巻き上げるのが大好きだ。妻と娘はどちらも、奴隷をいじめることだけが楽しみといったような女。

だが、最も性が悪いのは、まちがいなく次男坊のテルシーラスである。

いくら家、土地のためとはいえ、そんな男を娘に近づかせるわけにはいかない。だから、メデューサの父親は、その話だけは妻にも娘にも黙っていた。

だが、ある意味ではもう安心だ。さすがのテルシーラスも、髪の毛がすべて蛇になってしまったメデューサに、色目を使うはずもない。

「婆や」――と、乳母のことをメデューサはそう呼ぶ。

「私……あの夜、夢を見たの。アテナ様の夢を。アテナ様は、私に罰を受けよとおっしゃったわ。きっと私が、お父様が困っているのに、わがままを言って婿をとらなかったことを、お怒りなのでしょう」

「そうでしょうか」

乳母は、疑わし気な声を出した。

「悪いのは、賭け事で負けたり借金をこしらえたりなさった、旦那様のほうではないでしょうか。どうして、そんなことのためにお嬢様が、嫌いな殿方といっしょにならなくてはいけないのでしょう」

「ああ、お前とは気が合うわねえ、婆や。実は私も、本心ではそう思っているの。でも、こんなことになってしまった以上は……」

化け物と化して数日、メデューサは家の一番奥まった部屋に身を隠していた。話をしにくるのは、乳母だけである。父親も母親も、メデューサの姿に恐れおののくばかりで、口もきけないようなのだ。いや、恐ろしいだけではなく、情けなくもあるのだろう。丹精込めて育ててきた娘のあさましい姿を見たくないというのは、愛情の裏返しなのかもしれない。

乳母がメデューサに寄せる愛情は、少し種類が異なるようだ。この女は、メデューサの世話をするのが好きなのである。この数年、成長するにつれて手がかからなくなったメデューサのことを、少しさびしく感じていたらしい。ところがこの数日は、食事を届けたり、メデューサと両親の間で伝言役を務めたりと、急に忙しくなってきたので、なんだか以前よりも生き生きとしているくらいだ。

それに、今のメデューサの姿はそれほど気味悪くはない。白い布で作った細長い袋で、すっぽりと髪を――つまり無数の蛇を――覆い、紐をあごに掛けてはずれないようにしているのである。頭の上で蠢く蛇さえ見えなければ、以前のメデューサとそれほどの違いはない。

もっとも、ちょっと油断すると袋の中で蛇が暴れ出して、白い布の表面がざわざわと蠢くことがある。そんなときは、乳母もびくりと体を震わせるのだ。

「私はね、これから森の中で暮らそうと思うの。なぜって、この家も土地も取られてしまったのなら、お父様とお母様は……そしてお前も、町で暮らさなければいけなくなるでしょう。どこか小さな家を借りて……お父様は、あれで腕のいい彫刻家だから、暮らしはなんとか立つと思うの。でも、私がいっしょにいてはだめね。気味悪がられて、どこに行っても追い出されてしまうでしょうよ。だから、私はこれから、森の中に入って、一人で暮らそうと思うのよ」

「でも、お嬢様。森には人食いイノシシがいるっていう、怖い噂があるじゃありませんか」

たしかに、そんな噂があった。いや、単なる噂ではない。メデューサ自身、巨大なイノシシの走る姿を見かけたことがあった。それに、数年に一度は森の中で、不案内な旅人が何者かに食い殺されたらしい屍が見つかるのである。

「大丈夫よ、お前。イノシシだって、こんな化け物を見たら、きっと逃げ出すでしょうよ」

「化け物だなんて……ああ、可哀そうなお嬢様」

「そんなに嘆かなくてもいいのよ。時々は、この袋で蛇を隠して、こっそり会いに来てあげるから。それでね……このことは、お父様やお母様には、黙っていてほしいの。だって、二人が森に入って私を探そうなんてことをなさったら、かえって危ないですものね」

「では、お嬢様がいなくなったことを、なんと言えばいいんです?」

「アテナさまに連れていかれたって、そう言いなさい」

どんなに利口な人間でも、ときにはバカなことを考えることがある。メデューサは実に利口な少女だったが、やはりこのときは、バカなことを考えていた。死のうと思ったのである。

「ああ、可哀そうな私。お父様、お母様。これからメデューサは、死ぬために森へ参ります。イノシシの鋭い牙が、私のやわらかな胸を突き破ることでしょう。赤い温かな血が、草をしとどに濡らすことでしょう。その血が乾くころ、私はもうこの世にはおりません。さようなら、お父様。さようなら、お母様。わがままだった私を、どうかお許しください」

なんだか悲劇的な、たいそういい気分になって、メデューサは涙をぽろぽろとこぼした。感情が昂ったせいか、頭の上で蛇が暴れ出した。わずらわしいので、白い袋をとってしまう。すると、数十匹の蛇が頭をもたげ、気味悪く蠢くのだった。傾きかけた夏の午後の太陽が背中を照らし、目の前にはくっきりと化け物の影が映し出された。

森の中を行く道は、やがて途切れた。灌木を掻き分けながら進んでいくと、少し開けた場所が見つかった。この辺りでいいだろうと、メデューサは地面に座り込んだ。

噂のイノシシが現れても、いっさい抵抗しないつもりだ。素直に食われてやろう。そう思っている。

右手に生えているひときわ太い木の幹の陰に、なんだか大きな黒いものが映った。もしかすると――と思ったときには、それは激しい勢いでこちらに突進してきた。イノシシだ。そうわかった瞬間、その牙がメデューサの胸に深々と食い込んだ。

これで死ねる――。死ぬんだ。私はここで死ぬ。心の中で繰り返していると、さっきの甘い気持ちが蘇って、また目に涙が浮かんできた。

だが、同時にものすごい痛みが胸に走った。息が詰まる。

「痛いじゃないの。こんちくしょう!」

ああ、私ったら、なんて下品な言葉遣い。そんなことを思っているうちに、不思議なことに胸の痛みがどんどん消えていくのだった。そして、さらに不思議なことが――たった今まで、地面に倒れていたはずの自分が、いつのまにか立っている。巨大な牙に貫かれたはずの胸を見る。傷口はたしかにあった。それが目の前で瞬く間に消えていく。

もう一つ不思議なことがあった。さっきまでメデューサの上にのしかかっていた巨大なイノシシが、どこにもいない。いや、そうではない――。いる。中空に浮かんでいる。

いや、それも違う。浮かんでいるのではなく、支えられているのだ。何匹もの蛇が絡みついて、メデューサの頭上高く、巨大なイノシシを持ち上げている。

どうしてあんなに重い物を持ち上げて、私は平気で立っているのだろう。そう思ったときに、やっと気がついた。自分自身も、蛇に支えられていたのである。イノシシに絡みついていない数十匹の蛇が、足元へ伸びて周囲の地面にまで届き、たくさんの柔らかなバネとなっていた。メデューサの体は、少しだけ宙に浮いていた。

もう一度上を見る。イノシシは数えきれない蛇に絡みつかれ、締め上げられていた。よほど苦しいのか、口から泡を吹いている。

なんだか可哀そう。いっそひと思いに……。

ぼんやりとそう思った途端、蛇たちがいっせいに動いた。メデューサの体が、くるりと半回転する。イノシシの頭は、さっきまで自分がその陰に隠れていた大木の幹に叩きつけられた。髪から――いや蛇から伝わる感触で、イノシシの死んだことがはっきりわかった。ほっと息をつく。すると、目の前にドサリと巨大な死骸が落ちてきた。

夕闇の中、無数の触手で頭上に巨大な獣の死体を掲げ、足元にもやはり無数の触手が伸び、わずかに宙に浮いたまま、滑るように森の中から現れた娘。それがどれほど恐ろしく見えたことか――メデューサの父親も母親も、一目その姿を見たときから、家の中に潜り込み、がたがたと震えていた。乳母もまた、初めはメデューサがさらに不気味な怪物へと姿を変えたのかと恐れた。メデューサの可愛がっていた犬――あるいはオオカミ?――でさえ、妙に甲高い声で一声鳴いて、尻尾を丸めて逃げ出し、しばらく戻ってこなかったほどである。

しかし、メデューサの運んできたおみやげは、一家にしばらくの安寧をもたらした。巨大なイノシシの毛皮は高く売れ、肉もまたけっこうな金になったのだ。これで、ヒッポロコスのところのゴロツキがやってきても、当座の利子をくれてやれば、一息つけるというもの。

数日後、メデューサは奥の部屋から居間へと出てきて、両親と対面した。もちろん乳母に作ってもらった例の袋を、頭に被っている。この数日、練習に励んだせいで、蛇を操るのがずいぶん上手になった。もう袋の中で蛇がむやみに暴れることはない。

それでもごくまれに、袋の表面がぐにゃりと動くことがある。父親は歯を食いしばって耐えているが、母親のほうはその度に椅子から飛び上がりそうになっている。

乳母は、メデューサから頼まれた買い物――主に蛇を隠すための白くて長い袋をたくさん作るための大量の布――を買うために、町へと出かけていた。

この数日のあいだに、メデューサにはいろいろなことがわかった。それを両親に聞かせてやったのである。蛇は相当の範囲で伸縮自在だということ。自分の体重の数倍程度の重さの物なら、楽に持ち上げられるということ。蛇を地上へと伸ばし、ちょっとはずみをつければ、人の背丈くらいの高さのものなら飛び越えられるということ。それを繰り返せば、ゴム毬が跳ねるようにしながら、走るよりもずっと速く移動できるということ。

そして何よりも驚いたことは、傷を受けてもすぐに治ってしまうということ。メデューサは実際に、父親が彫刻に使う鑿で腕をざくざくと切って見せた。傷はほとんど血が流れ出ることもなく、すぐに治ってしまった。

両親は、眼をみはって見つめている。

「どうやら私、傷では死ねない体になってしまったようです。それでね、お父様?」と、調子を変えて――

「家と土地をヒッポロコスに取られないで済む方法を、私、考え出しました」

「どうする? またイノシシでも狩ってくるのか。でも、あんな獲物はそんなにたくさんはいないだろう」

「そうではありません。テルシーラスと寝るんです。あの男、私と臥所を共にできるなら、借金の証文をヒッポロコスのところから盗んできてやると……そう言っているんでしょう?」

「知っていたのか」

「以前、私にもほのめかしたことがあるんです。そのときは、殴り倒してやりましたけど」

「だが……」

父親は、言いにくそうな表情をした。

「お前がそんな姿に……」

「黙っていればいいじゃありませんか。証文を持ってきてくれるなら、メデューサがお前に会ってもいいと言っている……それだけ教えてやったら、喜んでやってくることでしょう。もちろん条件はつける必要があります。誰にも絶対にしゃべらないこと。一人でこの家まで来ること」

「しかし……」

「お父様、はっきりおっしゃっていいのよ。もちろんテルシーラスが私の今の姿を見たら、私を殺そうとするか、私から逃げ出そうとするか、どちらかでしょう。でも、殺すことも、逃げることもできません。あのイノシシに比べたら、テルシーラスなんて子ウサギのようなものですもの。そのまま、家の婿にしてやればいいでしょう。もちろん結婚式はできませんけど」

「あの男が誰にもしゃべらないとは思えないな。例のゴロツキ連中に自慢することだろう。そうしたら、いずれ連中が押し掛けてくるし、ヒッポロコスも黙っていないはずだ」

「それはきっと大丈夫です」

「なぜだ?」

「アテナ様が、夢でおっしゃったんです」

メデューサは、嘘をついた。

「ごく近いうちに、ヒッポロコスにも、その手下にも厳しい罰が下るでしょう、だから心配することはありませんって。私、こんな体になる前の夜にも、アテナ様の夢を見たんです。お前に罰を与えてやるって。そして本当に、こんな化け物になってしまいました。きっとお父様が苦しんでいらっしゃるのに、あの婿もいや、この婿もいやと、贅沢ばかり言っていた罰で、こんなことになってしまったんだと思います。でも……だとしたら、今度の夢も本当で、ひょっとすると、うまくテルシーラスから証文を取り上げて、お父様やお母様の心配をなくしてさしあげたら、元の体にもどれるかもしれませんわ」

「ああ、本当にそうかもしれないよ、メデューサ」

母親が、急に生き返ったような声を出した。メデューサの嘘を本気にして、はかない希望を抱いているのだ。心がちくりと痛む。

結局、話し合いは、メデューサの望んだ通りとなった。

「最後に、お父様、お母様、お願いがあります。テルシーラスが来た夜は、きっとすごい叫び声が聞こえると思うんですけど、なるべく心を平静にして、気にしないでいてくださいね」

たしかに、夜半まで恐ろしい悲鳴がひっきりなしに続いていた。メデューサの父親と母親は寝床で抱き合い、ずっと震えながらその声を聞いていた。町から戻ってきた乳母も、メデューサからどんなことが起こるかだいたい教えられていたにもかかわらず、自分の部屋で震えていた。

真夜中をすぎたあたりから、悲鳴はぴたりとやんだ。だが、その静寂もまた、三人にはひどく恐ろしいものに感じられた。

翌朝、三人の待つ居間に、メデューサがテルシーラスを連れて現れた。メデューサは、例によって白い布の袋で、頭の蛇を隠している。

テルシーラスは、丸裸にされて床に這いつくばっていた。首に荒縄がかけられ、その先はメデューサの左手の指へと伸びている。右手には柳の鞭が握られていた。

「婆や、お前に首輪を買ってきてもらうのを、忘れていたわ。そのうち、また町に出たときに、買ってきてちょうだい。……さあ、テルシーラス。挨拶をしなさい」

テルシーラスは、這いつくばったまま額を床に擦りつけた。途端にメデューサの鞭が、ピシリと尻を打つ。

「お辞儀をするときは、もっと強く頭を下げるんだったでしょう? ゴツンと音がするくらいにね。やり直しなさい」

テルシーラスは、もう一度、同じ動作を繰り返した。ただし、さっきよりはよほど勢いが強かった。本当に額の骨と床がぶつかる音が響いた。

メデューサが、またピシリと鞭を使う。笛の鳴るような細い音が聞こえた。テルシーラスが悲鳴を上げたらしい。

「お辞儀が終わったら、その卑しい顔を上げて、相手の顔を見るんだったでしょう? 本当に覚えが悪いのね」

裸の若者は、這いつくばったまま、顔を上げて周囲に立つ者たちの顔を順々に見つめた。目が赤く充血し、涙がぽたぽたと流れ落ちている。

昨日この家にやってきたときは、にたにたと笑いながら横柄に肩をゆすっていたが、なんという変わりようだろう――と、メデューサの父親は思った。

「お父様、お母様。少し説明させていただきますわ。挨拶をするのに、声も出さないなんて不作法だとお思いになったかもしれませんけど、一切言葉をしゃべってはいけないって、私が命令したんです。私、この男の声が気に入らなくって。それから、こんなふうに床に這いつくばっているのが目障りかもしれませんね。でも、許してあげてください。この男は、もう立てないんです。ほら、ここを見てください。足首をどちらもつぶしてあるんです。きっともう、一生治らないでしょう。もし治りそうになったら、また私が捻りつぶしてあげます」

テルシーラスの口から、またヒーッというかすれた声が漏れた。

「でも、お嬢様。どうして裸なんです?」と、乳母が尋ねた。

「ああ、それはね。身の程をわきまえさせるためよ。このテルシーラスはね、これまで十七人の女の目をつぶし、裸にして、町に捨てたんですって。そのうち十二人は死んだそうよ。昨夜、泣きながら白状したの。だから、これから十二年間は、裸のまま過ごさせることにしました。本当は目もつぶしてあげたいところなんだけど、そうすると仕事ができないでしょうしね。さあ、婆や。この縄の先を持ちなさい。それから、この鞭も。しばらくは婆やの仕事を手伝わせるといいわ。もし少しでも怠けているように見えたら、この鞭で励ましてあげなさい」

「まあ、お嬢様。この男が十二人も殺したんですか。悪い奴なんですねえ。でも、今じゃすっかり反省しているようですね」

「まさか」

メデューサは、大仰に驚いて見せた。

「婆や。お前はお人好しねえ。この男が反省なんかするもんですか。今でも心の中では、父親のヒッポロコスが助けに来てくれるに違いない、それまでの我慢だって、思っているでしょうよ。でもねえ、婆や。お前の話だと、ヒッポロコスの一家には、近々アテナ様の罰が下るって、もっぱらの噂だそうね」

「ええ、みんなそう言ってました。ただ、ヒッポロコスだけは、神様なんているはずがない、もしいるなら、わしにはとっくに天罰が下っているはずだが、見てみろ、こんなにピンピンしているって、威張っているそうですよ」

10

ヒッポロコスの一味に、アテナ神からの罰――と皆が信じたが――が下ったのは、それから三日後の夜のことだった。まず、ヒッポロコスの手先となって人々を脅し回っていたゴロツキ連中の集まる酒場で、恐ろしいことが起きた。頭から無数の蛇が生えた化け物が現れ、荒くれ男たちを叩きのめして回ったのだ。化け物の顔は見えなかった。数匹の蛇の胴が絡まって、顔を隠していたのである。

ゴロツキどもは、蛇に締め上げられたまま宙に浮かび、脚を柱や壁に叩きつけられた。全員が脚をぐずぐずに折られ、床を這いずりながら泣き叫んでいた。だが、一人も死ななかったのである。もし頭を叩きつけられていたら、誰一人生きてはいなかったろう。

「殺さずにおいてやる。アテナ神の情けだ」

化け物は、一声高い声で叫ぶと、闇へ消えていった。

ヒッポロコスの家で何が起きたのかは、判然としない。主人の寝室で上がった凄まじい悲鳴を聞いて、召使たちは皆逃げ出してしまったのである。

それでも死人は一人も出なかった。朝になって召使たちが恐る恐る戻ってくると、ヒッポロコスの家族たちは、全員ちゃんと生きていた。ただし、無事だったとも言えない。ヒッポロコス本人、その妻、息子と娘――四人とも丸裸で庭に転がされ、力なくすすり泣いていたのである。

皆、脚の骨を折られていたのはゴロツキどもと同様だったが、こちらはそのうえに、もう一段悲惨さの度合いが高かった、全員、両目がくりぬかれていたのだ。

11

夏が終わりかけていた。

奥の庭で涼んでいるメデューサのところに、乳母がやってきた。

しばらく話をした後、乳母は言った。

「お嬢様。町では、アテナ様を称える声ばかりでした」

「婆や、お前のおかげよ。お前が噂を上手に流してくれたから」

「でも、大丈夫でしょうか。アテナ様の罰だなんて、あんな大きな嘘をついて」

「あら、嘘じゃないわ」

「そうなんですか」

「そうよ。考えてごらんなさい。私がこんな化け物になったのは、アテナ様の下した罰でしょう? そして神様はなんでもお見通しなんだから、化け物になった私が次に何をするかなんて、すっかりご存知のはずじゃありませんか。ということは、私がテルシーラスを奴隷にするのも、ヒッポロコスの一家の目をくり抜いて回るのも、ちゃんとお分かりになっていたわけでしょう。全てはアテナ様の御心のまま。ということは、あれはみんなアテナ様の下した罰ということになるじゃないの」

「まあ、そう言われれば、本当にそうですねえ」

乳母はこくこくとうなずいて、去って行った。しかし、メデューサは自分の理屈に少しも納得してはいなかった。そもそも、なぜ自分がこんな化け物にされなければならなかったのか――そのことからして、今では疑問だった。

それはそうだろう。全てはアテナの勘違いから起きたことだったのだから。

「私のことをアテナ様みたいにチヤホヤしてくれますけど……」

その一言がアテナに誤って伝わったことが、全ての発端だった。「私はアテナ様より美しい」と。

だが、メデューサはそのことを知らない。知らない方がいいだろう。

12

メデューサは、家の一番奥まったところにある自分の部屋に入り、頭に被っていた白く細長い袋を取り去った。数十匹の蛇が同時に鎌首をもたげ、赤い舌をチロチロと出したり引っこめたりし始める。メデューサの心が昂ってきたのだ。少女は、裸になって寝台に腰かけ、緩く膝を開いた。そして、傍らに置いてある鞭を手に取り、ピシリと鳴らした。

テルシーラスが、のそのそと部屋の隅から這い出てきた。舌を伸ばし、首をメデューサの膝と膝との間に差し入れる。そして、少女の最も敏感な部分を一心に舐め始めた。唾液がはじけ、淫らな音をたてた。

しばらくして、メデューサが言った。

「アテナ様も、お慈悲深いわねえ。お前は十二人も女を殺したというのに、ヒッポロコスの一家は、誰一人死んでいないんだから。感謝しないとね。ただ、ヒッポロコスにはもう、お前を探し出す余裕はなさそうだよ。家族全員が立つこともできず目も見えないときているから、財産は盗まれ放題。宝で埋まっていた蔵も、今ではネズミ一匹残っていないそうよ。召し使いもいなくなったあの家で、お前の家族は毎日罵り合って暮らしているんですって。惨めだこと。その点、お前は幸せね。こうして私に可愛がってもらえるんだから」

テルシーラスの舌の動きが、一瞬止まった。

「どうしたの? 続けなさい」

メデューサはそう言うと、ゆっくりと背を反らした。その頭の上で、蛇の鱗が擦れ合って、妙に湿った感じの、微かな音をたてた。

◆おまけ 一言後書き◆
メデューサ・シリーズの第一弾です。本来の神話ではメデューサはゴルゴン三姉妹の末っ子ということですが、私のギリシア神話では一人娘で、格闘の天才で、性格的にどこか欠けたところがある、という設定になっております。それに、見た者を石に変える力は持っていません。悪しからず。本来の神話とのズレは、これからもっと大きくなっていく予定です。なお、ヒッポロコス、テルシーラスという名は、イーリアスの端役から借用しました。

2020年7月15日

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。

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初出:P+D MAGAZINE(2020/07/21)

『海が見える家 それから』ためし読み
モーシン・ハミッド 著、藤井 光 訳『西への出口』/パキスタン出身の米作家による“難民小説”