【SM小説】美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第29話 怪しいバイト事件――どえむ探偵秋月涼子の告白
人気SM作家・美咲凌介による、書き下ろし掌編小説・第29回目は「怪しいバイト事件」。「どえむ探偵秋月涼子」の前に突如現れたモリアーティ教授こと、森亜貞一。彼が主催するサークルは風俗やレイプ事件など数々の問題を起こしていた。実態を調査するふたりにも危険が迫っていて……!?
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「……ということなんですの。おわかりになりまして? お姉さま」
裸で床にひざまずいたまま、上目遣いに真琴さんの顔を見つめて、涼子はそう問いかけた。青いパジャマを着てベッドに腰かけた真琴さんは、「あ……うん……いや……」と、曖昧な返事をした。実は、久しぶりに見た涼子の愛らしさを鑑賞するのに夢中で、いくつか聞き逃したこともあったのだ。
今夜は、十二月になってから初めての日曜の夜。久しぶりに可愛い涼子とSM遊びに興じようと思っていた真琴さんだが、思惑はすっかりはずれ、もう一時間近くも涼子の口から流れ出す言葉の奔流に立ち向かっていたのである。
学園祭が終わってから十日間ほど、真琴さんは涼子に会わなかった。後期授業の締めくくりに向けて、レポート作成やらなにやらで、勉強のほうがなかなか忙しかったのだ。
新宮真琴さんは、聖風学園文化大学文学部の三年生。特待生として入学してきたのだが、成績が下がってしまうと、学費全額免除という特権が剥奪されてしまう。それだけに、試験はもちろんのこと、レポート一つにも気は抜けないのである。
いっぽう、真琴さんの性的パートナーであり、SM遊びの相手を務めてくれる、自称M奴隷の涼子は、一つ年下の二年生、この辺りでは有数の資産家である秋月家の一人娘である。勉強や成績に関しては、留年さえしなければいいといった程度の呑気な境遇なので、この十日間ほどもあれこれいろんなことに首を突っ込んでいたらしい。真琴さんは今、その報告を聞き終えたところ。
「なんだか、妙に込み入ってるな」
「ええ、ですから……」と、再びしゃべり出そうとした涼子を片手で制して
「ちょっと待って。私が整理するから、もし間違っていたら、涼子はそれを訂正しなさい」
「はい、お姉さま」と、涼子は従順にそう答えると、ぴたりと口を閉じた。
「まず、先週、和人くんが何者かに襲われて、片腕を脱臼。足首も捻挫して、三日間入院したけど、今は退院して自宅療養中。この襲撃事件の背景には、和人くんが自治会長として、いくつかの変なサークルを潰してしまったという事実がある」
「その通りです、お姉さま」
「そのいくつかのサークルというのは、怪しげな自己啓発セミナーとか、学生の交流パーティとかを主催してメンバーを集め、法外な会費をとっていた。それだけでなく、メンバーに会員集めのノルマを課して荒稼ぎをしていた。しかも、レイプ事件が起きたり、風俗の店で働かされる女の子が出てきたり……。だから、和人くん率いる自治会は、警察と連携して、それらのサークルを壊滅に追い込んだ」
「サークルの幹部たちって、悪いことばかりしていたんです。ほら……一昨日でしたか、新聞にも載りましたでしょう?」
「あの記事、うちの大学のことだったのか……」と、真琴さんは、苦々しげに呟いた。特に愛校心が強いというわけではないが、自分の通う大学が不祥事で新聞沙汰になったと聞くと、愉快な気持ちではいられない。
「でも、大学の名前は出てなかったな」
「蘭子先輩のお家のほうで、うまく握りつぶしたようです」と、涼子。
「それも、なんだかなあ」と、真琴さん。
貧乏人の娘である真琴さんとしては、金持ちが金の力でなんらかの圧力をかけたというような話にも、やはり感心できないのである。
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真琴さんと涼子は、二人ともミステリー研究会――略してミス研――に所属している。今、話に出てきた和人くん、蘭子先輩というのも、そのミス研の部員である。蘭子先輩は、四年生。涼子の秋月家に並ぶ資産家の加賀美一族の娘で、真琴さんたちが通う聖風学園文化大学は、この加賀美家が経営している。
自治会長の萩原和人くんは、その蘭子さんの婚約者で、二年生。和人くんの萩原家は、江戸時代には加賀美家の主筋にあたっていたとのことで、蘭子さんは二つ年下の和人くんを「若さま、若さま」と呼び、下にも置かぬもてなしをしている。蘭子さんの影響力はなかなか強いため、今ではその呼称がミス研の部員の一部にも普通に流通しているほどだ。
もっとも和人くん自身は、「若さま」と呼ばれて威張り散らすわけでもなく、いつもニコニコヘラヘラしていて、どちらかと言えば腰は低いほうだ。だから時々は、男の先輩から「おーい、若さま、ちょっとおいで」と呼ばれた和人くんが、「はーい」と返事をしながら、犬コロのように駆け出していくといった、妙におかしな光景も見ることができる。
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「そのサークル潰しの仕返しで、和人くんが襲われた。そして、話はそれだけでは済まずに、和人くんの友人、知人たちも今後襲われる可能性がある。だから、私たちも気をつけなくちゃいけないってわけだね。迷惑だなあ」
「でも、こうなった以上、仕方ありませんわ。なんといっても、裏で糸を引いているのが、聖風学園のモリアーティ教授と呼ばれる、森亜(もりあ)貞一(ていいち)先輩ですから、どんな恐ろしい罠が仕掛けられるか……」
「森亜貞一で、モリアーティって、ただのダジャレじゃないか」
「でも、本当にモリアーティ教授みたい人なんです。すごく頭がよくて、例のサークルも全部、森亜先輩の息がかかっていて、莫大なお金を吸い上げていたそうですわ。それなのに、自分だけは安全圏にいて、今回の騒動でも、なんのお咎めもなかったそうです」
「森亜先輩の話は聞いたことがある。法学部随一の秀才なんだってね。二年生で予備試験に合格して、三年生で司法試験に合格したっていう人だろ? たしか私と同じ特待生だったはずだけど、格がちがうね。私なんかよりずっと優秀だ」
「でも、お姉さまとはちがって、とっても悪い人なんです」
「私も、そんなに善人じゃないけど……ただ、レイプだ風俗だっていうのは、いやな話だなあ……それで、と。次は、一年生の野間海斗くんだっけ……その野間くんっていうのは?」
「エピクロス倶楽部の会員です」
「なるほど」
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エピクロス倶楽部というのは、蘭子さんが主宰しているサークルめいたもので、いろいろなイベントの企画などをやっているらしい。もっともそれは表向きの話にすぎず、実は加賀美蘭子さんと萩原和人くんのペアを中心にした性的なハーレムの本拠地になっている、という危ない噂もある。真琴さんの目から見ると、モリアーティ教授こと森亜貞一先輩のサークルと同様、怪しいことこのうえない。同時に、少しばかりうらやましい存在でもある。というのも真琴さんは、涼子だけでなく、何人ものM奴隷を身近に侍らせたいという、不遜な妄想を抱いているのだ。
「そのエピクロス倶楽部の会員である野間くんが、怪しげなアルバイトに誘われた。それが実は森亜先輩、つまりモリアーティ教授の罠じゃないかっていうわけか」
「そうなんです」
「しかも、そのバイトに、私と涼子が関係しているっていう話だったけど、具体的にどういう意味?」
「それはまだわかりません。明日、野間くんにお話をうかがうことになってますの。でも、とにかくなんらかの陰謀が隠れているというのは、ほぼ確実ですわ」
「なんだか、ありそうもない話に聞こえるけど」
「いいえ、十分にあり得る話です、お姉さま。だって、そのたちの悪いサークルを潰したせいで、結果的にエピクロス倶楽部は会員が増えて、すごく潤うことになりそうなんです。つまり、ちょっと見方を変えると、今回のサークル潰しは、和人くんが自治会をうまく使って、ライバルから会員を大量に引き抜いたっていうふうにも見えるわけです。もちろんエピクロス倶楽部は、ずいぶん良心的に運営されていますけど……でも、モリアーティ教授から見たら、そんなことは関係ないでしょう?」
「じゃあ、あのエピクロス倶楽部っていうのは、利益を出しているわけ?」
「以前、蘭子先輩にうかがった話では、たいした額ではありませんけど、年に二百万くらいは黒字が出ているっていうことでした」
「二百万って、たいした額だよ。なんだか腹がたってきた」
「でも、それなりの苦労もあるそうですわ。ちゃんとした会社組織にしているので、税金とか控除とかで、いろいろと……」
「まあ、いいや。それで?」
「その怪しいアルバイトについての調査を、蘭子先輩がこのドM探偵、秋月涼子に依頼なさったと、こういうわけなんですの。」
涼子は、大学を卒業したらすぐに探偵事務所を開くと宣言している。そして、SM行為をすると途端に推理力が高まるドM探偵として、華々しく活躍するというのだ。ミステリー研究会に入ったのも、その探偵修業の一環ということらしい。バカなのか? バカなのだろう。
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「それで、その調査って、どうやるんだ? そもそも調査の目的は?」
「調査の目的は、二つありますわ、お姉さま。一つは、エピクロス倶楽部の会員である野間くんの安全の確保。もう一つは、モリアーティ教授の企み――もちろん、教授が絡んでいたらの話ですけど――その企みを打破することです。それでね、お姉さま? 」
涼子の表情が、少しだけかたくなった。
「今回の探偵業務は、かなり危険なことになるかもしれません。ですから、お姉さまにはお休みしていただいて、涼子一人でまいります。ああっ……もちろん涼子、いつだってお姉さまといっしょにいたいですわ。でも……でも……」
涼子の声が、急激に芝居がかっていく。
「お姉さまを危険にさらすことはできません! ですから、お姉さまは、このお部屋で静かにお勉強をなさっていてください。涼子、一人で危険に立ち向かいます。そして……そして……もし涼子が殺されてしまったら、お姉さま? ただひと雫でいいんですの。涼子のために、涙を流してくださいね」
涼子は、床にひざまずいたまま、真琴さんの顔を上目遣いに見上げている。その大きな目に涙があふれてくる。
真琴さんは、十秒ほどじっとその二つの目を見つめていたが、ひょいと右手を伸ばして、涼子の頬を軽くつねってやった。
「あっ」と、涼子が小さな声をあげる。
「涼子? 盛り上がっているところ悪いけど、そんなに危ない目にはあわないと、私は思う」
「和人くんが襲われたんですよ?」
「殺されなかっただろう? 腕はひねられただけだし、足首は自分が勝手に転んでくじいただけだって、本人が言ってたしね」
真琴さんは昼間、和人くんに見舞いの電話をかけていたのである。和人くんの話によれば、相手は一人で、「個人的な恨みはない、悪く思うな」と、三流映画のような台詞を吐いたあと、腕折りのような技を仕掛けただけで、倒れた和人くんを尻目に悠々と立ち去っていったそうである。
「敵ながら、かっこよかったですよお」と、和人くんは例によって、他人事のような呑気なことを言っていた。つまりは、相手に徹底的に痛めつける意図は最初からなかったようなのだ。
「そもそも、本当にサークル潰しの仕返しで襲われたかどうかもわからないし、もしそうだったとしても、ちょっとした嫌がらせ程度にすぎなかったんだよ」
「でも、お姉さま。もしもってことが……」
「黙って。Mの分際でSである私のことを心配するなんて、生意気。私もいっしょに探偵してあげるから、感謝しなさい」
「ありがとうございます。でも……」
「本当に危険があるとしたら、私がこの部屋に一人でいるほうが、よっぽど危ないよ。もし私が拉致でもされたら、どうする?」
「そんなこと。涼子、恐ろしいです」
「だろ? それよりも二人いっしょにいたほうがいいんじゃない? ほら、そろそろベッドに上がりなさい。キスしてあげるから」
真琴さんが両腕を差し出すと、涼子はまだどこか心配そうな表情のまま、すっと身を寄せてきた。
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翌日の夕方、エピクロス倶楽部の奥まった一室で、真琴さんと涼子は野間海斗くんという一年生と対面した。紹介してくれた蘭子さんは、「若さまのお見舞いに」と言って早々に出て行ったので、今、室内にいるのは三人だけ。真琴さんと涼子は並んで腰かけ、小さなテーブルを挟んで野間くんと向かい合っている。
質問は主に涼子に任せ、真琴さんはできるだけ聞き役に徹するようにした。というのも、自分が時々、人を傷つける辛辣な一言を発してしまうことがあるのを自覚しているからで、ミス研の女王というあだ名がついたのも、半分はその毒舌のためだと思っている。残りの半分は、美貌のためだと自負してもいるのだけれど。
野間くんというのは、経済学部の一年生。背が高い。一八五センチくらいはありそうだが、どこかまだ幼げな表情をしている。和人くんの高校の後輩で、エピクロス倶楽部にも和人くんに誘われて入ったらしい。
「会費は、萩原先輩に出してもらってるんです。その代わり、イベントなんかがあるときは、いろいろと手伝ってます」
聖風学園は金持ちの子女が多く通う大学だが、野間くんの家はさほどでもないようだ。だから、怪しげなバイトにも手を出すはめになったのだろう。
「それで、具体的にどんなところが変だったんですの?」と、涼子は相手が下級生でも、丁寧な口のききかたをする。
「ええっと。まずですね……話がすごく遠いところからきたんです」
「遠いところって?」
野間くんの話は、なんだか要領を得ない。
「つまりですね、友達の先輩の、そのまた友達っていう人が、さらに別の人から頼まれたっていう形になってまして。それで、その友達の先輩の、そのまた友達っていう人に頼んだ、その別の人っていう人に会ったわけなんですが……鈴木さんという文学部歴史学科の男の人なんですけど……でも、加賀美先輩が調べたところでは、そんな人は文学部歴史学科にはいなかったそうなんです」
「それで?」
「それで、その鈴木さんという人によればですね、ある場所……マンションの一室なんですが……そこに行って、上半身だけ裸になって、いろいろなポーズをとってくれればいい。時間は三時間で、報酬は三万円。二回やってもらう予定だから、計六万になるけど、どうだ? って、いうんです。それで、ぼく、ちょっとお金がほしかったもので……なんといっても時給一万円っていうのは、破格ですからね。即決でやるって言いました」
「それで、たしか一回はやってみた。そういうことでしたわね?」
「そうです。ちゃんと三万円もらいました」
「いつ?」
「先週の水曜日です。曜日はこちらが指定できるっていうことだったんで、水曜日にしてもらったんです。時間は、午後七時から午後十時まで。それで二回目は、今週の水曜日、つまり明後日にもう一度行くことになっています」
「場所は、どちら?」
「それが、わからないんです。だから不気味なんですよね」
「わからないって、どういうことです?」
「目隠しされてるからです」
「目隠し? どういうことなんでしょう? 具体的に、先週の水曜日のできごとをくわしく言ってみてくださいません?」
「ええっと。つまりですね……迎えがくる約束になってるんですよ。先週の水曜日の場合だと、午後六時三十分に、ぼくのアパートの前に、クルマで乗りつけたわけです、その迎えの人がね。クルマは、でかい白のミニバンでした。車種はわかりません、クルマにくわしくないんで。ただ、あれはレンタカーだったと思います。ちらっと見た運転席のところに、なんとかレンタカーって、小さなステッカーが貼ってあったんで……迎えの人は二人です。たぶん大学生じゃないのかなあ。それで、クルマの中に入ると、すぐに目隠しをしてくれって言われて……ええ、目隠しの話は、最初から聞いてたんですよ。なんでも、雇い主は女性の二人組で、男性の肉体美を鑑賞したいわけだけれど、自分たちの正体は知られたくないっていう話なんですね」
「まあ、どこまでも怪しいお話ですのねえ。それで?」
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野間くんの話は、次のように続いた。
ミニバンは、二十分ほど走り続け、あるマンションの地下駐車場で止まった。野間くんは、そこで目隠しをはずすことを許された。そのままエレベーターで五階まで上がると、512号室に入るように指示された。
ぼんやりしているようだが、部屋番号を覚えていたところを見ると、野間くんにもある程度の注意力は備わっているらしい。ただ、マンションの名前はまったくわからないとのこと。迎えにきた二人の男は、部屋には入らなかった。野間くん一人だけが入室したのだという。鍵はかかっていなかった。
部屋は2LDKのようだった。玄関を入るとすぐに、幾つかの小さな棚のほかにはほとんど家具のない、がらんとしたLDK、その奥に二つの部屋が左右に並んでいた。野間くんは、右側の部屋に入るように言われたという。
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「どこからともなく、女の人の声が聞こえてきたんです。女の人は、二人いるようでした。たぶん、ぼくが入らなかった左側の部屋にいたと思うんですけど……でも、声はそこから聞こえてくる感じじゃないんです。なんだか前の方から聞こえてくるかと思うと、今度は後ろから聞こえてくるような感じがして……なんていうのかなあ……声だけが歩き回って、ぼくの側に来たり、離れていったりするような気がしました」
「なんだか不気味ですわ」
「それは……」と、真琴さんが口を挟んだ。
「スピーカーがいくつか目立たないところに据えつけてあって、そこから声を流していただけかもしれないぞ。それで、スピーカーの音量を調節すれば……つまり、左右にスピーカーを置いておくとして……右側の音量を上げて左側を下げれば、右に移動したように聞こえるし、逆にすれば左側に移動したように聞こえるはずだ。奥と手前とでも、同じことができる。そう思わないか、涼子」
「さすがです、お姉さま」と、涼子。
「ああ、そのお姉さまっていう呼び方ですけど……」と、野間くんが続ける。
「それが、どうかいたしましたの?」
「その部屋で聞こえた女の人の声も、そんなふうに呼び合っていたんです。今のお二人みたいに、お姉さま……涼子……って。それで、ぼく……萩原先輩や加賀美先輩から、お二人のことを聞いていたものですから、ひょっとしたらって思って……」
野間くんの怪しいバイトに、真琴さんと涼子が関係している。そんな話も出ていたが、それは、このことだったらしい。
「その部屋の二人に、そのことについて、お尋ねになったの?」
「いいえ、戻ってきてから加賀美先輩に聞いてみたら、それは変だっていうことになったわけです。本当は、このバイトのこと、誰にも話したらいけないって条件で引き受けたんですけどね……こうあれこれと変なことが出てきたら、ちょっと不安になるじゃないですか。それに、萩原先輩が襲われたっていう話もあるし。それで、相談することにしたんです」
「話してくださって正解ですわ。あたしとお姉さまの偽者が暗躍しているなんて、とんでもないことですもの。許せません。それも、男性の肉体美を鑑賞する二人組だなんて……」
「本当だ。バカにしてる」
真琴さんは、野間くんのほうをじっと見つめて言った。
「でも、野間くんは実際、いい体格をしてるね。たしかに鑑賞のしがいはあるのかも」
「お姉さまったら!」
「まあ、いいや。話を続けて」
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「右側の部屋に入ると、手前のLDKと同じで、その部屋にも家具はほとんど置いてありませんでした。ただ、隅のほうにいくつか、小さな棚があっただけです。それから椅子が一つ。ほかにはダンベルが二つとバレーボールが一つ、床に転がしてありました」
「それから、どうなりましたの?」と、涼子。
「また、例の声が聞こえてきました。まず上半身の服を全部脱ぐように言われて……ああ、そうだ……エアコンもありました。けっこう暖房が効いてて、寒くはなかったですね。それで、脱いだ服は椅子にかけて、それからは二時間、ひたすら運動でしたよ」
「運動?」
「そうです。声が聞こえるでしょう? その声が、腕立て伏せをやれとか、腹筋をやれとか……言われた通りにやりましたよ。それからダンベルを持ってポーズをとったり……いちばんきつかったのは、バレーボールを両手でもって高く上げて、じっとしているように言われたときかな……あれは、最初はなんでもないんです。でも、ずっと続けているとだんだん両手が震えてきて……そのうち、女の声がくすくす笑いだすんです。だから、たぶんどこかにカメラが据えつけてあったんでしょうね。それで、ぼくの姿を映して、隣の部屋で見ていたんでしょう」
「なんとなくSM風味がありますわね。そう思いませんこと? お姉さま」
「さあ、どうだろう」
「いや、ごく健康的なものでしたよ。最後は汗だくになって、ラジオ体操で締めました」と、野間くん。
「あら、SMだから不健康だとは限りませんわ」と、涼子。
「涼子。SMの話はいいから、しっかり野間くんの話を聞きなさい。で、バイト料は、どうやって受け取ったの? そのとき相手の顔を見たんだろう?」
「それが、見なかったんです。時間がくると、また声が言うわけですよ。部屋の押し入れの中に金庫があって、その中に三万円入っているから、持っていきなさいって。金庫の開け方もちゃんと教えてくれました」
金を受け取った野間くんが服を着て部屋を出ると、ドアの外では例の二人の男が待っていたという。そして、来るときと同様に目隠しをされ、クルマで自分のアパートまで送ってもらったとのこと。
「そのときに、次の水曜日――つまり明後日ですけどね、同じようにバイトに来るように、かたく約束させられたわけです。ぼくとしてはちゃんと報酬ももらえたし、いいバイトだったなあと思っていたんですが、萩原先輩が襲われたこととか考え合わせると、やっぱりなにか危ないことに巻き込まれているのかもしれないと思って、こうして報告にあがったわけなんです。でも、これで残りの三万円がふいになったかと思うと、少し惜しい気もします」
「野間くんって、とっても楽観的でいらっしゃるのねえ」
涼子はそう言って、ほうっとため息をついた。そして、真琴さんのほうを見て言った。
「お姉さまは、今のお話、どう思われます?」
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「ホームズの赤毛連盟みたいだな。あの話だと、無意味な仕事に駆り出されて留守にしているあいだ、自宅のほうに仕掛けをされていたわけだけど……帰ったとき野間くんの部屋になにか異常はなかったのかな。そもそも野間くんは、どんなところに住んでいるわけ?」
「ワンルームのアパートです。留守のあいだ、ぼくの部屋になにかされたんじゃないかっていう、今のお話ですけど、実は加賀美先輩も同じことをおっしゃってました。それで、何人かで徹底的に調べてみましたけど、異常なしでした」
「そうか。蘭子先輩も、同じことを考えたのか。なんだか悔しい気がする。で、涼子は? なにか考えがあるの?」
「涼子、逆の発想も大切だと思いますわ」
「逆の発想って?」
「つまり留守にした自宅ではなくて、行った先の部屋に細工をするってことです。細工っていうのか、仕掛けっていうのか……そして、そのやり方だったら、いくらでも恐ろしい事件をでっちあげて、野間くんに濡れ衣を着せることができると思うんです」
「濡れ衣を着せるって?」と、真琴さん。
「ぼく、そんなのいやです」と、野間くん。
「たとえばですね……一番恐ろしい例を挙げるとしたら、明後日、野間くんが同じようにそのどこかわからない部屋に行くとするでしょう? すると、その部屋にダンベルで頭を殴られて死んだ誰かの死体が転がっているんです。それを見て野間くんが呆然としているうちに、警察が踏み込んできます。死体の死亡推定時刻は、ちょうど一週間前。凶器のダンベルには、野間くんの指紋がベタベタといっぱいついています。ほかの人の指紋はなし」
「それで、ぼくが逮捕されちゃうわけですか」
「いきなり逮捕まではいかなくても、少なくとも重要参考人ということにはなるでしょうね」
「でも、涼子。ちゃんと説明すれば、その疑いはいくらなんでも、すぐに晴れるだろう」
「そうでしょうか。一週間前にアルバイトでこの部屋に来て、上半身裸になって体操をしました、それで三万円もらいましたって言って、それをそのまま信じてくれる人は、あんまり多くはないと思いますわ。それに、もし信じてもらえたとして、次に疑われるのは、あたしとお姉さまです。だって、野間くんの話の中に、お姉さま、涼子って呼び合う二人組の女の話が出てくるわけですから……」
「ああ、なるほど。でも、結局はその疑いだって晴れると思うぞ。その部屋の持ち主とか、死体の身元とかを調べていくうちに、私たちとは関係がないってことがわかるだろうしさ」
「でも、死体があたしたちと関係のある誰かだったとしたら?」
「それは……」と、真琴さんは言いかけて、言葉に詰まった。涼子の持ち出した仮定は、バカバカしいようでいて、どこか笑い飛ばせないものを含んでいるような気がしてきたのだ。
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「もちろん、今の話はいちばん極端な例を出しただけです。涼子も、本当に死体が転がしてあるなんて、思っていませんわ。もしモリアーティ教授――つまり、森亜先輩が絡んでいるとしても、昨日お姉さまがおっしゃったように、せいぜい嫌がらせをしようとしているだけだと思います。本格的に警察が出てくるような事件を引き起こすつもりはないでしょう。だって、森亜先輩は来年から東京の大学の大学院に進学なさるっていうお話で、つまりは未来のある方ですもの。まさか嫌がらせのために殺人事件まで起こすとは、考えられません」
涼子は、しばらくのあいだ考えこむような表情をした。そして、再び話し始めた。
「でも、さっき言ったのと同じ方法で、いくらでもバリエーションが作れますわ。それに、もう一つ大きな問題は、その怪しいバイトをやっているあいだ、野間くんのアリバイがなくなるっていうことです。先週の水曜日もそうですし、明後日、もし同じようにそのバイトに出かけたら、やっぱりそのあいだのアリバイはなくなってしまいます」
「なんだか怖くなってきました」
野間くんが、心細そうな声で言った。立派な体格をしているのに、どうもあまり度胸は据わってないらしい。
「ぼく、どうしたらいいのかな」
「大丈夫です!」と、涼子。こちらはまた、根拠のない自信に満ち溢れているようだ。
「この秋月涼子に、お任せください。あらゆる可能性を考慮して、万全の手を打ちますわ! ただ……」
そこから少し声のトーンを落として
「前回のバイト料の三万円は、あきらめてもらわなければいけません。そのお金は、森亜先輩に返さなければいけないと思いますの。だって……誰にも話さないっていう約束で引き受けたんでしょう? その約束を破ってしまったというのは、放っておくと野間くんの弱みになってしまいます。きっちり返しておいたほうが、あと腐れがなくて安心ですわ」
「返します、返します」と、野間くん。
「もちろん、その埋め合わせはちゃんといたします。事件解決のおりには、蘭子先輩からたっぷり報酬がいただけることになっているんですの」
そうなのか?
「ですから……」と、涼子は今度は朗らかな声で続けた。
「片が付いた暁には、協力費としてあたしから野間くんに、三万円さしあげますわ」
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翌々日の午後六時すぎ。真琴さんは、涼子の用意したクルマ――営業車っぽい白のセダン――の中にいた。クルマはコンビニの駐車場に停めてある。斜め前には、野間くんの住むアパートが建っている。これから、野間くんを迎えにくるという、例の二人組のミニバンを尾行する予定なのだ。
真琴さんは、自分の古い軽自動車を使うつもりでいたのだが。その案は涼子に却下されてしまった。
「だって、お姉さま。あのクルマ、しばらく走っていると動かなくなるじゃありませんか」
たしかに、以前はそうだった。しかし先日、和人くんにプラグを換えてもらってからは、その症状はだいぶ緩和されている。真琴さんがそう言うと、涼子は――
「でも、今回の尾行では失敗は許されません。やっぱり万全の用意をしたほうが安心です」
クルマの中には、涼子のほかに二人の男性がいた。涼子の話では「手伝い」のために来てくれた人だという。
一人は四十歳くらいに見えるがっしりした体格の人で、山下さんという。この人が運転を担当するらしい。真琴さんは、そのすぐ後ろの後部座席に座っている。もう一人は、やはり後部座席、真琴さんの隣に座っている男性で、大牟田さんと名乗った人物。こちらは頭がはげあがっていて、もう六十すぎのように見える。
涼子は、助手席に腰かけている。真琴さんから見て斜め前、しかも背中を見せている格好なので、少し話しかけづらい。二人の男性についてもっと詳しく聞きたかったのだが、その機会がうまくつかめないうちに、尾行は始まってしまった。
六時二十分くらいに、アパートの前の路上に白い大きなミニバンが止まった。中から二人の若い男――なるほど聞いていた通り、いかにも大学生という感じ――が出てきたところを見ると、これが例の迎えのクルマにちがいない。数分すると、野間くんが現れた。二人の大学生が左右から腕をとるようにして、ミニバンの後部座席に導く。しばらくすると、そのミニバンは静かに走り出した。
「さあ、私たちも出発しましょう。ああ……そうそう。ナンバーも念のため、控えておきましょうね」
涼子がスマホを取り出してメモをしているうちに、こちらのクルマもゆっくりと動き始めた。
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しばらく行くと、少し大きな道に出た。かなり交通量が多く、相手のクルマとのあいだに数台の別のクルマが挟まってしまった。
「混んでるなあ。見失ったりしないかな」
真琴さんは涼子に話しかけたつもりだったが、返事をしたのは運転している山下さんだった。
「大丈夫です。少し混んでるほうが、かえってやりやすいんですよ」
ということは、経験者なのだろうか。続けて涼子が振り返り――
「それに、野間くんの靴にはGPSが仕込んでありますの。もし見失っても、それでだいたいの位置がわかりますわ」
「そうなんだ。昨日のあいだに用意したのか」
「あの……あの……」
涼子は、妙にもじもじして言った。
「実は、前から持っていましたの。だって、ほら……いずれ必要になるものですし……」
その言葉には、微かに嘘の気配が漂っている感じがした。真琴さんは、涼子の噓――というのが大仰すぎるならば、ちょっとしたごまかしのようなもの――には、敏感なのだ。最近、SM調教が進むにつれて、ますますその嗅覚は鋭くなってきたと、自分では思っている。
「ふうん」と、真琴さんは答えた。
だいたい、一昨日の夜から、涼子は変に秘密主義になってきていると思うのだ。森亜先輩の罠について「いろいろなバリエーションがある」と言っていたくせに、真琴さんがそれについて聞くと、「まだ確信が持てませんの」などと返事をする。だが、それは明らかに「涼子にお任せください」と大見得を切ったことと矛盾するではないか。そして今も、唐突にGPSの話が出てきた。なんだか怪しい。
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白いミニバンは三十分ほど走り続けたが、大学の周りをルートを変えながらぐるぐると回っただけで、それほど遠くまで行ったわけではなかった。辿り着いたのは、野間くんのアパートとは大学を挟んでちょうど反対側に位置する、とあるマンションの地下駐車場だった。
ミニバンから野間くんたちが出てくるのを確認すると、真琴さんたちもクルマを降りた。ただ運転手役の山下さんだけは、そのまま残っている。
「山下さんは、このままクルマをマンションの入り口のところまで移動して、そこで待っていてくださいね」
涼子はそう言うと、トコトコと歩き出した。真琴さんがすぐあとに続き、大牟田さんと名乗った六十絡みの男性は、少し離れてついてくる。
「あら、野間くんじゃありませんか」
いきなり涼子が、大きな声でそう叫んだ。ちょうど二人の学生風の男たちが、野間くんの目隠しをはずそうとしているところだった。
「こんなところで。奇遇ですわねえ。あら、それ……今まで目隠ししていらっしゃったの? なにかゲームでも? お連れのお二人は、どなたかしら。紹介していただけます?」
涼子は、次から次へと言葉を吐き出しながら、近づいていく。野間くんの側にいた二人は、ぎょっとしたように立ちすくんだ。――と、野太い声がした。
「目隠し? 君たち、なんか怪しいな。まさか拉致では……」
大牟田さんの声だった。大牟田さんは涼子を追い越して、ずんずんと歩き始めた。年齢の割には、すごい迫力だ。
「まあ、拉致ですって。大変!」
涼子も金切り声をあげたが、こちらは少しわざとらしい。
「君たち、ちょっと話を聞かせてもらえるかな。私は、こういうものだが……」
手帳をちらりと出して見せるような動作をする。本物の刑事なのだろうか。だが、二人の若者は、もうそれをろくに見てもいないようだ。
「いや、ぼくたちはなにも……」
「あの……頼まれただけなんで、ほんとに……」
そんなことを言いながらミニバンの中に駆けこむと、エンジンをかけ、急発進して逃げ出してしまった。
「追わなくていいのか」
そう言った真琴さんに、涼子は
「かまいませんわ。本人たちも言っていたように、頼まれただけなんだと思います。それよりも、さあ……問題の512号室に参りましょう」
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野間くんが言っていたように、鍵はかかっていなかった。涼子を先頭に、真琴さん、野間くん、大牟田さんの順序で中に入る。手前にLDK、その奥に二つの部屋のドアが並んでいるというのも、先日の話の通りだった。
真琴さんは、周囲の壁や、いくつかの空っぽの棚を見まわした。予想通り、あちこちに小さなスピーカーが備えつけてあるのを見つけた。だが、まだそこから声は聞こえない。
涼子は、まず右の部屋のドアを開けた。前回、野間くんがそこで上半身裸になって、ポーズをとらされたり、体操をさせられたりした部屋だ。聞いていたように、床には一脚の椅子、そしてダンベルが二つとバレーボールが転がっていた。
「金庫があったっていう押し入れは?」
涼子の言葉に、野間くんが部屋の右奥にある縦長の扉を指さす。
「開けてごらんなさい。きっともう、金庫はありませんから」
そうなのか?
野間くんのあとについて、真琴さんが覗いてみると、涼子の言ったとおり、金庫は見当たらなかった。ただ、白い封筒が一つ、上の段にぽつんと置かれていた。真琴さんは、中を確かめてみた。
「三万円、入ってる。ということは、ちゃんとバイト料を払うつもりだったのかな」
女の忍び笑いが聞こえてきたのは、そのときだった。続いてこんな言葉が……。
「あら、教授。やっぱり、あの二人、やってきましたよ。……新宮さん。その封筒は、返してくださいな。そのお金は、あなたのものじゃありませんから」
真琴さんは、持っていた封筒を元の場所にもどした。そのあとに、また別の女の声がした。
「おじさまも、お一人、ついてきているようですね。秋月のお嬢さまのボディガードかしら」
どうやら、女は二人いるらしい。どこかにカメラが仕掛けられていて、それを通じてこちらを見ているのだろう。隣の部屋にいるのだろうか。
真琴さんは、急いでそちらの部屋に行ってみた。だが、そこは完全な空き部屋になっていた。家具らしきものは一つもない。もちろんダンベルだのボールだのもなかった。
涼子が言った。
「お姉さま、その部屋には誰もいませんわ。きっと、同じマンションの別の部屋で、私たちの姿を見ているんです」
「ご名答」
今度は、男の声だ。さっき「教授」と呼ばれていたから、これがきっと、聖風学園大学のモリアーティ教授こと、森亜貞一先輩なのだろう。
16
「森亜先輩ですか」と、涼子が問いかける。
「そうです。初めまして」と、相手は答えた。この部屋にもどこかに――たぶん押し入れの中だろう――スピーカーが隠してあるようだ。音量はそんなに大きくない。
「あなたの企みは、この秋月涼子が、すっかり見破りましたわ!」
「ぼくの企み? いったい、どんな企みです?」
真琴さんはまだ、森亜先輩という人に会ったことがない。噂に聞いているだけだ。今初めて聞くその声は、男にしてはやや音程が高く、まろやかな響きを持っていた。声だけの印象では、なんだかとても優しそうだ。
「今、ちょうどこの時間に、どこかで盗難事件が起きるんですわ」
涼子が話し始めた。
「その盗難事件というのは、先週、野間くんがさわった金庫から、お金か宝石か……とにかくなにかが盗まれてしまうというもののはずです。その金庫はたぶん個人の持ち物ではなくて、どこかの施設のものだと思います。それで、その事件が警察に届けられると、金庫には野間くんの指紋がべったりついています。だって、先週、自分でその金庫を開けたんですものね。ついでに、ちょっとした嘘の目撃証言なんかがあれば、野間くんはすっかり犯人だと思われてしまいます。なぜなら、もしこんなふうに、あたしたちがついてきていなかったら、野間くんは自分のアリバイが証明できないんですもの。とってもよく考えられた企みですわ。でも、それも今となっては無駄です。この涼子とお姉さまの二人が、野間くんのアリバイを証言できますし……それだけじゃ足りないっていうのなら、ほら……ここにいらっしゃる大牟田さん。この方は、元警察官の方ですのよ。証人としては、文句なしですわ」
涼子はそこでいったん口を閉じ、呼吸を整えるような仕草をした。それを見て、真琴さんはなんとなく、涼子はそれほど自信を持ってはいないのではないか、と思った。いつもより、ほんの少しだけ不安そうなのだ。
だが、涼子はさらに声を高くして続けた。
「涼子、昨日一日、一生懸命に考えましたの。そして、これしかないっていう結論に達したんです。そして、もし涼子の考え通りだったら、今日は押し入れの中に金庫は入っていないはず。だから、最初に金庫があるかどうか、確かめましたのよ。すると、どうでしょう。やっぱり金庫はなくなっていたじゃありませんか。いかがです? 森亜先輩。涼子のこの推理、当たっているはずですわ」
「さあ、どうだろう」
森亜先輩の声は、微かな笑いを含んでいた。
「当たっているとも、そうでないとも、今は言いたくないなあ」
「ということは、当たっているんだよ」
真琴さんは、涼子の肩をそっと抱くと、森亜先輩にもちゃんと聞こえる程度の声で、はっきりと言ってやった。どこか不安そうな涼子を、支えてやろうと思ったのである。
「はずれていたら、本当はそうじゃない、こうなんだって言うはずだもの」
「まあ、お姉さま。ありがとうございます」
涼子は、嬉しそうに身体を寄せてきた。
「いや、仲間うちで、そんなふうに決めつけられても、困ってしまうな」
森亜先輩は、短い笑い声をあげた。その笑い声に対抗するように、涼子がまた声を張り上げた。
「忘れるところでしたわ。前回、野間くんがいただいた三万円、お返しします。ほら……この椅子の上に置きますから、よく確認なさって」
そう言うと、バッグから封筒を取り出し、中の三万円をかざして見せてから再び封筒の中に入れ、それを椅子の座面の上に置いた。
「いや、それは返してもらう必要はないよ」
「いいえ、誰にもしゃべらないという条件を破ったわけですから、これはお返しいたします。その代わり、野間くんにはもう、二度と変な悪戯をしかけないでください」
「大丈夫。ぼくも、この春からは東京に行く予定だし、君たちにかまう機会もなくなるよ」
17
「それにしても……」と、今度は真琴さんが問いかけた。
「どうして、こんなくだらない悪戯をしたんですか。うちのミス研の萩原くんも悪戯好きですけど……少しちがいますよね。森亜先輩には、なんだか悪意を感じます。私と涼子の偽者を出したりして……」
また、さっきの女たちの忍び笑いの声が流れてきたが、真琴さんは、それにはかまわずに話し続けた。
「もしも、最初の企みがうまくいかなかったら、今度は私と涼子が疑われるという計画だったんでしょう」
「さあ、どうかな?」
「やっぱり、和人くん……萩原くんに、サークルでしたっけ? そんなのをいくつか潰されちゃった仕返しですか」
「たしかに、あれはちょっと癪にさわったね。もう少し稼がせてもらおうと思っていたんだが……でも、大学院の学費もできたことだし、潮時だったかもしれない」
「レイプ事件まで起きたって聞きましたよ。それに、ノルマをこなせない子を風俗で働かせたって……やりすぎじゃないんですか」
「あれは、ぼくには直接の関係はないことだ。ぼくは仕組みを作ってやって、法的な助言を与えて、その報酬を受け取っただけのことでね。実際の運営は、別の人間がやっていたんだ」
「それでも、自分がかかわったサークルがそんなことになって、気が咎めたりはしないんですか」
「しないなあ」
「どうしてです?」
「多少は、復讐心のようなものも働いているのかもしれない」
「復讐心?」
「そう」と、森亜先輩の声は、少し暗くなった。
「新宮さん。君もたしか、学費全額免除の特待生だったはずだね。だとしたら、わかってもえると思うんだが……この大学の普通の学生ときたら、なんて言ったらいいのかな……ひどくぼくら特待生に対して、差別的だとは思わないか? 貧乏人がただで大学に来て、私たちの月謝を泥棒している。そんなことを、君も言われたことがあるんじゃないか」
「ありますね。もっとひどいことを言われたこともあります」
「それで、そんなとき、どう思う?」
「まあ、やっかんでいるんだろうなあって、思うだけですよ。昔から、似たようなことは、よく言われてきましたし」
「君は、美貌の持ち主だから、平気でいられるのかもしれない。たしかに君は、美人だ」
「はあ。自分でもそう思います」
森亜先輩は、また短く笑った。
「ぼくは、外見がきわめて劣悪でね。そのせいでコンプレックスがあるのかもしれないな。それで、少しばかり意地の悪いことをしてみたくなるのかもしれない」
「それにしても限度があるでしょう。相手だって、たとえバカだとしても一人の人間なんですから、追い詰めて風俗に沈めるとか、レイプされてもこっちは知らないとか……あまり立派な態度とは思えません。少なくとも、相手の人間性を尊重しているとは言えませんよね」
「でもそれは、君も同じでは?」
真琴さんは、少し返事に困った。このまま会話を続けていくと、痛いところを突かれることになるのでは? そんな予感がちらりと心をかすめた。
「なぜです?」
「だって、君と秋月さんは同性愛者で、SM関係にあるっていう噂だけれど……」
そういう質問には、お答えできません。そう言おうとしたら、邪魔が入った。涼子が大声で、こう宣言してしまったのだ。
「そのとおりですわ! お姉さまは、涼子のご主人様なんですの!」
「SMというのは、人間の尊厳を踏みにじることを目的とするのでは?」
森亜先輩の声が、ゆっくりと言った。
「ちがうかい?」
「まあ、私たちのやっているのは、ほんのお遊びですから」
「あら、涼子は真剣に……」
真琴さんは、涼子の口をそっとてのひらでふさいだ。そして、腰に腕を回して引き寄せ、耳元に小声で囁いてやった。
「それは、私と涼子だけの秘密だよ」
「まあ」
涼子は真琴さんの顔を見上げ、頬をうっすら上気させた。
「ぼくも、お遊びをやったというわけさ」と、森亜先輩。さらに言葉を継いで――
「じゃあ、新宮さんが女王様で、秋月さんが奴隷というわけだね。でも、実際のところは、どうなんだろう? ひょっとしたら、新宮さん。君が、秋月さんに飼いならされているのでは?」
そうかもしれない。真琴さんは、予感していた危ないところまで追い詰められたような気がした。以前から、しばしばそんなことを思うときがあったのだ。飼いならされているのは――人間としての尊厳を奪われつつあるのは、自分のほうかもしれない、と。
だが、涼子は平然としたものだ。
「森亜先輩って、変なことおっしゃるのねえ。まるでピントがずれてますわ。とっても優秀な方だってうかがっていましたけど、お勉強のしすぎで、常識がわからなくなってしまわれたのかも。Sのお姉さまが、Mの涼子を支配なさっている。それが当り前じゃありませんか。……さあ、もう用事は全部済みました。お姉さま? それに野間くんに、大牟田さん。これで切り上げることにいたしましょう。涼子の推理がぴったり当たって、とってもいい気持ち。では、森亜先輩。それから、正体のわからないお二人の女の方。ごきげんよう」
そう言うと、涼子はトコトコと歩き出した。真琴さんたちも、慌ててあとを追った。モリアーティ教授は、また短い笑い声をあげたようだった。
18
その夜。真琴さんの部屋でのこと。
涼子は今夜も裸にされている。ただし、今はベッドのそばにひざまずくのではなく、部屋の中央で、一冊の本を両手で高くかかげて、まっすぐに立っている。これは、バレーボールを持って立たされたという野間くんの話からヒントを得た、新しいSM遊びなのだ。
「さあ、涼子。そのままの格好で、告白しなさい」
「告白って……なにをです? お姉さま」
「なにか、私に隠していることがあるでしょう? そうそう。話の糸口がつかめないんだったら、私が作ってあげる。まず、あの山下さんと大牟田さん。あの二人は、だれなの? あんな人たちを連れてくるって、一言も聞いてなかったよ」
「さすがは、お姉さま。なんでもお見通しですわ」
「お世辞を言ってもダメ。お見通しでないから、聞いてるんじゃないか。あの二人、どういう人なの?」
「実は、お姉さま……涼子、大学を卒業したら、探偵事務所を開くって言ってましたでしょう?」
「ん?」
なんだか話が妙なところに飛んだので、真琴さんは戸惑ってしまう。
「そうだね。それが?」
「実は、その探偵事務所、もうできてしまったんですの」
「どういうこと?」
「涼子、その話を先月、ちょっと祖父にしてみたんですの。そうしたら、祖父が善は急げだって言い出して……ああっ。もちろん、いきなり新しく会社を作ったわけではありませんのよ。もともと、あたしの地元に秋月興信所っていう、わが家の系列の会社があるんです。興信所って、探偵のようなことをする会社ですわ。お姉さま、ご存じ?」
「バカにするな。ちゃんと知ってるよ」
「それで、もう興信所があるんだから、その一部門として探偵事務所を作ればいいっていうことになって……本当は涼子、いろんな手続きとかも勉強を兼ねて、自分でやってみたかったんですけど……祖父がなにもかも勝手にやってしまって……さあ、お前の探偵事務所ができたよって……それで、涼子、その事務所の所長ということになってしまったんですの。本当に、うちの祖父は、涼子に甘くて困ってしまいます」
「はあ」
「それで、あのお二人……山下さんと大牟田さんは、その所員なんですの。例のGPSも、もともと秋月興信所にあったものを借りてきたんです。もちろん、事務所ができたっていっても、今はまだ独立して会社にしたわけではないので、本格的に始動するのは、涼子が大学を卒業してからということになってますの」
「なるほど。そういうわけか」
「ごめんなさい。でも、告白して、涼子、すっかり気持ちが楽になりました。いつ言おうか、いつ言おうかって、ずっと悩んでいましたの。お姉さま、許してくださいます?」
「まあ、私は別にそんなことで、怒ったりしないけど……」
「ありがとうございます。お姉さまって、とってもお優しいですわ……ところで、この本、下におろしてもよろしいでしょうか。もう、腕が疲れて、落としてしまいそうです」
「まだダメ。それにしても、その姿勢、とてもいいわねえ。腋がすっかり見えるところが、私の好み」
「そんな……」と、涼子は恥ずかしそうに微かに身をよじった。
「じっとして。それに、本を落としたら許さないよ。もし落としたら、厳しい罰をあげるんだから」
「お姉さまって、とっても意地悪ですわ」
涼子は、たった今言ったことと、まるで反対のことを言った。その声は、そろそろ甘い蜜に濡れ始めていた。
◆おまけ 一言後書き◆
次回も「どえむ探偵秋月涼子」の話にする予定です。ただ、このところ掌編というには長すぎるものが続いているので、次はピリッと短いものにしたいなあ、と思っております。(あくまで予定です。)
2021年2月17日
美咲凌介(みさきりょうすけ)
1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。
初出:P+D MAGAZINE(2021/02/25)