『国家』(プラトン)再び 前編――LGBTとソクラテス問題とアルキビアデスと妻子共有論|SM小説家美咲凌介の名著・名作ねじれ読み<第17回>

大好評連載の第17回目。SM小説家の美咲凌介が、名だたる名著を独自の視点でねじれ読み! 今回は、第10回に続き、再びプラトンの『国家』に注目! 両性愛者だったソクラテスの話を通して、いま話題のLGBT問題を考えます。

杉田水脈氏のLGBT発言

国会議員である杉田水脈氏が月刊誌に寄稿した文章の中で、「LGBTのカップルは子供を作らない、つまり『生産性』がない」、「LGBTのカップルに税金を使うことに賛同が得られるだろうか」などと発言して話題になっている。

わたしも一応、件の文章全体を通読はしたので、大雑把な感想だけを以下に述べておくことにしよう。

杉田氏は、「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか」と疑問を発しているが、それに対してわたしは次のように答えたい。――LGBTのカップルのために税金を使うことには、大きな意義がある。特に、LGBTに対する差別意識を日本社会からなくすための啓蒙活動や、彼らの生きづらさを解消するための制度改革のために税金を使うことの意義は大きい。

というわけで、わたしは杉田氏の発言に対して批判的なのだが、その批判を展開するのは、この稿の目的ではない。

また「ねじれ」たことを考えた

「ではいったい何を言いたいのだ!」とおっしゃるか。わたしの言いたいのはですねえ、この杉田氏の発言を読んでプラトンの『国家』を思い出し、それをまた読み返しているうちに、例によっていろいろと「ねじれ」たことを考えた、ということなのですよ。

以前、プラトンの『国家』をネタにした(『国家』(プラトン)――SM小説家はもれなく性差別主義者なのか)ときは、「歴史上初めて性差別に反対したのはプラトンだ!」という話をした。しかし、それとは反対に、『国家』には「人間を金の人、銀の人、銅の人という三種類に分ける」といった、ある意味きわめて差別的なことが書かれている。また、ソクラテスは、LGBTで言えば「B」すなわち両性愛者だった。今回は、そんな話を書きたいと思うのです。

プラトン――などと言うと、「お前、わかって読んでいるのかよ?」と返されそうで、少し心配である。わたしは小説を読むように、ごく気楽にプラトンの対話篇を読むにすぎないからだ。たぶんわたしは、プラトンの描くソクラテスの姿が好きなのだろう。若いころは、「ああ、ぼくも一度ソクラテスに会ってみたい」と、読むたびに思っていたものである。

ソクラテス問題

もっとも、わたしが好きなのは、プラトンの初期対話篇に登場するソクラテスである。プラトンは数十年にわたってソクラテスの登場する対話篇を書き続けたわけだが、そこに登場するソクラテスの姿は、次第に変化していく。

一般に、初期の著作に登場するソクラテスは実在のソクラテスに比較的近く、中期ではプラトンの思想の深まりとともに実在の姿から次第に遠ざかり、後期に至るとソクラテスの役割は小さくなってしまう、と言われている。

「実在のソクラテスとは、どんな人間だったのか」という問題は、「ソクラテス問題」と呼ばれる。ソクラテスが実在していたことは、ほぼ疑いようのない事実。だが、いったいどのような人物だったのか、という点については明確な答えが出ない。

その理由の一つは、ソクラテスが自分では著作を残さなかった、ということにある。つまり、本人による証言がないのである。もう一つの理由は、今度は反対に証言が多すぎる、ということにある。ソクラテスについては多くの人が語っているのだが、その証言が相互に矛盾しているように見えるのだ。(たとえば、アリストファネスの描くソクラテスは、屁理屈の巧いペテン師。クセノフォンの描くソクラテスは、軍人の理想像のような質実剛健・堅忍不抜の人物。そして、プラトンにおけるソクラテスの姿は、その著作の成立時期によって微妙に異なる。)だから、わたしが「ソクラテスが好き」と言うと、「いったいお前は、誰の描いたどんなソクラテスが好きなのか? そして、そのソクラテスの姿は実在のソクラテスのものなのか?」という、ソクラテス問題が関わってくるというわけ。

で、結論を言うと、わたしが魅力を感じるのは、プラトンの初期対話篇に出てくるソクラテスであって、中期になると少し話が違ってくる。なんというのか、「ソクラテスよ、あなたも偉くなったものですねえ」と、嫌みの一つも言いたくなってしまうのである。

もっとも、プラトンの初期対話編で描かれるソクラテスと、中期対話篇で描かれるソクラテスが「何から何まで違っている」というのでは、もちろんない。初期、中期に共通するソクラテス像としては、以下のような点が挙げられる。

容貌は醜い。ものすごく頭がよい。超貧乏。困苦に耐える力が超人的。戦争時の兵士としても有能。美少年好きであり、かつまた美少年たちからモテモテ。

この「美少年好き」という点がLGBTに関わってくる。ソクラテスの生きていたころのギリシャでは、男性同士の恋愛は普通に認められていた。中には大いに推奨する人もいたようである。

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アルキビアデス

ソクラテスと親しかった美少年としては、アルキビアデスという人が有名である。この人もずいぶんおもしろい人で、ペロポンネソス戦争が膠着状態に陥って和平の機運が高まったとき、政界に進出したらしい。彼は主戦論をぶちかまして民衆を煽りに煽り、若き司令官として戦闘に参加する。ところが、政敵からの批判によって帰国命令が下ると、あっけなく敵国スパルタに寝返ってしまうのである。

それだけでも大変な食わせ者という感じがするが、実はこれはほんの手始めにすぎない。次は、寝返った先のスパルタの国王の妃と、なんというのか、いわゆる不適切な関係を結んで(本当かどうかはわからないが、そんな疑いをかけられるほど性的魅力に富んだ人物だったのだろう)、結局はスパルタにもいられなくなり、次はペルシアに亡命する。

その後、アテナイの政変を機にいったん祖国に戻って再び戦争指揮官となるものの、今度は敗戦の責任を逃れようと、トラキアに亡命。最後はその地で何者かによって殺害されるという、波乱万丈の裏切り人生を絵にしたような人物である。

青春狩とは?

このアルキビアデスが少年時代、実にすばらしい美少年であったらしい。そして、ソクラテスは彼を愛し、また彼もソクラテスに強く傾倒していたと言われる。たとえば、『プロタゴラス』の冒頭には、次のように書かれている。(とりあえず手元にある岡田正三訳の『プラトーン全集』の一冊から引く。)

友人 どちらから、ソークラテース。いや無論アルキビアデースの青春狩をしてきたんだね。おとといも見かけたが相変わらず美男子のように見えたっけ。しかし、ソークラテース、ここだけの話だがもう大人だよ。それにあごひげも濃くなりかけているし。
ソークラテース それでそれがどうした。君はホメーロスの讃美者じゃないか。彼は言ったよ、いとも妙なる青春はひげはえそめし人のものと(オデュッセイア篇一〇の二七九など)。アルキビアデースが今それだ。(『プロータゴラース』岡田正三訳)

青春狩ですと? わたしには古代ギリシャ語がわからないので、この語が具体的にどんな行為を指すのかもわからない。が、少なくともはじめて読んだとき、わたしはこれを性的な肉体関係のことだと想像した。つまり、まあ、いわゆる「本番行為」なるものだろうと想像したわけ。

ソクラテスには妻子のいたことがはっきりしている。ということは、ソクラテスはLGBTで言えば「B」つまりバイセクシャル(両性愛者)ということになりますな。

しかし、そうではないのかもしれない。というのも、同じプラトンが書いた『饗宴』には、次のような話が載っているからである。アルキビアデスは、ソクラテスを含む饗宴の客たちに、かつて自分のほうからソクラテスに関係を迫ったことを告白し、次のように語ったという。

そこで僕は立ち上がり、彼にはそれ以上ひと言も語る暇をあたえず、僕の外套(コート)を彼の上にかぶせ――その頃は冬だった――彼の外套、今ここに諸君もご覧の、彼のすり切れた外套の下に身を横たえ、真に神のごとく驚嘆すべきこの人を腕に抱き、そうした格好のまま、ひと晩じゅう横になったのだった。ところで、ソークラテース、この話も僕がいつわっているとはおっしゃいますまい。さて、かくも僕は振舞ったわけだったが、この人は、げにも鮮やかに僕を負かしてしまった。つまり、僕の若さの美を、軽蔑し、冷笑し、歯牙にもかけぬありさまだったのです。――しかも、その若さの美にかけては、裁判官諸君、僕は自分を相当にすぐれていたものと考えていたのだ。いや、裁判官諸君、などと言うのもほかではない、諸君は、ソークラテースの傲りを裁いていただく裁判官ですからね! さあ、その諸君に、神にかけ女神に誓って、とくと知ってもらいたい――僕は、ソークラテースと一緒に、一夜を眠ったあとで起きたわけだったが、何のことはない、父や兄と一緒に眠った場合と、何ひとつ違ったことはなかったのでした!(『饗宴』森進一訳 ただし一部のルビは省略。)

本番――やってないね。

もっとも、これはプラトンの書くところが首尾一貫していて矛盾がない、という前提に基づいた話である。もし、そうでないと仮定すれば、実は「青春狩」はやっぱり本番行為を指す、という可能性も捨てきれない。

つまり、プラトンはソクラテスを、『プロタゴラス』においては美少年と本番行為をやっちゃうような人物として描いた。だが、『饗宴』では、美少年から誘惑されても応じることのない謹厳実直な人物として描いたのだ――とも考えられるのである。そして、『プロタゴラス』は初期対話篇に属し、『饗宴』は中期対話篇に属す。

というわけで、話は、プラトンの初期対話篇と中期対話篇のソクラテス像の違い、すなわちソクラテス問題に戻ってくる。そして、その(わたしの感じる)違いを一言で言えば、中期対話篇のソクラテスは、初期に比べて「なんだか偉そうで、妙に道学者っぽく、なにより自己主張が強すぎる」のである。

無知の知

ソクラテスと聞いて、多くの人がすぐに思い浮かべる言葉は、「無知の知」というやつではないか?

「多くの人は、本当は大切なことについて何も知らないくせに、知っていると思いこんでいる。しかし、わたしは、それらについて自分が何も知らないということを知っている。したがって、ただその一点においてだけ、わたしの方が知者であると言える」という、例の「無知の知」。プラトンの初期対話篇に出てくるソクラテスは、まさにその「無知の知」を前面に押し出している人物なのである。

初期の対話篇のストーリーは、だいたい同一である。ソクラテスがだれかと出会う。そして対話が始まるのだが、ソクラテスは「なんと! 君は〇〇について知っているというのかね。それはありがたい。ひとつ、わたしに教えてくれないか」といった具合に、話を始める。(この「〇〇」には「正義」なり「勇気」なりの、いわゆる徳目が入ることが多い。)それに対して、相手が「〇〇とは、△△だ」と説明すると、彼は「そりゃ、いいことを教えてくれた」と言いつつ、あれこれと質問を始める。相手はその質問に次々と答えていくわけだが、いつしか議論は袋小路に入り込み、最初の説明が誤りだったことが判明してしまう。最終的にソクラテスは、「わたしも無知だが、君も無知だったようだね。では、また会おう」といった捨て台詞を残して去っていくわけ。(いや、まあ、いつも「去っていく」というわけではないが。)

もちろん、以上はごく大雑把な括りであって、実際には作品ごとにさまざまな違いがあるのだが、とにかくそこに共通しているのは、原則としてソクラテスは、自分から積極的に「〇〇は△△だ」という主張をしない、という点である。つまり、ここでのソクラテスはほぼ一貫して批判する者であり、より強く言えば、否定する者である。彼は、あらゆる命題を否定する。お偉いさんがもったいぶって持ち出す命題も、ソフィスト(知者)と称する人々の持ち出す命題も、そして可憐な美少年が一生懸命考えて答える命題も、すべてきれいに否定してしまう。そして彼は言う。「わたしは何も知らないが、君も同じだね」

わたしの好きなのは、そのようなソクラテスである。

A photo by Thomas Kelley. unsplash.com/photos/hHL08lF7Ikc

ご立派になってしまったソクラテス

けれども、中期対話篇になると、ソクラテスはもっと積極的に自説を語るようになる。なんだか妙に「建設的」になってしまうのだ。同時に、ソクラテスのキャラクターも少し変化して、皮肉なところ、人を食ったようなところ、そして「美少年大好き、美少年がいるところなら、どこにでも行くよ!」といった、一種の軽さも失われてしまったように感じられる。要するに、ご立派すぎて「なんだかなあ」という気分にさせられてしまうわけである。

『国家』は、そんな「ご立派さ」が、最も強く出てしまっている作品ではなかろうか。「じゃあ無理して読むことはないじゃん、好きな初期対話篇だけ読んどけや!」という声が聞こえてきそうだが、そうもいかない。なぜなら『国家』は、これがまた、むやみにおもしろいから――である。わたしにとって『国家』は、「愛憎半ばする」というか、「いやよいやよも好きのうち」というか、まあそんな感じの妙に屈折した気持ちにさせられる一冊なのだ。

わたしがこの本をどんな具合に楽しむかというと、好きでもあり、嫌いでもあるプラトン中期のソクラテスに対して、「それは無理でしょ、ソクラテス」とか、「ああ、ソクラテス、あなたはそうおっしゃいますが」などとツッコミを入れては、相手の答えを想像する、という楽しみ方である。

「妻子の共有」論

中でもわたしが最も強くツッコミたくなるのは、やはりソクラテス語るところの「理想国家」における、「妻子の共有」という制度についてである。(藤沢令夫の訳では、「妻女と子供の共有」という表現がされているが、この場合の「妻女」とは「妻」という意味。)

この「妻子の共有」については、先日、ちょっとおもしろい体験をしたので、ふれておきたい。わたしには、ある十代の知人(男の子)がいるのだが、この人が、プラトンの『国家』における「妻子の共有」について、ものすごい勘違いをしていたことが判明したのだ。「プラトンの『国家』では、政治家はハーレムを共有してるんですってね」などという、ハーレム型SM小説の作者であるわたしにビンビン響くようなことを言い出したので、実にびっくりした。

どうやら、「妻子の共有」というのを、国の支配者の集団が大勢の美女を従えていて、それぞれ好きなときに好きな相手を選んでは性行為をし、その結果生まれた子供は、一つの大家族のようにして共同で育て、ゆくゆくは支配者集団のあとを継がせる――というような想像をしていたらしい。学校の先生がまちがって教えたのか、それともその子が勝手に勘違いしてしまったのかは判然としないが、これはもちろんプラトンの描いた「妻子の共有」とは、全く違っている。

さて、『国家』を既に読んだことのある人には蛇足となるだろうが、わたし自身の復習もかねて、この「妻子の共有」とは、どのような制度なのか、また、その制度にまつわる付帯事項も含めて、ざっとまとめておこうと思う。カッコ内は、私の感想および解釈。

・現状のギリシャ神話は、神々による親殺し・子殺し・不倫などが語られているので、理想国家の神話としてはふさわしくない。

・そこで、新たな神話を作る。(でっちあげていいのか?)

・その神話では、「神が人間をつくるときに三種類に分けた」という話を入れる。

・その三種類とは、神が「金を混ぜ与えた人」「銀を混ぜ与えた人」「鉄と銅を混ぜ与えた人」の三種である。(以下、面倒なので「金の人」「銀の人」「銅の人」とする。)

・「金の人」は「保護者=支配者」(いわば政治家)となり、「銀の人」は「補助者=国防等で保護者を助ける人々」(つまりは軍人)となり、「銅の人」は一般国民として、「金の人」「銀の人」から支配される。

・現実には、「金の人」「銀の人」は、教育課程を通じて子供たちを観察し、様子を見て選び取られる。

・「金の人」「銀の人」には、男も女も含まれる。(女も政治家になれるし軍人になれる――というよりも、ならなければならない。)

・「金の人」「銀の人」は、原則として貨幣をはじめとした私有財産を持ってはならない。(当然、個人的な買い物などは一切できない。)

・「金の人」「銀の人」への国家からの報酬は、必要とされる食料の現物支給のみである。(衣服については記述なし。)

・また、彼らが共同生活をする宿舎において、鍵のついた住居や倉は所有してはならない。(プライバシーは認められない。)

・以上のように制約の厳しい生活も、持って生まれた性質の優れた「金の人」「銀の人」は、喜んで受け入れるはずである。

・「金の人」「銀の人」には男女どちらも存在するので、グループ内で性行為を行う。

・その相手は、「すぐれた男たちはすぐれた女たちとできるだけ多く交わり、劣った男たちと劣った女たちは、その逆でなければならない」という原則に基づき、支配者たちによって定められる。

・支配者たちは巧妙なクジのようなものを用意し、補助者たちがペアの成立に不満を持たないよう工夫する。(インチキですね? インチキして政治家が軍人をだますのですね?)

・最も劣った男たちと最も劣った女たちとの間に生まれた子供たち、あるいはすぐれた男女の間に生まれた子供でも「欠陥児」であったならば、育ててはならない。「しかるべき仕方で秘密のうちにかくし去ってしまう」のでなければならない。(どうするの? 殺すの?)

・生まれた子供たちは、託児所のような施設に預けられ、教育される。(だれがだれの子であるかは、だれにもわからない。)

・教育課程において「銅の人」の素質しかないとわかったら、「金の人」「銀の人」のグループからは追放する。(その子は、一般国民として生きることになる。)

・反対に、「銅の人」同士の性行為によって生まれた子供に、「金の人」「銀の人」の素質があったら、それぞれのグループに迎え入れる。

ざっとまとめると、以上のような制度が、ソクラテスの語る「妻子の共有」である。女性の側から見れば、これは「夫と子供の共有」ということになる。

ソクラテスとの架空問答

一見してわかるように、これはもう明らかに、一種の優生学的思想である。背後に「ダメ人間は要らない!」という強烈な主張が感じられて、「ダメ人間」を自認するSM小説家としては、身震いするほどの恐ろしさを感じる――となりそうなところだが、実は、それほどでもない。

というのは、この「妻子の共有」がなされるのは、プライバシーも認められず、私有財産を持つことも許されず、ただ共同宿舎と日々の食料だけを現物支給されて職務に励む「金の人」「銀の人」だけに強いられる制度であって、一般庶民の「銅の人」には適用されないらしいからである。(どうやら、「銅の人」はダメ人間として、それなりに生きていくことが認められているようだ。)そして、売れないSM小説家であるわたしなどは、言うまでもなく「銅の人」であるから、決められた女と決められたときにしか性交ができない、などという目にはあわずにすみそうである。

と、ひとまず安全地帯に身を寄せて、改めてこの「妻子の共有」という話を眺めてみると、ツッコミどころ満載ではある。それを一口に言えば、「ソクラテス、これは無理でしょ?」ということになるが、ソクラテスは納得しないかもしれない。むしろ、日本が今、少子化に悩んでいるなどと聞いた日には、かえってこの制度を庶民にまで拡大することを勧めてくるかも。

「どうしてかね。少子化などは、この制度ですみやかに解決できるのではないかね。なぜ、子供が生まれないのか。それは、結婚をする男女が減り、また、結婚した人々も、経済的な事情などで多くの子供を作ることをためらっているからに違いない。それなら、国民は国家の定めた相手と定期的に交わるということにすればいいではないか。もちろん、その組み合わせは、『すぐれた男たちはすぐれた女たちとできるだけ多く交わり、劣った男たちと劣った女たちは、その逆でなければならない』という原則に基づかなければならないがね。そして、子供たちは等しく国家の子として共同託児所で育てればよい。もちろん、すぐれた子供たちは育て、劣った子供たちは育てないようにする。そうやって、すぐれた国民を増やしていくのだよ。国家を構成する国民ができるだけすぐれた者になるようにする。これこそが最も大切なことなのだから。」

さて、このソクラテスの言葉に、どう答えたらよいか。わたしとしては、ごく簡単に、こう伝えることにしようかとも思う。

「実はね、ソクラテス。かつてナチスドイツという国が、あなたの主張と似たようなことを言い出して、劣った者が生まれないように断種政策というものを試みたのです。そのとき、劣った者として排除された人々の中には、美少年を愛し求める、あなたのような同性愛者や両性愛者もいたのですよ。そして、今また、わが日本国の国会議員の中にも、同性愛者や両性愛者たちに税金を使うのはいかがなものか、と発言する人が出てきたのですが、ソクラテスよ、あなたはそれについて、どう思います?」

さて、この問いに彼がどう答えるか――それは今、この稿を読んでいる読者の方々のご想像にお任せしたい。

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プロフィール

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。

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初出:P+D MAGAZINE(2018/08/24)

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