『国家』(プラトン)再び 後編――詩人追放論と表現規制について|SM小説家美咲凌介の名著・名作ねじれ読み<第18回>

大好評連載の第18回目。SM小説家の美咲凌介が、名だたる名著を独自の視点でねじれ読み! 前回に引き続き、今回もプラトンの『国家』に注目! 「詩人は理想の国家から追放されなければならない」という、有名な「詩人追放論」を考察します。

詩人追放論とは?

今回は、前回と同様プラトンの『国家』を取り上げ、有名な「詩人追放論」について語りたい。

この「詩人追放論」というのは、「詩人は理想の国家から追放されなければならない」というお話。このとき(プラトンの描く)ソクラテスが念頭においている詩人は、『イーリアス』や『オデュッセイア』の作者とされるホメロスである。

みなさんご存知の通り、『イーリアス』や『オデュッセイア』は、詩と呼ばれてはいても、中身は長大な物語である。つまりソクラテスが「詩」というとき、それは現代における文学一般を指していると考えたほうが、おおざっぱな理解としては正しかろうと思う。

存在の三つの様態とその階層

ソクラテスが「文学(詩)を理想国家から追放しなければならない」と考える理由は、主に二つある。

一つは、それが「真実を描いていないから」というもの。「文学は人間の真実を描く」とは、しばしば言われることだが、ソクラテスは「文学は下手な模倣者にすぎない」と言う。

彼は家具の「寝椅子」を例に挙げ、「寝椅子の実相(エイドス・イデア)」と、「職人が実際に作る個々の寝椅子」、そして「絵に描かれた寝椅子」の話をする。(ここで、「エイドス」「イデア」をほぼ同じ「実相」という語に結びつけているのは、藤沢令夫訳の『国家』においても、そうなっているから。「エイドス」と「イデア」の同異については、専門家の間できっとやかましい論議があると思われるが、ここではひとまず、ほぼ同じ「実相」という言葉で表現されるものと解します。)

ソクラテスの主張によれば、最も強い真実性をもって実在するものは神が作った「寝椅子の実相(エイドス・イデア)」であり、二番目に真実性をもって存在するのが「職人の作った個々の寝椅子」、真実性から最も遠いものが「絵に描かれた寝椅子」なのだという。

「神が作った寝椅子の実相」などと聞くと妙な感じがするが、わたしとしては「神」はひとまず脇へおいて、これを「寝椅子の本質」と考えると、呑み込みやすくなるように思われる。つまり、「かくかくしかじかの機能を有する」という「寝椅子の本質」がまず存在する、というわけです。

なお、ふつうに考えると、まずもって存在するのは職人の作った「個々の寝椅子」であって、その「本質」なるものは、個々の寝椅子の性質を抽象した概念にすぎない――という批判が予想される。

しかし、これはそう簡単に断言もできなくて、おそらくソクラテスは、「いやいや、まず先に、寝椅子というものがどんなものかという実相を知らなければ、そもそも職人は寝椅子を作ろうとは思いもしないだろう。だから、実相のほうが第一義的に存在するのだよ」と反論してきそうである。このあたりの話もたいへんおもしろく、かつまた哲学を専門にしている人たちはそれぞれ卓見をお持ちであろうが、ここでは先を急ぐ。とりあえずソクラテスの話を聞いてみることにしよう。なお、文中、「彼」と呼ばれているのは、グラウコンという名の若者――プラトンの兄。

 「それでは、ここに三つの種類の寝椅子があることになる。一つは本性(実在)界にある寝椅子であり、ぼくの思うには、われわれはこれを神が作ったものと主張するだろう。――それとも、ほかの誰が作ったと主張できるだろうか?」
 「ほかの誰でもないと思います」
 「つぎに、もう一つは大工の作品としての寝椅子」
 「ええ」と彼。
 「もう一つは画家の作品としての寝椅子だ。そうだね?」
 「結構です」
 「こうして、画家と、寝椅子作りの職人と、神と、この三者が、寝椅子の三つの種類を管轄する者として、いることになる」
――略――
 「それではこの神のことを、われわれは、その寝椅子の『本性(実在)作成者』、または何かこれに類した名で呼ぶことにしようか?」
 「少なくとも正当な呼び名であることはたしかですね」と彼は言った。「この寝椅子も、その他のすべてのものも、神は本性(実在)的なものとしてお作りになったのですから」
 「では大工は、何と呼んだらよいだろう。寝椅子の製作者と呼ぶべきではないか?」
 「ええ」
 「では画家もやはり、そのような事物の製作者であり、作り手であると呼ぶべきだろうか?」
 「いいえ、けっして」
 「すると君は画家のことを、寝椅子の何であると言うつもりなのかね?」
 「わたしとしては」と彼は言った、「こう呼ぶのがいちばん穏当ではないかと思います――先の二者が製作者として作るものを真似る(描写する)者であると」
(藤沢令夫訳)

こうした次第で、ソクラテスによれば、画家は「作る者」ではなく「真似る者」であり、絵の持つ真実性は、「実相」、「個々の事物」に次ぐ、三番目のものにすぎないということになる。そして彼は、この「真似る」という点では詩(文学)も絵画と全くちがいはなく、どちらも理想国家内に存在する価値がない、と語る。

SMのイデアなんてあるの?

これはつまり、SMで言えば、こういうことですかね。第一に「SMの実相(イデア)」が存在する。これは最も真実性の強いものである。次に個々のSM的行為、たとえばSMクラブなどでのSMプレイが存在する。これは、二番目に真実性の強い存在であるから、理想国家のうちにおいても存在することを認めてやろう。しかし、SM小説などというものは、しょせん「真似るもの」にすぎず、真実性において三番目のものなのだから、国家の中に存在することは許されない――と、こういうことですか?

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文学は魂の低劣な部分に働きかける?

ソクラテスが、文学を理想国家から追放しなければならないと考える理由は、もう一つある。それは、文学は人間の「思慮(知)から遠く離れた部分(=感情的な側面)」に働きかけ、人間を非理性的にするから、という理由である。

立派な人物というものは、たとえば息子を失ったようなときでも、心中の悲しみを抑え、平静にそれを耐え忍ぶはずであり、それができるのは強い理性を持っているからである。それなのに、文学では、有徳であるはずの英雄たちが感情を爆発させ、泣き叫んだり怒り狂ったりする様子を描いている。これは精神の低劣な部分に訴えかける手法であり、こんなものばかりに接していると人間がダメになる――というのがソクラテスの主張。

 「ところで、感情をたかぶらせる性格のほうは、いくらでも種々さまざまに真似て描くことができるけれども、他方の思慮深く平静な性格はといえば、つねに相似た自己を保つがゆえに、それを真似て描くのは容易ではなく、またそれが描写された場合にも、そうやすやすと理解されるものではない――とくに、お祭りのときとか、劇場に集まってくる種々雑多な人たちにとってはね。なぜなら、そういう人たちにとっては、そこに真似て描かれているのは、自分たちの与り知らぬ精神状態だろうから」
 「まったくそのとおりでしょう」
 「だから明らかに、真似を事とする作家(詩人)というものは、もし大勢の人々のあいだで好評を得ようとするのならば、生来は魂のそのような部分に向かうようには出来ていないし、また彼の知恵は、けっしてその部分を満足させるようにつくられてはいない。彼が向かうのは、感情をたかぶらせる多彩な性格のほうであって、それはそのような性格が、真似て描写しやすいからにほかならないのだ」
(藤沢令夫訳)

SM小説家、神経を逆立てられる

さて、ここまで見てくると、SM小説家の端くれであるわたしが妙に神経を逆立てられるのも、おわかりいただけるだろう。

真理とくらべれば低劣なものを作り出す。――ええ、そうかもしれません。わたしの書いたものはといえば、まさに真理(イデア)からははるかに遠い、きわめて空想的なことばかりですからねえ。(それにしても、くどいようだが「SM」のイデアなるものは存在するのか?)

魂の低劣な部分と関係をもち、最善の部分とは関係をもたない。――そうなんです。息子を亡くしたときの悲しみどころか、わたしが作品で主に扱っているのは、性的な欲望に関係する部分で、一般には最も低劣な部分(必ずしもわたしはそう思わないが)と見なされがちな部分ですからねえ。

大詩人ホメロスまでが追放されてしまうのだから、もちろんSM小説家などは、ソクラテスの語る理想国家からは、まちがいなく追放されてしまう。もっとも、「いいじゃないか、大昔の本に書かれた、空想的な国家で追放されたって」という考えもあるにはある。けれども、このソクラテスの主張は、時代を越えていつまでも受け継がれてきているものではあるまいか。

現代日本の表現規制

現代の日本でも、性的なものに関わる表現規制については、かまびすしく議論され続けている。特に近年は、いわゆる小児性愛に対して厳しい。年端も行かぬ少年・少女を性的対象として消費するなど実に「気持ち悪い!」というわけで、なるほどそれはまことにもっとも。そうした嗜好をほとんど有さない(と思う)わたしなども、ついうっかり「そうだそうだ!」と賛同したくなるのだが、しかしよく考えてみると、そこになんだか危うさを感じてしまうのですね。

「気持ち悪い」表現をどんどん排除していったら、最後にはどうなるか。おそらく毒にも薬にもならないガラクタが残るだけだろう――と思いますな。そして、以前には「気持ち悪い」などと言われなかった者同士で、互いに「お前は気持ち悪い」「いや、お前こそ」と罵り合うことになるのでは?

というわけで、わたしとしては、ソクラテスの言い分には全く納得できない。そこで、これから弁明を試みたいと思う。『ソクラテスの弁明』ならぬ、『美咲凌介の弁明』というわけ。

美咲凌介の弁明

「ねえ、ソクラテス。あなたは今しがた、たいへん立派なお話をされましたが、わたしには、ちょっとだけ疑問に思うことがあるのですよ」

「おや、君は、突然現れたが、ぼくたちとは肌の色も、髪や目の色もちがうようだね。外国人なのかね」

「ええ。日本という国の者でしてね(未来から来たということは、話がややこしくなるので伏せておく)。ミサキ・リョースケといいます。どうぞ、リョースケと呼んでください。あなたのことは、ソクラテスとお呼びしてかまいませんか?」

「もちろんだとも。さて、リョースケ。君が疑問に思うというのは、どんな点についてなのかな」

「例の詩人追放論という考えについてですよ。というのも、わたしも、なんといいますか、詩人の作るものに似たようなものを作っているものですから」

「君は、詩人なのか」

「少しちがうのです。わたしたちの国には、小説というものがありまして、これは定型や定まった韻律を持たない、散文で書かれた物語のようなものですね。それを読者はたいてい家で、一人で読んで楽しむのです。みなさんが劇場に集まって、皆で悲劇や喜劇を楽しむのとはかなり異なりますが、小説は文芸の一種ですよ。ただし、わたしの書いているものは、その中でもちょっと変わった種類のもので、SM小説と呼ばれるものなのです」

「それは、どんなものなのかね」

「これも、いろいろなタイプがあるのですが、一例としてわたしが最初に書いたものの内容の一部をご説明しましょう。ここに一人の美しい少女がいるとしてください。」

「うん、いるとしよう」

「その少女が、もう少し年上の、やはり美しい女を脅迫して自宅に呼び寄せ、監禁するのです」

「なんと、それはよくないことだねえ。なぜ、少女はそんなことをするんだい?」

「その女に性的な欲望を抱いているからですね。しかし、単に性的に交わりたいというだけではありません。少女は、その年上の女を裸にして侮辱したり、鞭で打ったり、目の前で排泄させて嘲笑ったりするのです」

「なんとまあ、リョースケよ。バカバカしい、あきれた話ではないか。君は、そんなものを書いて恥ずかしくはないのか」

「まあ、少しはそんな気持ちもありますね。しかし、今は、わたしの気持ちのことはいったん横に置いて、あなたの理想の国家の話と関連づけて、この小説を考えてみたいのです。こんな小説を書くわたしは、あなたの理想国の中に暮らすことを許されるでしょうか」

「残念だが、リョースケよ。許されるとは、ぼくの口からは言えないね。なぜなら、君の書いたものの中に出てくるその少女は、正しい行いをしているとは言えないし、また、なんというのかねえ、君の作品は読者の魂の最も低劣な部分、つまり欲望の部分だけに訴えかけているように思われるからなあ」

「ソクラテス。あなたはさっき、立派な人物は息子が死んでも平静を保つ、とおっしゃいましたね」

「たしかに」

「その立派な人物は、悲しみの感情を感じていないのですか。それとも、悲しみの感情はあるけれども、それを心中に抑えこんでいるのですか」

「抑えこんでいるんだよ、リョースケ。雄々しい理性の力によってね」

「では、悲しみの心があるということ、これは事実ではないのですか」

「そういうものがあるということは、一つの事実だよ」

「そう、悲しみの感情自体は存在する。では、ソクラテス、そうした悲しみの存在を、さらには、その在りようを伝えるには、それを表現しなければならないのではありませんか。詩によって」

「その意見については、二つの理由で反論が考えられるね。一つは、そのような自然な感情は、別に詩人がわざわざ教えなくても、みんなが既に知っているということ。そして、リョースケ、もう一つは、そのような悲しみに押し流され、思慮分別を失うのは、人間の真実の在り方、つまり、正しい在り方とは言えない、ということなんだ」

「ソクラテス。こう言ってはなんですが、あなたはしっかりと事実を見ずに、お話をされているのではありませんか。感情は、だれに教えられなくても、皆が自然に知っている。本当にそうでしょうか。むしろ、たとえば子をなくしたときの悲しみ一つをとってみても、その内容も程度も人それぞれ異なるのであって、互いにそれを実感し合うのは、きわめて困難なことではないでしょうか。どうお考えです?」

「さて、どうなのかなあ。感情を測る道具がない以上、それはここで論じ合っても結論が出ないことのように思われるがなあ」

「では、その点について、あわてて結論を出すのは控える、ということにしましょうか。ただし、こういうことは言えるでしょう。ある人物が心に秘めている感情、それをありありと描き出すことができるのが詩人である、ということです」

「けれども、リョースケ。何度も言うようだが、そうした感情に支配され、理性を失ってしまうのは、立派なこととは言えないのだよ」

「そこですよ、ソクラテス。立派なこと、見習うべきことだけが書かれている必要はない。そうではなく、詩には、立派さとは何か、正しさとは何か、それらを考えるための材料が書かれているのだ、と考えるべきなんです。わたしも、ホメロスを読みましたが――といっても、ギリシャ語でではなく、日本語に翻訳されたものを読んだのですがね――別に自分の生き方の見本にしようとして読んだりはしませんでしたよ。ただ、ああ、人間はこんな気持ちになるのか、こんなふうに復讐に心をたぎらせ、こんなふうに悲しみに打ちひしがれるのかと、それを人間の在り方の一つの事実として受け止めたのです」

「しかし、あそこに書かれているのは、ただの人間ではない、神々や英雄たちの姿だよ、リョースケ。外国人である君は、その点を誤解しているのではないかね。あんな姿が、ぼくたちギリシャ人の見習うべき、神々や英雄の姿だと言えるだろうか」

「あなたも外国人のような目で、もう一度ホメロスに接してみればよいのですよ、ソクラテス。そして、そこに描かれているものを、人間の持つ生々しい一面として観察すればよいのです。そうすれば、あなたは、あなたの素晴らしい智慧をさらに豊かにできるのではないですか」

「リョースケ。ぼくは自分を智慧のある者だなんて、少しも思ってはいないよ。その点は、はっきり君に言っておこう。さて、そんな愚鈍なぼくにも、君の言いたいことがわかってきた。君のSM小説とやらにも、その人間の生々しい一面が記されていると、そう主張したいようだね」

「そうなんですよ、ソクラテス。他の人間を支配したい、支配している証拠として辱めてやりたい。あるいは反対に、愛する者から家畜のように扱われたい、完全に支配されて、その中で安らぎたい。そうした、ふだん人間が他人には見せずに理性で抑え込んでいる感情や欲望、それらがわたしの作品にはふんだんに描かれているわけです」

「どれも、立派な魂からは、排除したいものばかりのようだがなあ」

「しかし、そうしたものが人間の心の中にあるのは、事実です。だれの心の中にも、とは言いませんがね。しかし、少なくとも、わたしの心の中にあったからこそ、それが書かれたわけです。そして、そうした感情や欲望についてよく調べてみなければ、人間の正しさについても、誇りについても、決して十分に見極めることができないでしょう」

「ということは、君は、ぼくのさっきの話には満足できない、ということだね」

「そうですよ。感情をただ抑えつければ立派で正しい人物だなんて、そんな簡単な問題ではないと、わたしは思うのです。そこで、わたしは提案したいのですが、ソクラテス」

「聞かせてくれたまえ」

「理想国家からの詩人追放という主張については、もう一度、よく考えなおしてみよう、という提案ですよ。そして、わたしを追放することについてもね。ホメロスも、そして、ホメロスよりは腕はたいへんに劣りますが、このわたしも、人間が人間について考えるための材料を提供しているわけです。もし、そうした材料を提供する者がいなくなって、ただ、皆さんのお手本となる人物はこうした人物ですよ、というお説教ばかりが国にあふれたとしたら、たぶん、ソクラテス、あなたのような賢い人でも、きっと判断を誤ってしまうと思いますよ。考える材料がなければ、理性もやせ細るのです」

「うん、リョースケ。君の提案について、考えてみることにしよう」

「それから、もう一つ、ごく簡単に。あなたは、絵を真実の程度から言えば、三番目に位置するものにすぎない、とおっしゃいましたね」

「たしかに、そう言った」

「あれは寝椅子についての話でしたね。第一に寝椅子の実相(エイドス・イデア)があり、次に個々の寝椅子があり、三番目に寝椅子の絵がある」

「そう」

「では、絵の実相(エイドス・イデア)は存在しますか」

「ああ、その点については考えていなかったなあ」

「そうでしょうね。考えていたら、あのときお話しになったはずですものね。でも、本当ですか。わたしには、あなたがそのことについて考えなかった、とは信じられないんです。ひょっとしたら、考えてはいたが、ごまかしたのではないですか」

「わたしは、そんなことだけはしない男だよ、リョースケ。それに、今から二人で考えればいいことじゃないか。君の言いたいことはわかるよ、リョースケ。絵の実相があるとすれば、その実相に基づいて作られた個々の絵は、真実性において二番目になると、こう言いたいのだろう」

「そうです、ソクラテス。そして、絵の実相はと言えば、この世界に存在するものを、色と形によって人に示し、感じさせ考えさせる材料となるもの。詩の実相はと言えば、この世に存在するものを言葉によって人に示し、感じさせ考えさせる材料となるもの。とすれば、詩を真実性において三番目に位置するものだから追放すべきだとは言えないでしょう。なぜなら、実相に基づいて作られた個々の寝椅子と同じように、個々の詩も、詩の実相に基づいて作られた、真実性において二番目に位置するものだからです。そして、寝椅子がわたしたちの生活に役立つのと同様、詩もまたわたしたちの生にとって有用な何かであるということは間違いないでしょう」

「一応は、それで筋道が立つようだね、リョースケ。君は、ぼくが語らなかったいくつかの視点を示してくれたよ。語り合えてよかった。もっとも、ぼくにもまだ、君に話してあげたい、いろいろな考えもあるのだが、今日は少し時を長く過ごしすぎてしまったようだ。この続きは、また別の機会に、君の都合のいいときにやるということにしようではないか」
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表現の価値は公序良俗に反してこそ?

――と、こんな具合に、わたしの考えるソクラテスは答えてくれたわけだが、はたしてプラトンの語るソクラテスは、こんなふうにSM小説家に優しいかどうか、そこのところはわからない。しかし、わたしはプラトン研究家ではないので、その点はあまり心配しなくてよいだろう。また、わたしがここに書いたような反論は、哲学者たちがとっくの昔に試みていることかもしれない――あるいは、試みようともしない稚拙なものかもしれないが、その点もあまり気にしないことにする。わたしは、わたしのソクラテスに納得してもらえれば(もっとも、あまり納得もしていなかったようだが)それで満足です。

プラトンの描くソクラテス(わたしが想像するソクラテスではない)が、『国家』の中で語っている内容は、最終的には「公序良俗に反し、真実を歪める表現は規制すべき」という点に集約される。これに対して、わたしは最後に次のように言いたい。

公序良俗に一つも反しないような表現に、価値などないのではないか、そしてまた、歪んだ真実というものがたしかに存在するのではないか。

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プロフィール

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。

次回から美咲凌介の新連載がスタート予定です!

「SM小説家美咲凌介の名著・名作ねじれ読み」連載記事一覧はこちらから>

初出:P+D MAGAZINE(2018/09/25)

中国を深刻かつユーモラスに観察した対談本『私たちは中国が世界で一番幸せな国だと思っていた』
物語のつくりかた 第9回 野島伸司さん (脚本家)