連載対談 中島京子の「扉をあけたら」 ゲスト:原武史(明治学院大学名誉教授)

日本は議会制民主主義国家ながら、象徴天皇という存在を認めている世界でも珍しい国です。今上天皇の生前退位をきっかけに、現代における天皇とはどういう存在なのか、あらためて考えてみようと思います。天皇に関する著書を多く書かれている原武史先生にお話をお伺いしました。

 


第十三回
天皇が替わると、何が変わる?
ゲスト  原武史
(明治学院大学名誉教授)


Photograph:Hisaaki Mihara

連載対談 中島京子の「扉をあけたら」第13回メイン

原武史(左)、中島京子(右)

日本は直訴できない社会

中島 昨年(平成二十八年)八月八日に、明仁天皇から象徴としてのお務めについて「おことば」がありました。その「おことば」を受けて、天皇の生前退位についての議論が起こります。そして今年の通常国会で「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案」が成立、来年には新しい天皇が即位する流れになっています。天皇ご自身が生前退位の意向を示されたことに対して、世論は比較的好意的に捉えているようですが、先生は少し違和感を感じられたとお聞きしました。
原 日本国憲法に規定されている国民主権の原則からすれば、国民の側から天皇もそろそろお年だから退位されてもいいんじゃないか、という声が上がっても不思議じゃないんですね。でも、この国には天皇に向かって意見を言ったり、訴えたりすることに対して強いタブー感があります。直訴ができない社会なんです。これは別に今に始まったことではなくて、徳川時代も将軍に直訴することは、死罪を覚悟しなければならなかった。その感覚が明治以降も引き継がれているのです。足尾鉱山鉱毒事件を明治天皇に直訴しようとした田中正造が有名になったのも、めったにないことが起こったからです。あのとき田中正造は妻に遺書を残しています。
中島 最近では、原発問題に関する山本太郎議員の直訴もありましたね。
原 園遊会で手紙を差し出しただけで、一部のメディアからは「手紙テロ」だといって叩かれる。
中島 山本太郎議員のときは、天皇に何か解決してもらおうという発想が民主主義的じゃないなとも感じましたが。
原 そうですね。確かに彼の行為は、天皇を政治的主体として認めることになりますから、国民主権を定めた憲法第一条と矛盾する面があります。しかし、象徴天皇のあり方について国民が意見を表明することは全く矛盾しません。逆に、天皇をおそれ多い存在として祭り上げることこそ、憲法とはかけ離れた考え方なんですね。お隣の韓国では、十八世紀の朝鮮王朝時代に国王への直訴が合法化されているんです。
中島 それは、権力者に直接訴える伝統が、韓国社会の根底にある、ということ? 朴槿恵前大統領の弾劾で、市民が大統領府前に押し掛けましたが。
原 民主主義つまりデモクラシーは西洋で生まれた思想です。日本も韓国もそれをとり入れた。しかし直訴ひとつとってみてもわかるように、その国の伝統思想がどういうものであるかによってデモクラシーの内容もかなり違ってくるということです。
中島 なるほど。だから原先生は今回の天皇陛下の「おことば」を受けて、みんなが「ははーっ」となって従うような構図が、敗戦時の玉音放送のときと同じだとおっしゃったのですか。
原 そうなんです。日本人の本質は、あの頃とまったく変わってないと思います。昭和天皇が戦後巡幸で全国各地を訪れたときにも、天皇はどこでも歓迎され、ほぼ誰も生活の苦しさや戦争責任などを天皇に訴えようとはしなかった。これではまるで日本が戦争に勝ったみたいではないか。天皇制の復活を恐れるGHQは、一九四八年に巡幸を一時中断させるのです。
中島 天皇がなにをしたかにかかわらず歓迎してしまう日本人のメンタリティーに問題があると。
原 大問題ですよ。坂口安吾も昭和二十三年に書いた『天皇陛下にさゝぐる言葉』というエッセーで戦後巡幸を批判しているんです。「天皇が現在の如き在り方で旅行されるということは、つまり、又、戦争へ近づきつゝあるということ、日本がバカになりつゝあるということ、(中略)陛下は当分、宮城にとじこもって、お好きな生物学にでも熱中されるがよろしい」。続けて、国民から忘れ去られた頃に復興した銀座に散歩にでれば、人々はオジギもしないだろうが道ぐらいは譲ってあげるだろう。そういうことがもしできれば、そのときに初めて人間も復興したのだという内容です。
連載対談 中島京子の「扉をあけたら」第13回文中画像1中島 天皇だけに限りませんが、戦争責任を日本人自身の手できちんと問うていないのは問題ですね。いずれにせよ今回の生前退位の問題が、現代の天皇制と日本という国、そして我々国民との関係について深く考えるきっかけになったのは事実です。でも、今の天皇皇后に対しては、民主主義、平和主義を重んじる方々という良いイメージが定着していますね。
原 平成になってから、災害が多かったでしょう。それが天皇と皇后の存在を浮上させるきっかけになっていると思うんです。平成三(一九九一)年の雲仙普賢岳の噴火では、島原市の体育館に天皇と皇后が入ってくるなりいきなり二手に分かれて、ひざまずいて土下座するような感じで被災者に近づいていって耳を傾けましたよね。昭和天皇では絶対あり得ない光景です。保守派の人たちは反発したのですが、天皇皇后が続けることによって、いつの間にかそれが当たり前の姿になりました。
中島 国民と同じ目線に降りて、被災者に寄り添う天皇像は、現天皇が作ったスタイルなんですね。
原 阪神淡路大震災、東日本大震災など災害が起こるたびに被災地訪問を続けているわけでしょう。メディアも政府の対応の遅れは批判するけれど、天皇皇后の行動は美談としてとり上げる。被災者ももちろん批判はしないし、逆に涙を流して喜ぶ。そうすると災害が起これば起こるほど天皇皇后のカリスマ性がどんどん高まっていき、そこに政治や政府を介在しない天皇と国民の直接的なつながりが生まれることになります。

栄光の明治天皇よ、ふたたび

中島 それは少し怖い感じもしますね。天皇の生前退位の問題とはまったく別の方向から、「教育勅語」が注目を集めています。私は、幼稚園児が斉唱する姿を見て、違和感を覚えました。しかし現政権の中には、「教育勅語」を礼賛するような発言をしている人も多くいます。
原 政府はなぜ「教育勅語」を一概に否定したくないか。それは「教育勅語」が明治天皇のおことばだという背景があると思います。来年二〇一八年は、明治百五十年。政府には、明治天皇を持ち上げようというムードがあります。「文化の日」を「明治の日」にしようという動きがあるでしょう。それは明治天皇の誕生日が十一月三日だから。さらに生前退位で、天皇が代替わりする。二〇一八年はそういう年なんです。
中島 意図的か、偶然かわからないけれど、すべてが都合よく重なってしまった。でも、なぜ明治の復活なのでしょう?
連載対談 中島京子の「扉をあけたら」第13回文中画像2原 じつは大正から昭和になったときにも同じ動きがありました。大正天皇が亡くなり、皇太子である裕仁親王が天皇になったのが大正十五(一九二六)年十二月二十五日です。昭和元年はわずか数日で終わり、昭和二年になった途端に十一月三日は「明治節」という新たな祝日として復活してきた。これをきっかけに明治ブームが起こりました。大正最後の五年というのは、天皇の体調が悪化したため、皇太子が摂政を務めました。天皇がいるのかいないのかわからない中途半端な五年がやっと終わり、昭和になった。昭和天皇を栄光の明治天皇の再来として認識させようという政府の戦略がそこにはあったのだと思います。さらに明治天皇が全国を回ったときに滞在したり宿泊したりした場所を「聖蹟」としてたたえるキャンペーンを文部省が始めました。そのひとつが現在の京王線の「聖蹟桜ヶ丘」です。この駅の近くにある旧多摩聖蹟記念館は、明治天皇が何度かうさぎ狩りで訪れた場所なんですね。それまで「関戸」という駅名だったのを、「聖蹟桜ヶ丘」に変えたんです。
中島 ぜんぜん知らなかった。
原 先ほど申しましたように、現天皇が退位して新しい天皇になったとき、ふたたび明治ブームが起こる可能性がある。そこには昭和天皇のときと同じような戦略の匂いがします。現天皇は安倍政権に批判的と言われていますから、より政府にとってふさわしい天皇に変えたいという意思が働く可能性は否定できません。
中島 たしかに「文化の日」を「明治の日」にしようとか、変な動きがありますね。軍国主義的、全体主義的なイデオロギーが見え隠れします。
原 そうなんです。森友学園の「教育勅語」暗唱の光景はたしかに異様です。しかし戦後の民主主義教育の中では、集団を重視して、集団に一体化させるような教育が厳然と存在していました。「班」という呼び方がその象徴です。朝礼の「気をつけ」とか「前へならえ」などすべて軍事訓練の名残です。戦前の全体主義的な教育というのが、戦後教育の中に入り込んでいるわけです。それが戦後の日本では、民主主義の名の下に正当化されていた。そういうものに対して敏感でなければならないと私は思うんです。
連載対談 中島京子の「扉をあけたら」第13回文中画像3中島 日本人は全体主義への親和性が強いのかな。フランスに住んでいる姉から聞いたのですが、あるジャーナリストが「日本の少年院は素晴らしい」という記事を書いた。日本の少年院はものすごく自由で、子どもたちの自主性を重んじている。野球などのスポーツもやらせているし、しかも町の真ん中にあって、自由に出入りができる。地域のコミュニティーとも関係がいい。フランスの少年院とまったく違うと。
原 そのジャーナリストは、何かを勘違いしたのじゃないですか?
中島 そうなんです。よくよく読んでみたら、どうもこのジャーナリストは日本の中学校の丸刈りの野球部の少年たちを見て、少年院だと勘違いしていた(笑)。
原 それは面白い話ですね。でも、日本の戦後教育の本質をついているのかもしれませんよ。
中島 うーん、この国民性は、どこからきているのでしょう。
原 国民性というよりは、近代天皇制が確立される明治以降につくられた可能性があると思います。天皇制の基本とするところに「一視同仁」という考え方があります。天皇というのは民を一切区別しない。すべての民に同じように仁という愛情を注ぐ。
中島 「教育勅語」的に言うなら、日本国民はみんな天皇の赤子として平等、ということですね。
原 しかし一人一人が個人として天皇に訴えるということは全く想定していない。
中島 やっぱりそこから変えていかないとダメなんでしょうかね。みんな直訴から始めよう!(笑)

時代によって変わる天皇のイメージ

中島 明治、大正、昭和、平成、四人の天皇の中でもっとも存在感が薄いのが大正天皇です。でも、先生が書かれた『大正天皇』(朝日文庫)を読んで、これまでのイメージが百八十度変わりました。
原 病弱ではありましたが、自由奔放であまり天皇らしくない人でしょう。
中島 大韓帝国の皇太子と話したいがために韓国語を勉強したことなど、何ともいえず素敵なエピソードです。大正天皇の自由さは、日本の希望のようにも思えてきました。
原 どうしてあれほど自由な天皇が出てきたのか。病弱だったことは、大きいと思います。健康に不安がなければもうすこし型にはめて育てられたでしょう。東宮輔導(皇太子の教育係)になった有栖川宮威仁親王が、あえて自由に振る舞わせたんです。その影響もあってか、大正天皇は強制的な勉強をすごく嫌ったらしい。当時の宮中で学ぶべき外国語は英語ではなくフランス語なんです。それが韓国語ですから。
中島 いやいやではなく、自発的に勉強したから、韓国語が上達したのですね。
原 大正天皇を知ると、現天皇でも十分に権威的に見えます。被災地訪問にしても、人々が迎える場所も時間も決まっている。その関係性というのは崩れないわけでしょう。ところが、皇太子時代の大正天皇はどこに行くか分からない。訪問先の新聞も「予めいつ何ん時何処より御成あらせらるゝやも難計と心得、謹慎以て狼狽不敬の失態に陥らざる様注意ありたきもの也」などと書いてあるんです。
中島 まさに神出鬼没。こんなに自由度の高い天皇が存在したんだと感動しました。先生がお書きになるまでは、病弱な天皇というイメージしかなくて。
原 病気になったときに政府が病状をかなり詳しく発表したのも一因ですね。生まれたときから髄膜炎にかかり、それが完治しないまま今日に至っている、と。大正天皇像は政府によって作られた面があります。
中島 それは、ちょっとひどいですね。大正天皇は、本当に脳の病気だったんですか。
原 アルツハイマーだったという説もありますし、もっと別の病気だったという説もあります。いまだに原因不明の病で、だんだん立ち居振る舞いがおかしくなってくる。その姿を見ていちばんパニックになったのが、妻である貞明皇后だったと思うんですね。そして、息子の昭和天皇に対して、心から神の存在を信じて祭祀を行わなければ神罰が当たると言い始める。
中島 それで貞明皇后は、「神ながらの道」にのめり込んでいったんですね。
連載対談 中島京子の「扉をあけたら」第13回文中画像4原 明治天皇も大正天皇も、祭祀に熱心ではありませんでした。しかし貞明皇后は、大正天皇の病気を機に、祭祀を決してゆるがせにしてはならないと考えるようになる。昭和天皇も皇太子時代は祭祀に真面目ではありませんでしたが、貞明皇后は最も重要な祭祀である新嘗祭ができなければ、婚約していた久邇宮良子(香淳皇后)との結婚も認めないと言ったこともありました。戦争末期の一九四五年七月三十日と八月二日には、昭和天皇は宇佐神宮と香椎宮に勅使を派遣して敵国撃破を祈らせています。ここにも神功皇后に思い入れのあった貞明皇后の意向が反映していたと思います。
中島 神がかりの母親の気持ちに引っ張られて、戦争終結の判断が遅れたとしたら、致命的ですね。
原 高松宮もサイパンが陥落したところで戦争を止めるべきだと言ったんです。そのとき止めておけば、東京大空襲も沖縄戦も原爆も全部なかったはずです。
中島 それにしても大正天皇と貞明皇后は、大河ドラマにもなりそうな波瀾万丈な人生ですね。
原 天皇に対するタブーがなくなって、そういうドラマや映画を作れる時代が来るといいですね。
中島 来年の暮れに明仁天皇が退位をして、皇太子が即位をするといわれています。新しい天皇は、どんな天皇になると思いますか?
原 代替わりすると、かなり大きく変わると思います。たとえ憲法や皇室典範が変わらなくても、天皇が替わればスタイルを変えることができるんです。しかも、新しい天皇が即位すると、その前の天皇がどうだったか、みんな忘れる。例えば明治天皇は一度も御用邸を使ってない。休まなかったんです。ところが大正天皇は、夏と冬に何か月も日光や葉山に静養に出かけてしまう。さらに昭和天皇になると、二重橋に白馬に乗って登場する。とんでもないパフォーマンスです。
中島 あれは昭和天皇本人が考えたことですか。
原 それはわからないです。ただ大正時代にはなかった振る舞いをすることで、三島由紀夫が『英霊の聲』で書いたように理想の天皇像として映るようになるわけです。昭和から平成も、先ほど話したようにガラリと変わりました。代替わりするとその前の代ではちょっと考えられないような変化が起こるんです。
中島 本当ですね。皇太子徳仁親王は、どんな天皇になるのでしょう。
原 どう変わるか、今の時点では全く予想できません。憲法が改正されて自衛隊が軍隊化し、天皇がかつての大元帥のような存在として浮上する可能性もないとはいえません。しかし、逆の可能性もある。現在の皇太子は、山歩きが好きで、道程で出会う人々にも気さくに声をかけます。大正天皇のように自由な天皇を目指しているのかもしれない。個人的には、こちらの可能性の方に期待したいところです。
中島 皇居がバッキンガム宮殿くらい開かれた存在になる日が来たら、日本と日本人も相当変わっているような気がしますが。次にどういう時代がやってくるのか、しっかり見届けたいと思います。

構成・片原泰志

プロフィール

中島京子(なかじま・きょうこ)

1964年東京都生まれ。1986年東京女子大学文理学部史学科卒業後、出版社勤務を経て独立。1996年にインターンシッププログラムで渡米、翌年帰国し、フリーライターに。2003年に『FUTON』でデビュー。2010年『小さいおうち』で直木賞受賞。2014年『妻が椎茸だったころ』で泉鏡花文学賞受賞。2015年『かたづの!』で河合隼雄物語賞、歴史時代作家クラブ作品賞、柴田錬三郎賞を受賞。『長いお別れ』で中央公論文芸賞、2016年、日本医療小説大賞を受賞。

原武史(はら・たけし)

1962年、東京都生まれ。放送大学教授、明治学院大学名誉教授。専攻は日本政治思想史。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程中退。『「民都」大阪対「帝都」東京 思想としての関西私鉄』でサントリー学芸賞、『大正天皇』で毎日出版文化賞、『滝山コミューン一九七四』で講談社ノンフィクション賞、『昭和天皇』で司馬遼太郎賞を受賞。他著に『団地の空間政治学』『鉄道ひとつばなし』シリーズ、『皇后考』他。

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初出:P+D MAGAZINE(2017/06/20)

連載対談 中島京子の「扉をあけたら」 ゲスト:望月衣塑子(東京新聞社会部記者)
伊藤朱里さん『稽古とプラリネ』