ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第一回 時代が交錯する街

大阪のあいりん地区、横浜の寿町と並んで、東京三大ドヤ街と呼ばれる東京・山谷。戦後日本の高度経済成長を支えた労働者たちが住み着いていたかつての山谷には、「ヤマ王」と「ドヤ王」と呼ばれた伝説の男たちがいた。
そもそもなぜこの場所がドヤ街になったのか。戦後に一体何が起きたのか。山谷に魅せられたノンフィクションライターが突撃取材を続けるうちに目にしたのは、負のイメージとはかけ離れた人々の姿だった。

 

 南の夜空に、光の粒を明滅させたスカイツリーがそびえ立っている。日比谷線(みなみ)千住(せんじゅ)駅から伸びる吉野通りを歩き、(なみだ)(ばし)交差点のセブンイレブンを越えた辺りから、街は薄暗くなる。立ち並ぶ中層ビルはほとんど電気が消され、昭和から時代が止まったままのように古びている。深夜営業の店もない。界隈を照らし出すのは、行き交う車のヘッドライトや信号機のランプ、そして外灯だけだ。そんないつもの街並みを何気なく歩いていると、スーパー「まいばすけっと」の前でいきなり声を掛けられた。それはホテルへ戻る道すがらの、4月下旬のことだった。
「すいません」
 その声がする方を向くと、がたいの大きい中年男性が立っている。Tシャツに迷彩柄の短パン姿で、首にはタオルをかけていた。私と目が合った男性は続けて、今にも泣き出しそうな表情で言った。
「お金が一銭もなくて困っているんです。腹減ってんです。ラーメン食べたいんです。お願いしますよ」
「ラーメンなら何でもいいので。明日必ず返しますから」
 露骨に困ったような顔で何度も懇願するので、むげに断るわけにもいかなくなってきた。
「本当にお金がないんです。財布の中身もお見せしますよ」
 男性は、短パンのポケットから取り出した革財布と小銭入れを開けた。中から出てきたのは1円硬貨1枚。
「ラーメン食べたいんですよ。お願いします!」
 
ヤマ王とドヤ王第1回文中画像1南千住駅を出ると、スカイツリーが夜空に輝いていた(撮影:水谷竹秀)

 
 この男性はなぜ、こんなところで私にたからなくてはならないのか。物書きを生業にしているためか、ついつい好奇心が芽生えてしまい、私は「いいですよ。その代わりと言っては何ですが、少しお話を聞かせて頂けますか?」と伝え、「まいばすけっと」に入った。早速、カップラーメンが並ぶ棚に向かった男性は、「一番安いのでいいです」と言って95円の商品を素早く手に取り、「明日返しますから」とまた念押ししてきた。
 レジで支払いを済ませ、外に出て立ち話をした。男性は周辺の簡易宿泊施設に滞在し、生活保護を受給し始めて1カ月になるという。46歳という割には白髪が目立っていた。以前は群馬県のキャバクラでボーイとして働いていたが、借金が原因で荷物もそのままに社宅を飛び出し、ここ(さん)()へ流れ着いたのだという。話が長くなりそうだったので、別の機会にまたあらためようと、私は男性の宿泊先まで見送ることにした。その途次、どちらからともなく「今度飲みに行きませんか?」という話になり、男性と別れた。
 私は「まいばすけっと」の隣にある常宿、「エコノミーホテルほていや」に戻った。「ほていや」は山谷を南北に走る目抜き通りの吉野通り沿いに建つ。5階建て全71室で、部屋の広さは3畳。寝るだけならこの広さで十分だ。洋室と和室に分かれ、テレビや冷蔵庫、冷暖房が付き、Wi−Fi環境もばっちりだが、シャワー、トイレは共同である。これで1泊2900円。都心からやや離れているとはいえ、窮屈なカプセルホテルで寝るぐらいなら、こちらの方が格段に快適である。周囲のコンビニやスーパーはおしなべて値段が安く、今時50円台のソフトドリンクも販売されている。銭湯も散在しており、中には露天風呂や無料サウナも完備しているほどだ。部屋に戻った私は畳の上にあぐらをかき、カップラーメンの男性について考えた。
 山谷に通い始めて半年が経つが、たかられたのは今回が初めてだ。しかも、他にも歩行者がいたにもかかわらず、なぜ私が目に留まったのだろうか。

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