ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第一回 時代が交錯する街
金髪の外国人や就活生も集う街
南千住駅の北側に広がる一帯は新興住宅地域で、モダンな高層マンションやショッピングモールが立ち並び、駅の反対、つまり南側に位置する山谷地域とは景色が一変する。駅には歩道橋が架かっているが、それはまるで南北を分断するかのごとく立ちはだかっている。なぜなら山谷地域の住人が歩道橋を越えて北側に行くことはあっても、その逆はほとんどないからだ。山谷に出向く用事がない可能性が考えられるが、もう一つの要因はやはり、従来からのイメージである。
駅周辺の不動産屋を尋ねてみると、「山谷地域に物件を探す人は珍しい」と口を揃える。ある不動産屋の社員はこう言い放った。
「女性の1人住まいの場合は勧めません」
「おじさんが昼間から酒を飲んでいるイメージがあります」
真っ昼間から路上で酒盛り(撮影:水谷竹秀)
やはり世間一般には依然として、山谷地域の負のイメージが定着しているのだ。ところがここ近年は、そんな心象風景とはかけ離れた人々の姿を目の当たりにするようになった。小麦色の肌を露出させた、ブロンドヘアーの外国人女性、1人で宿泊する若い日本人女性、山谷を拠点に就職活動をする学生たち……。先日も、ほていやのロビーで黒いスーツ姿の若い女性を見掛けた。チェックインまで時間を持てあましているようだったので話し掛けると、九州から就活のために上京中だった。初めて山谷を訪れたという、その女性(23)は立命館大学の4年生。山谷の印象についてこう語った。
「確かにお酒を飲んでいるおっちゃんが多いなあとは思いました。ですが、私は米国サンフランシスコに留学経験があり、ホームレスの姿を見たり、銃声を聞いたり、喧嘩で車の窓ガラスが割れたりといった状況を経験してきましたので、ここがそれほど危険だとは感じませんでした」
彼女は、ここがかつて日雇い労働者の街だった歴史は知らない。それよりも就活のためにいかに宿泊コストを抑えるかの方が重要なのだ。
「内定がまだ取れていないので結構焦っています。今は売り手市場と言われていますが、人気のある企業はみんな応募するのでやはり難しい。将来的には海外と日本の架け橋になるような仕事がしたいと思っています」
沖縄から就活のために上京中の短大生(19)は、友人と2人で3畳の部屋に泊まっていた。
「アイロンも貸してくれましたし、ここで全然不便は感じません。想像していたより少し部屋は狭いですが、お風呂があって荷物を置くことができ、寝られればどこでもいいです。観光なら高いホテルでもいいかもしれませんが、就活なのでできればお金を掛けたくありません」
山谷で就活について話をするとは思ってもみなかったが、今やこうした日本人女性の姿は珍しくない。一方で、浅草に近いことから、山谷は外国人観光客にとっても人気スポットだ。欧米人だけでなく、中国やフィリピン、インドネシアなどアジア各国の観光客も出入りしている。増え始めたのは2000年前後で、帰山哲男さんの弟、博之さんが経営する「ホテルニュー紅陽」がその先駆けとなった。バブル崩壊による景気低迷を受け、客足を戻そうと数カ国語でホームページを開設したところ、外国人観光客が殺到し始めたのだ。
アルゼンチンから友人と3人で来日したゴンザロ・エスカミリヤさん(25)は、ネットで安いホテルを探していたところ、ほていやがヒットした。
「確かにこの地域に酔っぱらいは見掛けるが、特に問題は感じない。アルゼンチンの貧困地域なら違法薬物の密売人や拳銃所持者がいるからもっと危ないよ」
エスカミリヤさんは、幼少期の頃に日本のアニメを見て育ち、空手や柔術を習っていることから、いつかは観光で日本に来てみたかったという。
「高尾山に行ってきました。あいにくの雨だったけど。京都や長野にも行く予定です。日本はアルゼンチンと文化が全然違うね。私たちはハグをしたりとスキンシップが大切だけど、日本人は距離感が大事だよね。規律や順序を重んじる日本の文化は素晴らしい」
私がこのほかに山谷で出会った外国人たちは、ジャニーズのコンサートを見るために来日したインドネシア人女性、日本人の夫と一緒に毎回山谷に宿泊するフランス人女性、日本で働くために就活中の中国人男性など、実に国際色が豊かだ。昨年秋に知り合った米国人男性(60)は相撲と銭湯、そして作家、開高健の愛好家で、来日時は決まって山谷に宿泊している日本通だった。
外国人や若い日本人女性、就活生などが気軽に立ち寄れるという新しい側面がある一方、日雇い労働者の街と言われた昭和時代の名残が混在するのが今の山谷だ。そんな街の歴史を紐解きたいと、帰山さんに初めて連絡を取った時のことが今も思い出される。電話越しに帰山さんは語った。
「私の父は帰山仁之助といって、戦後の山谷復興に携わった中心人物です。山谷の王様ってことで『ヤマ王』と呼ばれていました」
さらに話を聞いていくと、山谷をつくったもう一人の中心人物が実在していたという。その名を「ドヤ王」と呼ぶ。ドヤは宿(やど)を逆読みした俗語で、日雇い労働者の簡易宿所や共同住宅を指し、否定的に言う場合が多い。そのドヤを親子二代にわたって最も多く保有している有力者だというのだ。
ヤマ王とドヤ王———————今は亡きこの2人の呼び名が、耳について離れなくなった。なぜ山谷が日雇い労働者の街になったのか。戦後に一体何が起きたのか。そしてなぜ、この街に簡易宿泊所が集まるようになったのか。静まり返った深夜の「ほていや」の一室で、缶ビールを手にした私は一人、好奇心にかられていた。
〈次回は8月27日(月)頃に更新予定です。〉
プロフィール
水谷竹秀(みずたに・たけひで)
ノンフィクションライター。1975年三重県生まれ。上智大学外国語学部卒業。カメラマンや新聞記者を経てフリーに。2011年『日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」』で第9回開高健ノンフィクション賞受賞。他の著書に『脱出老人 フィリピン移住に最後の人生を賭ける日本人たち』(小学館)、『だから、居場所が欲しかった。 バンコク、コールセンターで働く日本人』(集英社)。
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初出:P+D MAGAZINE(2018/07/27)